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トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件

2010年11月10日 18時00分00秒 | 歴史
 ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土を訪問しました。終戦後ロシアが不可侵条約を破って、既に停戦している日本の千島樺太から、侵略を開始し、多くの民間人を残虐なやり方で、虐殺しました。それに対して、武装解除していた日本軍は、民間人を守るために再武装して戦いました。
その後さらに停戦の支持で、武器を置いた日本軍を故郷に帰すと偽って、船に乗せ、シベリアに連れてゆき、食料も暖房も十分に与えない過酷な状況で、強制労働をさせ、いろんな施設建設に従事させました。多くの元日本兵がこの抑留生活でなくなりました。
 このような非道なロシアは、長い歴史の中でつねに南下政策を取り、日露戦争も、ロシアの南下に対して日本が防衛戦争をしたものですが、同じようにロシアの南下に悩まされていたトルコも、なんどもロシアと戦争をしています。つねにロシアに負けていたようですが、それでも何とか南下をくい止めていたようです。


 そんなトルコと日本の友情のお話です。ご存じの方も多いと思います。
以下はねずきちのひとりごとから転載した記事です。記事にはトルコより友情のしるしとして送られたケマル・アタテュルク像についてのことも書いてあります。この像についての話は知りませんでしたが、この像についての扱いの酷さは日本の大きな恥となったと思います。ゆるせない話だと思い、二度とこのようなことのないように願って、この記事を転載させていただくことにしました。

ここから転載


トルコ軍艦エルトゥールル号



明治23年(1890年)の出来事です。トルコ皇帝ハミル二世が日本に派遣した特使一行を乗せたトルコ軍艦エルトゥールル号が、帰路、暴風雨に遭遇してしまいます。

そして、和歌山県串本町沖合で、岩礁に衝突し遭難した。

この遭難事故で、トルコ特使を含む518名が死亡してしまいましたが、死を免れた69名は、地元漁民の手厚い救護により一命を取りとめます。

このとき串本の村人たちは、台風により漁ができず、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介護しました。

貧しい村人たちにとっても、ほんとうに命がけの救助と介護だったのです。
そして遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。

エルトゥールル号の乗組員たち



この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられます。

後日、遭難者たちは明治天皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられました。

この話に同情した山田寅次郎という人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡ります。

明治25(1892)年、イスタンブールに上陸した山田寅次郎は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト二世に拝謁します。

山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。

この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャがいます。

そのケマル・パシャこそ、トルコ革命の指導者であり、トルコ共和国の初代大統領、トルコ共和国の建国の父といわれるトルコの大英雄です。

イラク戦争



時代は下って昭和60(1985)年。
エルトゥールル号遭難から95年後のことです。

イラクのサダム・フセイン大統領が、

「今から四〇時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機をすべて打ち落とす」と宣言します。
3月17日のことでした。

イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かおうとしたのだけれど、緊急事態です。
どの飛行機も満席で乗ることができません。

世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したのだけれど、残念ながら日本政府はすばやい決定ができなかった。

自衛隊機の出動は、海外への派兵は憲法違反にあたると、当時最大野党であった社会党(いまの社民党)が猛反対したのです。

民間では、政府系航空会社である日本航空社内で、共産党や社会党系の乗員組合が、運行を拒否を宣言する。

平素、ひとりの人命は地球より重いようなことを言っておきながら、現実に日本人の命が危険にさらされたとき、能書きをたれるばかりで人命を救おうとしない。
阪神大震災のときと同じです。


そして、日本人だけがテヘランに取り残された。
宣言の刻限は、刻々と迫ってきます。

空港にいた日本人は、パニックに陥る。



そのとき、一機のトルコ航空の飛行機が到着します。


トルコ航空の飛行機は、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。

タイムリミットまで、わずか1時間15分前のできごとでした。

このとき、なぜトルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

トルコ航空




 さて、ここで考えなければならないのは、なぜトルコが危険を
冒してまで邦人を助けたのかということであるが、この疑問に対
して朝日新聞の記事はこうである。

 すなはち「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化している
こと」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いてお
しまいなのである。

 自国の歴史に無知とはこういうことを言う。日本とトルコには
歴史的に深いつながりがあるのだ。この記事を書いた記者が知ら
ないだけである。

 無知だけならまだしも、金目当ての行為であったかのように書
くとは冒涜もはなはだしい。トルコは長いあいだ日本に対する親
愛の情を育ててきた国である。
                 国際派日本人養成講座より




後日、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語ります。

~~~~~~~~~~

エルトゥールル号の事故に際して、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。

トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。

今の日本人が知らないだけです。

それでテヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。

~~~~~~~~~~~


トルコは、国家として、日本との友情をちゃんと保持してくれていました。
結局、トルコ政府の義侠心によって、日本人の貴重な人命が守られたのです。

トルコでは、いまでもエルトゥールル号の遭難事件のことを、学校の教科書で教えています。
だから、トルコ人なら誰もがエルトゥールル号のことを知っています。

120年前の出来事を、いまでも国家としてきちんと教えている。感謝してくれている。

そして大国ロシアを破り、植民地支配に苦しんだ東南アジアの国々を独立へと導いた日本を、とても尊敬してくれている。

ありがたいことです。
こういう大切なことを、日本ではなぜか教えない。
是非、教えない理由を説明していただきたいものです。


結局、トルコ国内の教育によって、日本人の貴重な人命が守らたのです。

新潟県柏崎市・トルコ文化村



時代がさらに下って、平成8(1996)年のことです。

新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンします。

トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、柏崎市にトルコ共和国の建国の父ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。

実にありがたく、また名誉であり、うれしいことです。
トルコ村は、テーマパークの広場の中心に、高さ5メートルのケマル像を堂々と飾ります。

ケマル・アタテュルク像



ところが平成11(1999)年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。
トルコ村は資金繰りが悪化。

平成4(2002)年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、平成6(2004)年には、トルコ村は倒産してしまいます。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。

ところが、社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、ブルボン(支援を申し出た製菓会社)の計画も無視します。

あげくに、地元のラブホテル業者にテーマパークを払い下げてしまった。
その結果・・・

ここに、柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した平成19年10月15日付の「厳重な抗義と早急な善処についての要望書」と題する書面があります。
原文はPDFで見ることができます。
→http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071015_k-turky.pdf

この要望書にもありますが、平成6年のトルコ村倒産以降、平成19年のこの文書提出時点まで、日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、

「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」にあった。

誰が見ても、これは親日的なトルコ政府や、トルコ国民にとって屈辱的行為です。

そこで、柏崎トルコ友好協会は、

(1) 「アタチュルク像」の尊厳を保持出来る条件の場所に速やかに移動せよ。
(2) そのために必要な協議の場を設けよ。
(3) 善処後の結果を在日トルコ大使館並びに当友好協会に文書をもって報告せよ。

と書面をもって問合せを行います。

ところが、この書面を受け取った柏崎市会田市長は、これを握りつぶし、なんの返答もしない。

「柏崎トルコ友好協会」は、平成20年1月にも「放置されたアタチュルク像の対処に関する誠意ある回答についての催告」という書面を送付します。(クリックするとその書面を読むことができます)。

ところが、この催告書に対しても、会田洋柏崎市長は、まるで無視。

この件では、トルコ大使館も激怒し、
「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。

これについても、会田市長は議会に知らせることもなく、まったく無視。

ちなみにこの社民党・会田洋市長の愛読書は司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、市長としてのスローガンは<「ガンバロウ!糠け 柏崎>なのだそうです。なにを頑張るんだか・・・・

平成21年になって、柏崎市は、市のHPに、次の記事を掲載します。

柏崎市のHP
(いまはもう消されています)
柏崎市の回答


「アタチュルク像の再建に向けて努力しています」

旧柏崎トルコ文化村にあるアタチュルク像ついては、在日トルコ共和国大使館の理解を得て、平成18年に土地及び他の物件と共に民間会社に売却したものです。会社も利用計画の中でこの像の活用を意図し、実際にその用途に供しておりました。残念ながら新潟県中越沖地震で被害を受けたため取り外し、施設内で保管されているものであります。

市としては、会社から無償譲渡してもらい、しかるべき場所へ建立をするべく会社側と交渉をしているところですが、他の案件で裁判になっていることからなかなか折り合えない状況となっております。このことは、在日トルコ共和国大使館及び外務省に対して経過を説明し理解をいただいているところであります。

今後もしかるべき場所への再建をめざし、引き続き粘り強く会社側と交渉を続けてまいります。また、必要に応じて在日トルコ共和国大使館や外務省と連絡を取りながら進めてまいりたいと考えております。
(2009年2月20日(金曜日) 9時3分)

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トルコ大使館の激怒が「在日トルコ共和国大使館の理解を得て」?!
像を倒したままにして粗末なブルーシートで覆うことが、「施設内で保管」?!

うまいこと言いかえるものです。
まるでどこかの国のプロパガンタです。

横倒しで野ざらしにされたアタチュルク像



ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、非軍服姿の像を寄贈してくれている。
非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。


結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、今年3月18日、東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに一般公開され、今年5月中旬、修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されることになりました。
(日本財団=財団法人日本船舶振興会、会長笹川陽平氏。笹川良一氏の三男)

とりあえずは、ほっと一安心です。

東京・お台場・船の科学館に展示されたアタテュルク像



しかし本来、この修復や移設の費用は柏崎市の負担で行うのが筋というものです。

事件をうやむやにし、トルコ国民の友好の情を足蹴(あしげ)にしたのは会田洋柏崎市長や、そういう怪しげな人物を「市長に選んだ」のは、柏崎市民は、猛反省すべきと思います。

自分の票は、たった一票かもしれない。
けれどもその一票が、こうしてまさに国賊ともいえる非道を招いてしまうというのです。

この事実は、良識ある日本人全員が、しっかりと胸に刻みつけておかなければならないと思います。

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【関連記事】
■平成22年3月13日「新潟日報」
初代大統領銅像「船の科学館」へ
~旧柏崎トルコ文化村~

日本財団(東京)は12日、柏崎市の旧柏崎トルコ文化村にあったトルコ初代大統領ケマル・アタチュルクの銅像を18日に「船の科学館」(東京)に移し、修復のうえ一時展示すると発表した。

銅像は同財団の仲介で昨年12月、文化村の施設を引き継いだ上越市の企業からトルコ大使館に寄贈された。同国と友好関係が深い和歌山県串本町に移設されることが決まっている。

財団によると、銅像は中越沖地震で被災後、台座から取り外されて保管されていたため、いったん財団の関係団体が運営する同館で洗浄や修復作業を実施。その後、5月中旬に串本町に移設するまで展示する。

財団は「ことしは両国の友好120周年にあたり、再展示をきっかけに屈指の親日国であるトルコへの理解を深めてほしい」としている。

■平成22年3月19日「産経新聞」
「トルコ建国の父」銅像お台場に移設

トルコ建国の父であるケマル・アタチュルク大統領の銅像(高さ4.2メートル)が18日、東京・お台場の船の科学館に移設され、一般公開された。同館では5月中旬、和歌山県串本町に移設されるまでの間、補修を兼ねて保管する。

銅像は平成8年、トルコ政府から新潟県柏崎市のテーマパーク「トルコ文化村」に寄贈されたが、同村が経営破綻で閉園し、宙に浮いたままになっていた。

日本財団が「親日国トルコ建国の父に対し非礼」として、現在の所有者である企業と交渉し、5月中旬に和歌山県串本町に移設することに決まった。明治23年、串本町では遭難したトルコ軍艦の乗組員を住民が救助して以来、トルコと友好関係にある。

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ちなみに柏崎市では、自民党・地元市議の三井田孝欧(みいだたかお)氏が、この問題について、いまもずっと戦っておいでになります。
三井田孝欧市議HP→http://www.miida.net/

日本には、まだまだ良心が残っています。

その良心が、いまや売国政党や反日議員、反日市長等によって、まさに風前の灯となっています。

日本の良心が、まだ残っているいまのうちに、わたしたちは日本の心をきちんと取り返えさねければならない。

残された時間は少ないです。
転載終わり

ねずきちの ひとりごとから転載

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