Gabbie's Cafe

 天使のカフェへようこそ

R~Like a River~

2009年05月13日 | Cafe Gallery

去年のちょうど今頃、私は福岡のYahooドームの川を挟んだ向い側にある福岡こども病院の病室にいました。

左の肩に疾患を持って誕生したR。2歳になったら、整形外科での手術をするようにと言われていました。

一年前を振り返ると、病室の大きな窓から差し込む午前の光をいっぱいに受けながら、新しい力に満たされている自分の姿を思い出します。それまでの『できない』や『どうせ私なんか』というネガティブな思いが全き光に照らされて消え去り、それに取って代わるように自信と平安が、心を満たしていました。

あれから一年が経ち、大きな変化を経て居場所を東京にうつした今も、その同じ力が、どこからかわきあがってくるのを感じます。
夜、すっかり疲れて力がなくなってしまい、もう一歩も進めないと感じても、朝日と共に新しい力が与えられている。もう立ち直れないかもというくらいに打ちのめされる夕にも、必ず朝はやって来る。新しい、聖い力と希望を帯びて。

多くの、実に個性的な体験を経て、わたしにもそのことがようやくわかりはじめました。


…神のおどろくべき采配により、Rに与えられたこの珍しい疾患の、『権威』と呼ばれるドクターのもとにたどり着いたわたしたち。おそらく日本中で(もしかしたら世界でも?)トップレベルの医療を受けるにいたりました。しかも本来ならば何百万円もする医療費が、全くの無料でした。

人知を超えたご計画によって、九州の地で生を受けたR。私たちはその深いご計画を、次第に解読していくことになりました。
もし東京にいたら、ゴッドハンドと呼ばれる名医に出会うこともなく、その先生の考案した『二歳児でも負担が少なく受けられる手術』を知らないまま、未だに不安な日々を送っていたかもしれない。
しかもゴッドハンド、この三月いっぱいで退職されたとのこと…一年ずれても、きっと事情は変わっていたはず…。

退院した翌日、雨が降って増水した家の前の川に、Rが落ちて流された時のことも…忘れられません。真っ暗な水路の奥まで流されたRを、飛び込んで助けあげたとき、度肝を抜かれるような体験の中にも色々な啓示が隠されていたことを、後になって気がついたのでした。

そんなことをひとつひとつ思うとき、自分たちが本当に不思議な守りを歩んできたことを痛感します。



目には見えない圧倒的な恵みの翼の陰に守られていることを実感できるような景色を、Rと共に過ごす日々は見せてくれてきました。

そして今まだ進行形なことも、答えの出ていないことも。他の多くの子育てと同様、私たちはまだ旅の途中です。

でも、私たちに分からなくても、起こることは全て私たちにとって最善であるということ、私たちに与えられるものは、心地よいこともそうでないことも、あからさまに恵みと分かることも、一見災いの姿をして訪れるできごとも、全て、全て、神様の私たちへの『愛のフィルター』を通って私たちのところに届くということを知っている、この幸い。
全てを変えるのは、実はその事実を知っていることなのかもしれない。

そして『人間のピンチは神のチャンス。神は私たちを見捨てない。』

そのことを知っているのであれば、起こりうる全ての出来事に、自信をもって立ち向かえるはず…。



川の水を逆に流すことができないように、決して自分の意思に反することをしたがらないR。Tの時の子育てとは、まったく違うアプローチが要求されます。
彼と向かい合っていると、難しいと感じること、忍耐を試されること数知れず。時には途方にくれることも…笑。


けれども、私は神が創られしありのままのRを、尊重したいと感じています。彼に合ったシステムが存在しないなら、彼に合うものを、独自に作り出していけばいい。そんなオーダーメイドな接し方を、私はRから教えられました。それは、ひとよりも遠回りな道かもしれない。けれども、それが彼にとっての必要を満たすための遠回りならば、それは決して、遠回りとは呼ばないのだということも。
私たちが必要なのは、『ゴールへの近道』ではなく、実は『実り豊かな遠回りや道草』、なのかもしれません…。人生に大切なことは、ゴールに早くたどり着くことではなく、ゴールまでの道のりで何を見つけたか…なのかもしれません。
たどり着いてみたら、案外ゴールなんかなかったりして…なんてね。(いや、そんなことはもちろんないと思いますが…。)
ゴールへの道のりで待っている恵み、そこを通らせるプロセスで神が私たちに用意してくださっている極上の体験を、急いで通り過ぎていることが、もしかしたら私たちには多すぎるのかも…しれません。


すべての人は、オーダーメイドに愛され、取り扱われ、評価される必要があると感じます。あからさまに入院や手術を必要としなくしても、一人一人は皆、何かしらありのままで取り扱われるべき素材を、持ち合わせているのですから。

規格に合わないものを排除するのは簡単なこと。
でもその規格がどこから来たかを考える時、やはり思うのです。私たちは、唯一無二の一点モノだということを。
それを忘れ、個人より規格を重んじた時、人は律法主義に走り、人のためのものであるはずの律法が、人を踏みにじっていくのだと。


『この人を生かすためなら、システム全てを根底から覆してもかまわない』

…私たちは、そんな愛で愛されています。
そのことに、私たちはもっともっと気がついても、良いのかもしれません。


R、もちろん、君も。

だから、川が山から海へと流れるように、そしてそれを誰も止められないように、大いなるお方の摂理につかさどられて日々を生きる君から、また私たちは力をもらうのでしょう。
自由気ままに曲がりくねったりしつつ、気がついたらそのほとりに立つ人を、自然と潤していくような、そんな流れであれたらいいね。


R,Live, Like a River.


R、これからも君らしく。