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「葬式仏教」考

2008年08月18日 12時31分54秒 | 葬儀&戒名&寺院運営

今年初盆を迎える方のお宅に棚経に伺った際の話である。

「和尚さん、私はこの年になって初めてホトケの世界に目が向く様になりました」

今年の春に身内を亡くされたその施主は、初盆の供養を終えた私にお茶を勧めながらこう切り出した。

その方は、若い時分にホトケの世界には全く関心がなく、それこそ盆・彼岸に象徴される先祖の供養は親に任せっきりだったという。

しかし、身内を亡くして初めて死後の世界に目が向く様になり、自分の中にある種の信仰めいたものが芽生えてきたというのだ。

因みに、うちの地方では亡き人を指して「ホトケ」と呼び、ここで言う「ホトケの世界」とは「死後の世界」を意味し、総じて故人や先祖の供養を指して言う場合が多い(参考文献:佐々木宏幹『仏と霊の人類学』他)。※敬称略

その方も、身内の死に接して初めて「死」というものを身近に感じ、それを自分の問題として置き換えられる様になったのだと思う。

青春真っ只中の若者に真顔で「死」について語っても野暮な話かもしれないが、人は身近な人の死を通して初めて自らの死について考える様になるのかもしれない。

因みに仏教とは、生きている我々を対象にした「生き方」を説く教えでもある。

人が現代の仏教のあり方を批判する場合、その「教え」が生きている我々にではなく、死者に向けて説かれている事を指して言う場合が多い。

「葬式仏教」という言葉が、ある種の批判を込めて使われる例がその典型だろう。

しかしよくよく考えてみると、冒頭紹介した初盆の施主の様に、身内の死をきっかけに「死」という現実が自分の問題に置き換えられる場合は殊のほか多い。

今まで生身の人間として接していた故人が、荼毘に付されて灰となり、遺骨として墓に納められるその現実は、否が応でもある種の無常観を想起させられるのだろう。

人は、自ら「死」の問題に直面した時に何を想うだろうか。

必然的に「死」と対極に位置する「生」という問題と対峙せざるを得ない。

極論すれば、人は「死」という現実を通してでしか自らの生きる意味を問い質せないのだと思う。

今まで漠然と「生きる意味」について想いを巡らした事はあったとしても、死を通して観る生でなければリアルな対峙とは言えないであろう。

先ほど便宜的に、「死」と対極に位置する概念として「生」を取り上げたが、実は仏教ではこの両者を対極の概念としては捉えていない。

「生死即涅槃」という言葉に象徴される様に、生死一等の論理構造は諸経典において数多く散見できる。道元禅師の仰る「生也全機現、死也全機現」という言葉もそれを意味するものであろう。

そういう意味で考えれば、仏教の僧侶が「葬儀」という生死の現場に携わる意義は非常に大きい。

葬式仏教としての歴史もある意味必然と言えるかもしれない。

問題は、その「葬式仏教」が仏教として機能しているか否かの問題であろう。

「葬儀」という故人の死と対峙すべき空間が、残された人々が自らの生き方を問い質す機縁となっていないのかもしれない。

だとしたら、本来それらの意識を促す側(プロデュースする側)にある僧侶の責任は極めて大きい。自戒の意味も込め、そう自問自答せざるを得なかった。

「今度、ホトケの供養について色々教えて下さい」

先ほどの施主は、私を送り出してくれる際にこう口にした。

もちろん、今後の年回供養や、初盆以降のお盆や彼岸の迎え方を指して言っているのであろう。

しかし、それらの供養を通して、改めて残された人々が自らの生き方を問う契機としなければならない。我々僧侶も、その意識を促す役割を如何に果たせるかについて考えなければならない。

施主に安心(あんじん)を与える事は必要だが、生きる道を説く仏教がなぜに亡き人の供養に携わるのかを知って頂く機会にもなり得る。

先人たちが築いてきた遺産(葬式仏教)をこれ以上損なわぬよう、我々は真剣にそして誠実に対応していきたいものだ。

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