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幣原の蹉跌を踏めというゴキブリ官僚

2012年07月30日 13時51分10秒 | 防衛問題

日本核武装講座からの転載です。

「武力を用いることを余儀なくされるような事態になることは自分としては不愉快だし気乗りもしないが、しかし中国人は武力に対しては常に屈するが理屈には決して従わない国民だ」と言ったイギリスの外交官エルギン卿の言葉は、たしかに真実で、これは歴史の事実が証明しています。中国人は武力で負けた場合にのみ、相手を尊敬すると言われます。戦わずして屈した相手はとことん卑しむというのが彼らの考え方で、今の日本は、中国人に馬鹿にされているのです。外交官というのは、けっして日本の為を思う存在ではない事がよくわかります。歴史も知らず、ただ自分たちチャイナスクールのためだけに、中国の代弁者になっているとしか思えません。丹羽大使も中国の代弁者ですし、日本には日本の為の主張を述べる外交官はいないようです。

 

 

 

 
元外務省官僚「尖閣めぐって衝突すれば日本は必ず負ける」
 
東アジア問題を長く研究してきた孫崎享氏は先日、『朝日新聞』で「日本人にとって受け入れがたい事実だが、尖閣諸島は日本固有の領土ではない」とする文章を発表し、日本と中国、さらにはアジアで大きな注目を集め、日本のネットユーザーからは非難が殺到した。
 
よく日本人は「固有の領土」という言い方をするが、私はその様なモノは無いと思う。
飽くまで実効支配しているのはどちらであるかで決まる。
勿論、国境線が確定している場合は別です。
尖閣諸島は遥か昔に「日本領」と確定しているのですから、今更問題になる筈がないのです。
ただ、日本と支那が戦争になり、講和の条件として尖角を差し出した場合は支那領になります。
だから固有の領土という言い方は変だと思います。
孫崎が馬鹿なのは、尖閣だけを固有の領土で無いと言っている事です。
 
 
環球時報: 石原慎太郎氏の尖閣諸島購入計画をどのように考えているか。
孫崎享氏: あまりにも貧弱な発想だと思う。その理由は2つある。1つは、石原氏は尖閣諸島を 手に入れるために、何らかの行動をとり続けるだろう。そうなれば、中国が外交面や軍事面においてそれなりの反応を示すことは間違いない。これに対し、石原 氏が何の措置も採らないはずないが、彼は外交官でもなければ戦闘機も持っていない。このような人が尖閣諸島問題に火をつけても何の意味もない。
 
火を付けたのは石原都知事では無い。
火を付けたのは孫崎の大好きな支那である。
石原都知事は「支那に侵略されないように」と国の尻を叩いて来たが、国があまりにも何もしないので業を煮やして尖角を買うと決めただけ。
1980年代まで尖角の領有問題など皆無だったのだが、東シナ海に油田があるんじゃないか?と言われ始めるに至って支那が「俺の物だ」と主張し始めたのが発端である事は、今どきの日本国民なら子供でも知っている。
知らぬは外務官僚だけだったのか?
領土が今まさに掠め取られようとしている時に、黙っているのは政府と外務省だけだ。
 
 
もう1つは、争いのある地域についてどのように対処するかである。原則は双方とも緊張を高める行 動をしないことだろう。ところが石原氏の行動はまったく逆だ。領土争いが存在する両国にとって、争いを回避することこそがもっとも賢明な行動である。この 2点から見て、石原氏のやり方は間違っている。
 
支那人は争いを回避しようとする努力を弱さの表れと取る。
「日本は弱いから我々の機嫌を取ろうとするのだ。弱いヤツに遠慮する事は無い」というのが支那人だ。
支那人は水に落ちた犬は叩けという。それもまともな判断が出来る日本人なら子供でも知っている。
知らないのは外務官僚だけだ。
「武力を用いることを余儀なくされるような事態になることは自分としては不愉快だし気乗りもしないが、しかし中国人は武力に対しては常に屈するが理屈には決して従わない国民だ」
と言ったのはイギリスの外交官エルギン卿です。
この言葉は今でも有効なのです。
その証拠に、支那は南シナ海では軍艦を派遣し実弾をブッ放し、ベトナム兵を殺傷してフィリピンの警備隊に圧力を掛けています。
弱い者にはトコトン強いのが支那なんです。
支那に対しては弱くなったり情を掛けたりしてはならないのです。
 
 
環球時報:尖閣諸島問題をめぐって、日中間で軍事衝突が発生する可能性はあると思うか。
  孫崎享氏:あると思う。日中両国ともに争いを回避する意識がなければ、衝突は発生する。そのため、両国の指導者は、大局からすれば小さな出来事にすぎず、争いを避け、さらにそのための努力をしなければならないという一種の認識を持つ必要がある
 
戦争というものは互いに相撲のように見合って見合って、八卦良い残った!と始まるものではない。
今なら勝てると一方が思えば始まるのです。つまり日本が望まなくても支那が望めば始まります。
油断している時に後ろから斬りつけるのです。
争いを避けようと努力するのは良いですが、間違ったメッセージを発しないようにしなければなりません。
在中米国高等弁務官ハンフリー・マーシャルは「中国政府は武力及びそれを行使しようとする意志の存在する場合に限ってのみ正義を認める」とも発言しています。
彼の後任のロバート。マクリーンも「中国との外交交渉はカノン砲を突きつけた時のみ行う事が出来る」と述べています。

支那がアメリカに一目も二目も置くのは、強大な軍事力を持っているからです。
 
この先支那の経済が左舞いになり、国民の不満が高まれば、その吐け口を外国へ向けようとする事は別に珍しくありませんね。
 
一方がその気になれば戦争は始まってしまいます。
1937年8月13日には、上海近郊で支那軍による日本への侵略が始まりました。
蒋介石は西安事件での第二次国共合作以来対日戦を画策してきました。
半年前から第一次上海事変での停戦協定を破って、30000か所以上のトーチカ(コンクリートで覆われた機関銃陣地)と3線からなる塹壕を、第一次上海事変の停戦条件として両国で合意した非武装地帯に作り始めます。
支那の目的は、上海警備に当たっている5000人の海軍陸戦隊を攻撃すれば、日本から陸軍主力が救援に来るので、それを塹壕陣地へ誘い込み殲滅してしまおうというものでした。
日本さえ上海から居なくなれば蒋介石は関税収入を独占できるといった読みもあったのですs。
日本の歴史教育はサヨクによって捻じ曲げられているので、7月7日の盧溝橋事件が飛び火したなんて書かれていますが、火事じゃあるまいし飛び火なんかしないのです。
それとも飛び火で70万人の支那軍が攻めてくるとでも言うのでしょうか?
70万人の軍を動かすという事は事前に計画されていなければ出来ません。
蒋介石は最初から日本に戦争を仕掛ける気でいたのです。
 
共産支那も同様です。
共産支那成立以来、支那は周辺諸国と紛争を起こしてきました。それらはいつも支那から仕掛けているのです。
チベット侵略。ウイグル侵略。内モンゴル侵略。カシミール介入。ダマンスキー島事件。中越戦争。全て支那から仕掛けました。
 
外務官僚はこんな事すら知らないのでしょうか?
恐るべき馬鹿としか言いようがありません。

もしも1937年8月13日以前に、日本が停戦条件違反を言いたてて、武力を用いてでも約束を守らせるという決断をしていれば、日華事変は避けられたかも知れませんね。
実はこの時、対支融和外交を押し進めたのが外務省出身の政治家幣原喜重郎です。
幣原は日本は弱いという間違ったメッセージを支那に送ってしまったのです。
 
イメージ 1
 
幣原は北伐に伴う第3次南京事件で、日本人居留民が支那兵の略奪暴行に遭っているのに、軍の出兵に反対した人間です。
その動機は、米英との共同出兵に反対して支那に恩を売り、出し抜く事を考えていたのです。
それより以前には、租界の廃止を訴えています。租界とは外国が作ったのではなく、外国人封じ込めのために支那が作ったのです。
 租界の回収とは聞こえは良いのですが、外国から見ると資産の放棄、支那から見ると略奪勝手放題を意味しています。それが解らないのですね、幣原には。
結局、自分の事しか考えず、国全体が見えていないのです。
外務官僚は今も幣原をマンセーしていますから、「支那に尽くすだけ尽くせば何時かは振り向いてくれる」という幣原の間違った考えを疑っていないのでしょう。
幣原の過ちを繰り返せと孫崎のドアホはヌカしているのです。
 
環球時報:日中間で尖閣諸島をめぐる衝突が発生した場合、どのような結果になるか。

 孫崎享氏:軍事衝突が発生すれば日本は必ず負ける。尖閣諸島は台湾の近くにあり、台湾問題は中国にとってもっとも重要な問題であるため、中国の防衛の最前線でもある。軍事紛争が発生すれば、中国が尖閣諸島を獲得する可能性が高い。

核を持ち出された時点で日本の負けが決まる。
通常戦力では勝ち目がないのだから、支那は核を持ち出してくることは充分に考えられる。
そして、持ち出すか持ち出さないかを決めるのは我々ではなく支那である。
我々が我々の論理や感情で判断しても仕方がない。
 
しかし、中国は非常に強い軍事力を備えていても、尖閣諸島を獲得する積極的な行動はしないだろ う。中国にとってもっとも重要なことは国民の生活を保障することだからだ。国民の生活を保障するには国際市場が必要で、中国と世界の人々がうまく付き合 い、中国に必要な市場を確保しなければならない。このような状況は今後20年変わることはない。

世界にとって尖閣諸島という小島がどちらに帰属しようと大した問題では無い。
尖角で武力行使をしても、世界はそれほど気にとめない。所詮極東の小さな出来事で対岸の火事だからだ。
核を持ち出すか持ち出さないかを決めるのは我々ではなく支那であると述べた様に、やるかやらないかを決めるのは支那であって我々では無い。
ヘッポコ外務官僚が何を言っても、何の保障にもならないのだ。
 
環球時報:尖閣諸島問題を今後どのように対処すれば日中両国にプラスになるか。

重要なのは、両国国民も密接な日中関係と経済成長の相互促進こそが両国民にすばらしい生活をもたらすという同様の意識を持つことである。この点から言っ て、尖閣諸島問題を解決する最善策が見つからなければ、周恩来総理とトウ小平氏のやり方に沿って争いを棚上げすることが最善の手段かもしれない。

結局、そこで我田引水になる訳だ。
支那と付き合うには自分達外務省チャイナスクールが必要ですよ。もっと重用したまえ。とでも言いたいのだろう。
支那と付き合い始めて30年以上経つ。我々の生活が素晴らしくなっただろうか?
むしろ支那人犯罪者が増えて物騒になったというのが真相だろう。
生活保護が増えて財政を圧迫し始めたのが真相だろう。
支那人の脅威に怯えて暮らさなければならなくなったが、政府はさらに支那人を呼ぼうとしている。
支那人に生活保護を与えて養う言われは日本国民には無い。
支那と付き合い続けている限り、日本にはデフレ圧力が掛かり続ける。
 
日本の歴史は面白いもので、日本が支那と付き合うと停滞し、日本が支那と切れると発展する。
支那と付き合った平家は滅び、疎遠になった鎌倉幕府は130年続いた。鎌倉幕府 晩年には元が攻めてきて対支警戒せざるを得なくなって鎌倉幕府は滅んだ。足利幕府は支那と付き合ったので弱体だった。江戸時代に鎖国で疎遠になると270 年のミラクルピースが始まった。明治維新から支那と付き合わざるを得なくなって1945年大日本帝国は滅んだ。戦後支那と疎遠になって高度経済成長を達成 した。1980年から支那と付き合い始めバブルを最後に停滞している。
支那と政治的に疎遠になった小泉内閣時代には株高で一息ついた。

支那と付き合うと日本には碌な事がない。
支那と疎遠になると日本は発展する。

日本の神様は支那が嫌いなんだ。
 
そもそも外務官僚が日本の国益を増進させた事があっただろうか?
小村寿太郎を最後にしてそんな例は無い。
外務省チャイナスクールは、支那に赴任すると手厚い歓迎をされて舞い上がり、そのうち抱かされてハニートラップに嵌り、金も握らされて言いなりになる。
支那人の昔からの手口であるが、外務官僚なんて所詮はひ弱な受験秀才でしかないから良い様に操られるのだろうな。
孫崎なんてその良い例で、上記の記事は一言で要約すると、「支那には逆らうな」って事だ。
コイツは誰に養われてきたのだ?
 
 

転載元 転載元: 日本核武装講座

 

 


明治天皇のお話 明治天皇崩御から100年

2012年07月30日 13時00分09秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

明治に日本が世界の荒波に東洋の一小国として漕ぎだした時代、ロシアの脅威は日本の国の存亡の危機を感じさせずにおれないものでした。対応を誤れば、すぐにも、世界一の陸軍国と言われ、強大な力ですぐにも押しつぶされかねない恐怖が国民全体にあったことでしょう。この記事にある、ニコライ皇太子襲撃事件は、そんなわが国の恐怖が今にも現実化するような重大事件でした。

明治天皇は、日本の国と国民を如何に安泰に守りきるかに大変苦心されて、ロシアの皇太子に誠意を尽くされたようです。それはちょうど昭和天皇が終戦時に我が身を顧みずに終戦の決断をされたのと同じく、明治天皇自らの命にかえてもと思われたにちがいありません。

その後の日露戦争での毎日の御生活の様子の中にも、天皇という御存在が、わが子を守る親のごとくにひたすら身を挺して国と国民を思われ、祈られ、質素で慎ましい生活をなさる方だという事実に涙せずにはおれません。

 

 

 

 
 
今から100年前の今日、1912年7月30日、明治天皇が崩御されました。
明治天皇は五ヶ条の御誓文、教育勅語、軍人勅諭など我が国のあり方を示されました。
明治天皇が苦慮したのはやはり国家存亡のロシアの存在でありましょう。
 
その頃ロシアといえば、当時世界最大最強の軍国と言われていました。北欧からウラルを超え、北アジアを侵略し、これを東西に貫く鉄道で結ぶ大事業に取り掛かっていました。
このシベリア鉄道起工式にロシア皇帝アレキサンダー三世の御名代として皇太子のニコライ二世が出席の途中に日本に立ち寄りました。
 
軍艦7隻を従え、鹿児島、長崎を経て関西をめぐり、さらに東京から青森に向かいウラジオストックに渡る予定でした。当時の日本は人口3500万人、陸軍6個師、海軍はほとんどないに等しい状態でした。ロシアの軍艦7隻だけでも日本にとっては大脅威でした。
 
ニコライ皇太子は各地で遠慮のない遊興を重ね、日本側は国賓として最高の礼を尽くしました。
このニコライ皇太子一行については様々な憶測が流れました。
シベリア鉄道の最終点ウラジオストックという名は“東洋征服”という意味であり、この時期清国に対抗して朝鮮半島内にロシア勢力が浸食し始めていました。このような時に軍艦7隻も従え、ニコライ皇太子が鹿児島から青森まで視察するというのですから日本国民には“国難近し”という感じがありました。
 
明治24年5月11日、ニコライ皇太子の一行は京都の常盤旅館を出発、人力車を連ねて大津市を訪ね琵琶湖の風景を楽しんだ後、京都へ帰途に着きました。この行列は実に人力車40数台、ニコライ皇太子の随員として有栖川宮威仁親王、川上操六、滋賀県知事をはじめ、その行列の長さは200メートルにも及びました。
この長い行列が日章旗と提灯に飾られた中を通過中、警戒中の津田三蔵巡査がニコライ皇太子に挙手の礼をして見送ってから、突然帯剣を抜いて二度斬りつけたのです。
ニコライ皇太子が後頭部を押さえて車から飛び降りると、津田巡査はなおも追って斬ろうとしました。これを見たギリシャ親王殿下が竹のステッキで防ぎ、二人の車夫が津田巡査を引き倒して刀剣を奪い取りました。傷は後頭部に二か所で重傷ではないが深い傷でした。
 
日本側は驚愕しました。ニコライ皇太子は滋賀県庁に運ばれ、急きょ、京都、大阪から呼び寄せられた日本の一流医師の診療を拒絶して、京都の宿舎に引揚げ、神戸に停泊していたロシア軍艦から駆け付けた医師によってようやく傷口を縫ったのでした。
 
この事件を奏上すると、陛下(明治天皇)は非常に驚愕されました。
陛下は直ちに北白川宮親王を召され御名代として京都に行くように命じ、そして御前会議を開くと、事件の重大性が益々明らかになり、西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣を続いて現地に派遣することを決定しました。
その夜、陛下は寝室に入られようともせず、ついに深夜に至って、陛下自ら京都に行幸され、
「国民3500万人に代ってロシア皇太子にお詫びしたい」と仰せ出されたのです。
 
午前5時、宮城から新橋駅までの沿道にはすでに憂い顔の国民の群れが行幸を待っていました。
国民3500万人に代って、と言われた陛下のお言葉をそのままに国民は等しく日本国の運命と自分たちの命を陛下にお預けするほかなすすべはないと感じていました。
午前6時、陛下の横顔は深く憂いておられました。国民は目頭をぬぐい、顔を両手で埋めて拝む女たちの姿が多くみられました。
陛下は列車内で軽く仮眠されただけで、不眠と心労の中、京都駅に御着になり、そのまま御所に御入りになり、直ちにロシア公使、京都府知事等を召されてニコライ皇太子の容態を聞かれました。
 
時刻はすでに深夜でありましたが、常盤旅館に宿泊治療中のニコライ皇太子をお見舞いしたい旨を申し入れましたが、先方の侍医の意見で取りやめになりました。日本側から差し向けた橋本軍医総監、スクリッパー博士、高木、池田の両侍医も、先方から辞退され戻ってきました。
日本側の憂いは一層濃くなっていきました。
陛下はその夜、西郷内相、青木外相、土方宮相等を召されて善後策を協議され、寝所に入られたのは午前3時でありました。それからわずか1時間余りの午前4時40分には起床なされていました。陛下も重臣も、一様に不眠と緊張の疲れから目を赤くしておりました。
 
午前11時、陛下は馬車だけで常盤旅館に行き、ニコライ皇太子を御訪問なされました。
この時、陛下はこう仰せられました。
「殿 下の御来遊に際して私は国家の大賓としてお迎え申し、御通過地の官民も出来る限りの御行為を示したいと思っておりますことは、鹿児島、長崎両県で親しくご 覧になったことと思います。私は殿下の御入京を、しきりにお待ち申しておりましたのに、はからずも一昨日、大津において難に遭われましたことを深く悲しみ ます。ことに、遠く離れておられる御両親のお心配は、いかばかりであろうかと、お察し申しております。暴行者は早速係官に命じて国法によって処罰すること はもちろんですが、その罪は憎みてもなお余りあるものです。私は殿下が自重加養されて1日も早く御快復になることをお祈りします。今、殿下の御容子を拝して少しく安心致しました。御快復後は、東京その他の都において、私の国の風物を広く御遊覧下さいます様希望いたします」
 
この丁重な御言葉に対してニコライ皇太子は病床から次のように答えられました。
「思いがけない難に遭い、陛下の御来臨を仰ぎ、恐縮に堪えません。この難のために、貴国に対する感情を害することはありません。けれども、私の身体は、只今、本国の両親に伺い中でありますから、その指示を待つほかありません」
陛下はこのお見舞いを済ませて御所に帰られてから、有栖川親王と榎本武揚枢密顧問を速やかにロシア王室に差し向けて、当方の不注意を詫び、皇太子のその後の容態を伝えるように命令されました。
すると間もなく、ニコライ皇太子が常盤旅館を引き払って、神戸港外に停泊中のロシア軍艦に引き上げるとの急報に接したのです。
 
陛下は「先ほど、お見舞い申した時にはさようなお話は全くなかったに」
陛下は驚かれ、再び御所を出られ、常盤旅館で皇太子の出発するまで約1時間お待ちになり、
その後汽車で神戸まで御同乗になられました。
三宮駅に着くと陛下自ら先導に立たれてニコライ皇太子を弁天浜御用邸にご案内になりました。すでに夕霧があたりに立ちこめた桟橋に、ニコライ皇太子の頭部の白い包帯と、陛下の黒いお姿が心持うつむいて痛々しい限りでありました。
 
その時、桟橋の上に立ち止まったニコライ皇太子が、ポケットから煙草ケースを取り出すと、陛下はマッチをポケットから出され、火を点じて皇太子の煙草に近づけたのです。
陛下の心遣いのほどを察し、侍立していたお伴の人たちは皆瞼を熱くしたといいます。
 
ロシア王室は皇太子の安全をはかるため、19日にウラジオストックに帰るように指示しました。
このロシア王室の意向は日本側には通知されなかったため、陛下はじめ、皇太子一行の行動に協議を重ねるばかりでした。
軍艦は19日出港とのことでしたので、日本側は「御用邸に皇太子一行を招待して送別の宴を開きたい」と申し入れましたが、「治療上の理由」で謝絶されました。
その代わりに、ロシア側から「19日に陛下に来艦してほしい」という旨の申出を受けたのです。
この招待の指名は明治天皇、北白川宮、有栖川宮の他侍従長以下数名と政府関係者は青木外相一人でした。この招待を受けるかどうか閣議で大きな問題となりました。
 
「19日はロシア軍艦の出港の日であり、黒煙を上げている軍艦はそのまま陛下と皇族を人質としてロシアに連れ去るかもしれない」
「人質とまではしなくても艦内でどんな辱めを受け、どんな難題を持ちかけられ、強迫されるか知れない」
各大臣の憂いは皆同じでありました。
「如何なる国難が来ようとも、我々国民は陛下をロシア軍艦に送ってはならぬ」という意見の一致で、陛下に御辞退なさるように奏上しました。すると陛下はこう言いました。
「お断りする理由はない。悦んで御招待に応ずる。私の一身を以て日本国の危急を救い得るならば満足である」
一同、声をのんで沈痛な顔を伏せたままでした。陛下はかえって一同にこう仰りました。
「お前たちが心配するように、ロシアへ連れて行かれたら、その時はお前たちが迎えに来ればよろしい、お断りするのは無礼である」
こうして19日の午前9時、我が国の運命をかけた行幸でありましたが、陛下は御所を御進発されました。沿道には不安顔の国民で埋め尽くされていました。
陛下の御一行をボートでロシア軍艦にお送りした後、神戸埠頭には西郷内相はじめ、高官たちがそのまま立ち並んで陛下の御帰りをお待ちしていました。数千人もの一般国民の拝観者も、沖合に黒煙を上げている7隻の軍艦を見つめたまま2時間が経ちました。
 
午後2時、艦上の交歓は終わって、陛下は無事埠頭に帰りついた時、西郷内相は感極まって声を出して泣きだしました。これをきっかけに埠頭に「万歳!」の声が起こり、拝観していた国民からもどよめきが上がりました。
こうして7隻のロシア軍艦は西に向かって進発し、陛下は沿道の万歳の声の歓呼に包まれ、午後5時15分に京都御所へお帰りになられたのです。
以上、世にいう「大津事件」の頃の明治大帝と国民の苦悩でありました。
 
その後、明治大帝はロシアとの戦争だけはお避けになりたかったのですが、あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれる御言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
 
日露戦争の開戦から終戦までの約2年間、明治天皇はほとんど宮中からお出になられず、
戦地の状況をたとえ深夜であろうが報告するように指示されました。
開戦と同時に明治天皇は戦地の兵士たちを思い、ストーブを取り外されて、いかに冷え込む時でも手あぶりしかお使いになられませんでした。
しぐれして 寒き朝かな 軍人すすむ 山路は 雪やふるらむ
 
夏にはどんなに暑くても軍服をお脱ぎにならず、団扇も一切お使いにならずに御学問所で休憩もなく政務を執り続けられました。
暑しとも いはれざりけり 戦の場に あけくれたつ 人思へば
 
日露戦争の戦死者は八万八千余柱にのぼりましたが、明治天皇は戦死者の写真と名簿のすべてに目を通されたといいます。
日露戦争を勝利に導いた東郷元帥も、乃木大将も、黒木大将も、大山大将も、みな「陛下の御威徳によって勝つことが出来た」と述べています。
 
この戦より御食事がおすすみにならず、8年後に明治大帝は御隠れになるのですが、明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
 
小さな島国として短期間に世界に君臨することができたのは、明治大帝と国民がひとつになり、さまざまな苦難を乗り越えて日本を守り抜いたからであり、そのことで白人には絶対に敵わないと信じていたアジアの植民地の国々の人々に勇気と希望を与えたのでありました。
明治大帝と先人達が守り抜いた美しい我が国、強き我が国、を取り戻したいと思うのであります。
 
 
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」





日本人の忘れたもの・・・慰霊のこころ

2012年07月27日 22時01分30秒 | 日本人の忘れたもの

美し国(うましくに)からの転載です。

戦後、国のためという言葉が死後になって以来、私たちは国のために命を捧げた人びとのことも顧みなくなってしまいました。国家がその国のために命を捧げた人を国をあげて慰霊もしなくなリました。子孫はそんな人のいたことすら知らないままで過ごしています。世界の国々がみな自国の為に命を捧げた先人を敬い、永久に記憶に残そうと毎年セレモニーをおこなう中で、日本のみが戦没者をあえて心にとどめまいと心から消し去ろうとしているかのようです。

こうした子孫の仕打ちを英霊たちはどのような悲しみを持って見ているでしょうか。天皇陛下と一部の遺族だけが心から慰霊の気持ちを持たれているのでしょう。政府は終戦記念日にも、靖国神社に一人の閣僚もお参りしなかったのです。

これは、結局三木首相が私人表明の参拝をしたこと、さらに中曽根首相の時に中国の内政干渉を受けて参拝中止をしたこと、それらが民主党内閣で実を結んだと言えます。国家が英霊たちの慰霊を国をあげて行わなくても良いということにしてしまったのであり、それは英霊への裏切りと言えます。死者との約束を破る、こんなことが許されるのでしょうか。

 

 

 

天皇、皇后両陛下 御尊影「全国戦没者追悼式」 平成23年



今年も67回目の8月15日がやってきます。
筆者も例年姫路・護国神社に参拝、護国の神々を偲び、感謝の誠を捧げています。
日本全国で
戦没者追悼式が行われます。
大東亜戦争を知らない世代が日本の総人口の2/3になり、
戦没者追悼式典に参列される方々も高齢化が進み、戦没者に対する「慰霊のこころ」が年々気薄になっています
靖国神社では、粛々と参拝される遺族の方々の神経を逆撫でするような反日デモが毎年、靖国神社周辺にて行われています。
このような奇怪な行動は世界的に見てもわが国だけではないでしょうか?

平成12年8月12日、
バレンツ海において演習中、ロシア海軍・北方艦隊 の原子力潜水艦「クルスク」が沈没し、 乗員118人全員の死亡が確認されるや、各国政府は一斉に追悼 の意を表明しました。ロシア政府の事故への対応のまずさや情報の 隠匿が国際的に強く批判されましたが、それとはまったく別に 他国の軍人であっても、国家のために一命を捧げた人々に敬意 を表するのは国際常識です。

他国の将兵に対する追悼として感銘深いのは、大東 亜戦争の 緒戦、昭和17年5月31日に日本海軍の特殊潜航艇がはるば るシドニー軍港を攻撃した際のオーストラリア側の対応であす。  潜水艦で運ばれた3隻の潜航艇は、それぞれ2名の乗員が乗 り込み、シドニー港内の軍艦攻撃を図ったが、1隻は途中で防 潜網に引っかかり自爆、もう一隻は軍艦クタバルを撃沈するも、 砲撃を受けて湾外に出た所で沈没。最後の一隻は岸壁に激突し て故障したため、乗員の松尾敬宇大尉と都竹正雄二等兵曹は拳 銃で自決しました。
オーストラリア軍のシドニー地区海軍司令官グールド少将は、 小さな潜航艇で大胆にも軍港内に侵入して攻撃をしかけてきた 日本将兵の志気に感銘を受け、湾内に沈んだ2隻を引き揚げて、 松尾大尉ら4人の軍人を海軍葬の礼で弔いました。
そして次のように讃えています。

「これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も が認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このよう に鉄の棺桶に乗って死地に赴くには、最高度の勇気がいる。 これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧 げるオーストラリア人が果たして何人いるのであろうか。」と・・・・
海軍葬の模様はオーストラリア全土にラジオ放送され、松尾大尉ら 4人の棺は日本国旗で覆われ火葬に付された。特殊潜航艇は今 もキャンベラの戦争記念館に保存されています。

同日、マダガスカルのディゴアレス湾に停泊する イギリス海軍艦船に対しても、特殊潜航艇による攻撃が仕掛け られ、戦艦1隻、タンカー1隻が沈められた。これに対しては イギリスの首相チャーチルが、ノーベル文学賞を受けた「第2 次大戦」の中で、「二人の日本海軍軍人は祖国のために献身し、 類いまれなる功績をたてた」と賞賛しています。国同士 が戦い合っていても、祖国のために一命を捧げた英霊への尊敬 と哀悼の意は、人類として共有するまごころなのです。

しかし、日本政府は、
戦没者追悼式典は行われても、護国の神々の御霊に対しては、国を挙げて行なっていません。残念でなりません。
戦争を知らない世代に
慰霊の意味を理解するのは容易ではありません。


パリを訪れた日本人旅行者なら、かならずといって良いほど、ドゴール広場に立つ「凱旋 門」を訪れる。しかし、これがフランス国民にとっては戦歿同胞を追悼する記念碑であり、無名戦士の遺骨が埋葬されている聖なる場所だと知っている人は少な いだろう。第一次大戦に散った無名戦士の遺体が大正9年、パンテオン(万神殿、フランス国家に献身した文武の偉人の埋葬所)から凱旋門の下に移された。無 名戦士の一遺体にすべての戦没者者を代表させているのである。凱旋門とは生還した出征兵士を迎えるだけでなく、生きて母国に帰れなかった戦没者を迎える所 でもあるのであるのです。冗談を言いながら、記念写真をとっている日本人観光客の姿を「心ない」人々だと思っているフランス人もいるかもしれないのです。

 ハワイにある太平洋国立記念墓地では、日本人観光客は戦歿者の墓石を跨いだり紙屑を散らかすから、バスの中から見学してもらうことにしたと言われています。
 
 
 
坪本公一氏




水中慰霊祭


 

大東亜戦争中に沈められた我が国の軍艦や商船を水中撮影 し、そこでの慰霊、遺骨収集を行なっている方がいます。昭和11年生まれの大阪の坪本公一さ んです。(上記画像左)


昭和48年にトラック諸島を訪ねた時、海底に沈ん でいる日 本海軍の沈没艦船を見て、この艦と運命を共にした幾多の将兵 を思うと胸が痛くなった。もう一度本格的に撮りたいと再渡航 の準備をしている時に、テレビで「坪本さん達が今度トラック 諸島で水中慰霊祭をやる」との情報が流され、全国の遺族から 数千通の手紙と山のような供え物が送られてきた。  現地で富士川丸という沈没船の甲板に祭壇を作り、これらの 供え物をお供えして、水中慰霊祭を行った。これがテレビ放送 されて、また大きな反響を呼んだ。  トラック島で主人を亡くされた未亡人からは「海中慰霊祭の 最中にはずっとテレビに向かって手を合わせていました」とい う便りが来た。その終わりの方には娘さんの添え書きで「母を いつの日にか父の終焉の地に連れていきたい、それが私に残さ れた唯一の親孝行だと思います」と書かれてあった。  これに胸を締め付けられた坪本さんは、それからさらにグア ム、サイパン、パラオ諸島、フィリピン、ニューギニアなどを 巡って沈没艦船の写真撮影をし、遺族とともに慰霊祭を催して こられました。

坪本さんは、慰霊祭の体験を次のように語られています。  
皆さん、現地へ向かう途上ではわりとなごやかなんです が、いよいよその海域に到着して慰霊祭に臨むと様子が一 変します。故人の名を泣き叫ぶ方。故人からの最後の手紙 をそっと開き、涙される方。ファィンダーが涙で曇って見 えなかったことが幾度あったことでしょう。  
レイテ海戦に参加した戦艦「扶桑」乗員のある遺族は、 海面をじっと見つめ、「兄貴、来たぞ!」と叫んだ瞬間、 ぽろぽろ涙が海上にこぼれ落ちました。「兄貴、一緒に帰 ろうな」と、レイテ島の石を拾い、それを兄と思って持っ て帰るというんですね。  慰霊祭の後、甲板の縁に駈け寄って「親父」と叫んで海 に飛び込んだ男性もいました。お父さんの顔も知らずに育 った遺児の方でした。真下にお父さんが眠っている。「こ れで俺も親父と一緒になれた」と。
終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。
それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。 彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。
沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、即座に「行く」という答えが返ってきた。
二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」と言ったが、彼は 「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」
と言う。結局水深二十五メートルまで潜り二人で慰霊を行った。船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる上等機関兵だったという。
自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、そこで部下全員の命を失った。
六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、一体いかほどのものであっただろう


 そういう思いが喉まで出かかって戦後を生きて来た人が たくさんいる。そして報道などで私のことを知って「ア ッ」と思うわけです。故人終焉の地に行って慰霊したいと いう長年の悲願を叶えたいと、ワラをもつかむ思いで私に 連絡して来られるのです。こういう遺族の心に思いを馳せる時、我々の心は自分の事ば かり考えて個我に閉じこもった状態から、他者に向かって開か れた状態になり、他者の苦しみ、悲しみを感じ取れるようにな る。それが慰霊の心である。
戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、 太平洋各地にいまも残る艦船は、
沈没した当時のまま、英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

しかし今日の日本を考える時、私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を思わずにはいられない。

坪本氏の嘆きは、護国の神々の御霊の嘆きであり、瀕死の状況にあるわが国への、わが民族への警鐘でもあるのです。

「海征かば 水漬く屍・・・」
67年の歳月、虚しく波にいたぶられてきたのかと思うと、心が痛み、言葉がありません。
わが民族の護るべき「誇り」の為に、莞爾として散りし御霊に国家は何を以って報わんや・・・・
敢然と散りし御霊に幾多の御霊に、後世の我々は如何に応えん・・・

 

転載元 転載元: 美し国(うましくに)

 

 

 


お前たちはそれで我慢しろ!

2012年07月26日 01時35分42秒 | 防衛問題

日本核武装講座からの転載です。

日本のマスコミは、どうして、視点が市民運動の主張のみを取り上げて安全性を論じるだけなのでしょうか。何故日本の領土の国防という視点で記事を書いている新聞がないのでしょうか。まるで、そうした視点をあえて国民に気づかせないようにしているかに見えてしまいます。

中国紙でさえも、尖閣諸島を守るためという視点で書いているのに、自国の新聞がそれを書かないとは、あまりに変ではないでしょうか。日本の新聞は中国政府の御用新聞ではないかとさえ思ってしまいます。実際に、日中報道協定で、中国に不利なことは書かないというジャーナリストの心情に反する協定が結ばれているのだから、まさにその通りなのかと思います。

 

 

オスプレイを積載し関門橋の下を航行する「グリーンリッジ」(22日午後8時24分、読売ヘリから)=佐藤俊和撮影

米軍が日本に配備する垂直離着陸機MV22オスプレイ12機を載せた民間貨物船「グリーンリッジ」は22日夜、山口県下関市と北九州市の間の関門海峡を通過し、瀬戸内海に入った。

 23日朝に山口県岩国市の米軍岩国基地に到着後、ただちに機体の陸揚げが開始される予定だ。
民間の貨物船(RoRo船)で来るとは思わなかった。
てっきり揚陸艦でくるものとばっかり思ってました。
 

オスプレイに与党反発=原発再稼働問題も再燃

時事通信 7月20日(金)21時40分配信
 
米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米軍岩国基地(山口県岩国市)への23日搬入をめぐり、与党内で配備に反対する声が相次いでいる。
 
~~~~~~~~中略~~~~~~~
 
民主党の前原誠司政調会長は20日のインターネット番組で「事故が起きた場合、基地そのものの存続に大きな影響を及ぼすし、日米同盟の足元を崩すことになる」と強い危機感を示した。
 オスプレイは岩国基地での試験飛行を経て、10月には米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に配備される計画だ。計画を強行すれば、沖縄県民世論が反米一 色に染まりかねないとの危惧も前原氏にはある。前原氏は同日、国会内で国民新党の下地幹郎幹事長と会談し、オスプレイ配備に反対する考えで一致。23日に は首相に配備延期を申し入れる予定だ。
 また、民主党の護憲派議員を中心とした「リベラルの会」の平岡秀夫元法相らも20日午後、首相官邸で斎藤勁官房副長官と会い、事故原因の究明や安全性の再確認、配備先自治体の理解などの条件が整わなければ、配備しないよう求めた。 
 
 
聞いた話なのだが、日本に配備される海兵隊仕様のMV-22の事故率10万飛行時間当たりの事故率は1.93だそうだ。
ヘリコプターを含む海兵隊機全体の10万時間当たりの事故率は2.45であるとの事。
これだけ見ると配備されるMV-22という機種は特段危険とも思われない。
これが空軍の特殊作戦用のCV-22ってヤツだと、13.47になるらしいから、確かに危なそうだというデータが出ている。
新型であるから技術的錬度的に未成熟であるのと、特殊作戦用だから急激な操作も要求されるからなのでしょう。
それよりアメリカ側はエラク日本に気を使っているなあという印象がある。
国防副長官が来たり、大統領補佐官が来たりして政府と協議を行っている。
安全性が確認されるまで飛行試験は行わない・・・・・・なんて発言までしている。
 
これが韓国辺りへ持って行ったりした時には『お前たちはそれで我慢しろ!』というような態度に出るんだろうなあ。
韓国人の扱い方というマニュアル通りの対応なんだろう。
・米軍による韓国兵の扱いマニュアル
 1.韓国人には強気で押せ。抵抗する場合は大声で命令しろ。
 2.命令を聞かない場合は身体で解らせろ。
 3.同じことをくり返す場合、犬のように何回でも同じ様に叱れ。
   こちらが上と言うことを身体で解らせろ。
 4.理由は聞くな。どうせ大したことは言っていない。
 5.身体で解らせた場合、根に持つ場合があるので、後で身辺には気をつけて行動しろ。
   但し、徹底的に解らせる迄、手を抜いてはいけない。
 6.相手を3才児と思い、信用したり頼りにはするな。重要な仕事は任せるな。
日本国民も見習わねばならない。
 
だいたい自分たちの国を自分たちで守ろうとしないヤツらが、何を言ったところで鼻であしらわれるのは仕方が無い事だ。
守って頂いている分際で、これが嫌だの、あれが嫌だの言える立場では無い。
「お前たちはそれで我慢しろ!」
こう言われても返す言葉は無いだろう。
 
アメリカが日本を守るのは当たり前だ???
なんでそう何時もお客様目線なんだろう?
脱原発とよく似た現象で、今まで何の疑問も無く原発で作られた電気を使い放題使っておいて、何かあると手のひら返して「どうしてくれる」と喚きたてる。
これじゃまるで韓国人だ。
いずれアメリカが日本人の扱い方マニュアルが韓国版と同じになる日も近いんじゃないかと思う。
 
マスゴミもいつもの通り煽り専門で、自衛隊では既に廃止された老朽ヘリコプターCH-46が今後も飛び続ける事の危険性を言わない。
でなければ支那から「そう言え」と指示されているのだろう。
 
アメリカが日本に対して『お前たちはそれで我慢しろ!』という時があるとすれば、日本に対して支那の核が使われるか、核恫喝があった時でしょうね。
アメリカは日本を守る事になっていますが(飽くまでもなっていますです)、支那と核の投げ合いなどする筈がありません。
ヘンリー・キッシンジャーも、
「超大国は同盟国に対する核の傘を保障するため、自殺行為をする筈が無い」
と言っています。
元CIA長官、スタンスフォード・ターナー海軍大将も、
「もしロシアが日本に核ミサイルを撃ち込んだ場合、アメリカがロシアに対して核攻撃をかける筈が無い」
と発言しています。

一方、日本では自民党の「兵器オタ」縊死罵が、
「アメリカは日本が核攻撃を受けた時には日本を守らないと言っている人がいるが、私は守ると思う」
と寝惚けた事をヌカして失笑を買っています。
百歩譲って、双方とも嘘を吐いていないとしましょう。そうした場合考えられる事は、「守るといっても色々あらーな」って事です。
アメリカが仲介に立ち、講和条約の仲立ちをする・・・・・必然的に日本が不利な条件を飲まされる訳です。
そう言う時に出てくる言葉が、
『お前たちはそれで我慢しろ』
です。
「嫌なら手を引く」と。
 
こうならないために、我々は何をすべきでしょう?
土下座?
友愛?
どれもペケです。
支那は確信犯として侵略を行っているのです。支那が核を持ち出さないと言う保証はどこにもありません。
さらに、核は核でしか抑止出来ないのです。
土下座も友愛も通じません。
答えは
 
核武装
 
しかないのです。
 
自分の国は自分で守る。
こんな当たり前の事が出来ないから、特亜からは馬鹿にされ、嫌だというものを持ちこまれるのです。
脱原発の胡散臭いところは、千年に一度の災害に備えていなかったから原発止めろという反面、日本が核を持つ事に反対している事です。
つい67年前にあった事に備え無くて良いと喚き散らしているのです。
小林よしのりじゃないけれども、原発止めろと言うのなら核を持てと言わなければ理屈が通らないのです。
脱原発という連中の裏には何が居るのか?
馬鹿じゃ無ければ解るでしょうwww
 

日本民族国家の形成と天皇御存在の意義(対談)  8

2012年07月22日 16時14分00秒 | 歴史
サイタニのブログからの続きです。今回でこの対談は終わりです。

前回から、国家のエゴイズムは何で抑えるかという問題が話されています。戸田氏は天皇の御存在の中にそれを抑えるものがあると考えておられるように伺えますが、福田氏や村松氏は、それは天皇個人のことであって、国家はまた別であると考えられておられるようです。しかし、私には戸田氏の考えが実は日本の国の一番本質を表しているのではないかと考えられます。

福田氏や村松氏は天皇の個人(この場合は昭和天皇)の性質が、吉田茂首相の言うように天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ る。特別の方だという御存在だとしても、それは長い歴史の中で培われた帝王学が天皇という存在をそのようにしていても、それはそれ以外の多数の日本人とはまったく別もので、それは国家を規定することにはならないといわれます。

しかしそれは他の君主国、あるいはちょうど天皇機関説のように天皇を捉えるということではないでしょうか。もし、幕末やそれ以前の日本人、特に古代や上代の日本人が天皇を恋い慕うような思いで日本の国は天皇国家だというふうに自覚すれば、元首である天皇の無私の精神、常に民安かれ国安かれと祈られ、また天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ るという天皇の思いを国民が自己の中に受け止めようとするのが、本来の日本人のあり方だったのではないかと思います。

日本人は国家を家庭のようにみなし、天皇を親や家長という感じに近い敬意を抱いてきました。そんな国民と天皇の絆が、国内での個人のエゴイズムを抑え、同時に国家自体のエゴイズムをも抑えて、天皇の名を辱めない国家としてのあり方を求めてきたのだと思います。神州、神国という言葉が、単なるお国自慢になってしまうのではなく、道義国家としてのあり方を求める自律心にもつながる言葉ではなかったかと思います。それは決して他国を貶める言葉ではなく、自己へ向かう言葉であったと思います。

北畠親房の書いた『神皇正統記』は、「大日本は神国なり」という巻頭の言葉から始まります。しかし北畠親房は、この言葉に日本人としての誇りは感じていますが、同時に釈迦を生んだインドを敬い、孔子孟子を生んだ支那を尊ぶ人間なのです。親房において神国という言葉が、けっして外国を貶めるものでなかったことは確かで、それは日本人としての自己を規制する言葉であり、日本人としての生き方を表す言葉であったと思えます。

このような過去の日本人の持つ感覚を呼び覚ませば、けっして国家のエゴイズムを助長するような愛国心はありえないと感じます。日本人の道徳上の潔癖さは神道から来ている場合が多いと私は思っています。スポーツにおいても、日本人はルール違反をしてまで勝つことを潔しとしない国民性だと思いますが、そうした文化的基盤、日本人的思考法、そうしたものをよみがえらせることで、戦後の自虐史観と権利主義からはびこった道徳の堕落、国家や団体のエゴイズム、さらには卑屈さというものを払拭する鍵があるのではと思っています。









 
 ―戦中の一億玉砕が戦後の非武装中立で、まるっきり裏返しとなってし
まった。国際関係と無関係に「平和」に生きようとする安穏の国―
 
 
福田 いや、国家、今までの杜会という概念に対して国家という概念を日本に植えつけること、そのことは必要ですけれど、日本が世界に冠たる国だと、そんな事をいいだしたら、みんながお国自慢を姶めて、イギリスは"冗談じゃない、オレの方がお前達より優れた国である"とか、フランスは〃そうじゃない。とか、お国自慢してたら、これはもうまとまりがつかない。さっきのキリシタンの話じゃないけど、人間の普遍性と結びつかない国家主義というのは危険だというのです。いま、へたをするとそっちへ行く心配がある……。
 
戸田 その問題について、私は今上天皇の御歌を拝してますと、そういう危険はむしろないと思われるんです。むしろその点で陛下の御歌を鏡として仰がなきゃならない点が大いにあると思う位なんですが……。
 
村松  それは天皇御個人のことではそうかもしれないけれど……。亡くなった吉田茂さんがいっておられたそうですね。しょっちゅう国家のことを考えているのが政治 家である。日本では派閥や地盤にみんな気をとられて国家のことしか考えない政治家はまれなんだけれど、天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ る。特別の方だ、ということをいっていたそうです。
 
戸田 そうでしたか。

村松  ええ。だから陛下のことは別で、まあ、帝王学という背景があるわけでじょう。それと、日本国民全体とはまた自ら別でして、日本国民がみんな帝王学を習って いるわけじゃない。むしろ日本人は今でも鎖国的心情の中で生きていて、そのへんは変らないと思うのです。敗戦直後にアメリカ軍が日本人のことを称して、 「日本人は主観的に戦争をしてきた」といったそうですが、そのとおりだと思います。いま日本人は、主観的に戦争ではなく平和を、世界情勢と関係のない状態 で生きている。戦争中の一億玉砕が戦後の非武装中立で、まるきり裏返しで同じものでしょう。長沼判決なんていうのは、いざとなったら竹槍ということですか らね。全く日本人はその意味では戦前も戦後も変らないものを持っている、あらわれ方が違うだけですよ。世界的な脈絡の中で生きたことが、残念ながらないです。ということがおっしゃるように最大の弱点かもしれないですね。
 
戸田 僕は人間というのはやはり、絶望というか、悲観というか、それに耐えられないものがあって、日本人はこの悲観、絶望に徹底すればその底からはい上るように、それからの脱却を意志するんじゃないかと思いますがね。
 
福田 普遍性の問題。当面では、さっきの村松さんがおっしゃったイデオロギー戦争と結びつくんですが、共産主義、或いは全体主義杜会と自由主義杜会とは、デタント(緊張緩和)とか何とかいっても、二つが対立していることは事実で……。
 
村松 私はデタントというのはどこにあるんだか、さっぱりわからない。()

福田  あれは次の闘争までの時間稼ぎですもの。その中で、いきなり世界連邦なんて考えられない、自由主義社会と全体主義社会とは、どっちが人間の普遍性というの を生かすものかということを考える必要があると思うんです。話すと長くなるけれど、私は自由主義杜会の方が、いまいろんな弱点が出てます。ヘタすると確か に、自由主義杜会の危機かもしれない。ソルジェニーツインのいっているように、〃自由主義杜会はすでに負けたんだ"と いうことは当っているかもしれない。しかし長い目でみれば、こっちの方が普遍的なものを持っていると思う。私は少なくとも自由主義社会の一員であるとい う、その自覚というものを、はっきりさせなきやいけないと思う。手近な問題で、それを考えるんですよ。そのぐらいのことしか考えられない。


                                                      昭和50年
 
 
戸田  僕は、多神教の世界というものが、世界史の上で果した貢献は余り評価されていないのをかねてから残念に思ってました。多神教は、寛容の宗教として寛容の世 界を生んできたものです。ところがある意味で一神教を中心とする西欧の世界の歴史は非寛容の、それこそ血で血を洗う血なまぐさい歴史じゃなかったですか。
 
村松 マルクス主義というのは一神教で、一神教の排他性をじつにつよくうけづいでいますね。
 
福田 しかし、寛容の精神でいくと、等距離外交が一番いいということになる。三木さんが寛容の精神で、あれでは困る。或る意味では峻厳の精神を入れなきゃいけない。その寛容と峻厳とは二元論で両立させなかったら、人間の普遍性に達しない。ど ちらか片一方、例えば男性的と女性的と、「ますらおぶり」と「たおやめぶり」とを向立させなかったらダメです。「たおやめぶり」が日本の民族性だというこ とに決めちゃうと、これはもう誰とでも寝た方がいい、強姦されるのが一番いい、抵抗しちゃいけないということになっちゃうんですね。()
 
戸田 それは日本の「憲法」を解釈して、防衛軍のないのがよいのだというのに通じますね。他国の平和意志に信頼して貞操帯はなくてもすむんだという、強姦のない世界を夢想するみたい・…。
 
福田 ええ。私は寛容というのは日本の美徳とは限らない。それは、日本人は寛容だけだとは限らないと思いますね。激しいものも持っていると思います。両立しないといけない。
 
戸田 僕は、例えば聖徳太子のおことばに、自已を絶対化しないという意味での本当の寛容の精神を拝しますが。それは、今お話の峻厳の精神を含むことと矛盾しないと思うんです。そういう宗教精神は問題になりませんか。
 
福田 日本国、というと絶対化しやすいのです。自已は絶対化しないくせに。日本国というと絶対化しやすい。それは一体どこから出てきたか、もう少し究明する必要があると思います。
 
村松 いまは平和憲法が絶対化されてますからね。
 
福田 それと同じですね、右翼も、左翼も共産主義というと、絶対化しちゃう。そういうものが危険だと思う。ナショナリズムとインタナショナリズムとが同時に存在しうるという点で、私は自由社会というものにまだ、一るの望みを托しているわけです。せめてそれにコミツト(関与)する姿勢をはっきりさせるべきだと。その中でいろいろ利害のとりひきはありますよ、もちろん。

戸田 まだまだ話は尽きませんが、今日のところは肝腎のところを大体お出しいただいたと思いますので、この辺で終りにさせていただきます。大変有難う存じました。
 
 
                                           「昭和史の天皇・日本」より (完)



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