
當寮も久しく留守にしておりました。
うちの地元では、お盆は旧暦(七月盆)ではなく八月に迎えます。
八月に入ると、お盆の準備と地区のお寺の施食会随喜が始まり、暑さも手伝って俄かに夏の到来を感じさせます。
最近では、適齢期

先日も、今年新盆を迎える施主の方々を前に法話を勤めてまいりました。
実は私、まだ身内を亡くした経験がないんです。
両親はまだ健在ですし、祖父母も私が生まれる前に他界しておりました。
確かにお檀家の葬儀には携わりますが、よほど生前の付き合いが深くない限り、感情よりも菩提寺としての責務が先立ってしまうのが現状です。
いわゆる、身内を亡くした方の「悲しみ」というものを、目に触れる機会はあっても実感した事がないのです。
当然の如く、今年新盆をお迎えになる方々は、ここ1年以内に身内を亡くされた方ばかりです。
正直、いつもこの初盆の法話には悩まされます。
身内を亡くした経験のない私が、身内を亡くしたばかりの方々に対して、一体どんなお話ができるというのか、また同じ悲しみを共有した上で話ができるのか......正直悩みは尽きません。
これは、私にとって蔑ろにできない問題です。教科書通りのお盆の法話で済ませるほど神経も図太くありません。
私の中では、その「教科書」(お盆の意味、精霊棚の奉り方など)を紐解く以前の、遺族の方々の心の琴線にどこまで触れる事ができるかが重要な問題なのです。
こんな私でも、今は親の立場となりました。
家庭を持つこと自体諦めかけていた私にとって、良き伴侶と子どもに恵まれた喜びは感慨深いものがあります。
特に子どもに対しては、「目に入れても痛くない」という言葉の通り、私たち家族の癒しの源泉そのものです。
そんな親の立場になって、確実に私の中で変わった感情があります。
それは、テレビや新聞等で、幼い子どもが犠牲になる悲しい事件を目にすると、以前にも増して深い悲しみと憤りに襲われる事です。
いま目の前にいる我が子が、同じ様な事件に巻き込まれてしまったら平静でいられるだろうか、その様な不条理を受け容れる事ができるだろうか......どうしても自分の問題に置き換えてしまいます。
すると、とても悲しい感情が込み上げてきて、目頭が熱くなる感情に襲われるのです。
「身内を亡くした方々の悲しみは、これに似た感情かもしれないな」......ふと、そう思えた時がありました。
話は飛びますが、うちのお檀家さんで今年新盆を迎えるご婦人がいます。
その方は、今年長年連れ添ったご主人を亡くされました。
よほどショックが大きかったのか、葬儀の時も冷静さを保てず、今は東京に住む息子さんらに抱えらながら喪主の大役を務めました。
枕経、通夜、日を改めての葬儀告別式、火葬、その後の開蓮忌・初願忌の法要まで、ずっとそのご婦人から涙が絶える事はありませんでした。
うちの地元では、初七日以降の中陰法要を四十九日の際にまとめて営みます。
しかしそのご婦人は、その全ての中陰法要の忌日に、一週間ごとにお寺に足を運んでお墓参りに務めました。
私もその姿に心打たれて、一緒にお墓まで出向いてご供養させて頂きました。
お墓参りが終わって、いつもそのご婦人と応接室でお茶飲み話をします。
その時も、そのご婦人は決まって目に涙を溜めながら故人の想い出話を口にするのです。
「このまま一人で帰して大丈夫かな」......そんな心配がいつも頭を過るほど大粒の涙を溢します。
その様な姿を目の当たりにして、私は次第にこの様な感情を抱くようになりました。
「亡くなったご主人は、こんなにも涙を流してもらって本当に幸せだな」......と。
世間一般の価値観では、その様な時は早く悲しみから立ち直るような言葉を掛けてあげるのが良いのでしょう。
私も「いつまでもクヨクヨせずに、早く立ち直って元気になりましょう。天国のご主人もきっとそれを望んでおられますよ」という言葉でも掛けてあげるべきだったかもしれません。
しかし、涙を枯らしながらも、亡きご主人との想い出話を語るご婦人の姿を目の当たりにして、正直私はその様な心境になれませんでした。
このご婦人がご主人との想い出話を語る時には、きっと亡きご主人と対面している時なんだろうな......と思えたからです。
先祖や故人がお里帰りをされるお盆の時期だからこそ、我々は亡き人たちのことを思い、時には悲しみ、時には想い出話に浸って、心の中の故人と向き合うべきだと思います。
世間一般で言う「悲しみを乗り越える」という言葉の意味は、決して亡き人の死から目を逸らして「忘れる事」ではなく、亡き人の死と向き合う事により、故人の死を「受け入れていく事」の積み重ねだと思うからです。
その向き合う過程の中で、涙が出てきて止まらない時などは、無理にその感情を抑える必要もないでしょう。
「お婆ちゃん、こうなったら涙が枯れるまで思いっきり悲しんで下さい。ご主人に会いたくなったら、またお墓の前に来て泣いて下さい。その涙の意味を、亡くなったご主人はきっと良い意味で受け止めてくれますよ」
その時発した言葉が正しかったかどうかは分かりません。また、仏教的であったか否かも分かりません。
ただ、その時はそのご婦人に対してその様な言葉を掛けてあげるべきだと思いました。
そのご婦人は、私の意を汲み取って下さったのか「ありがとう、また泣きたくなったらお詣りに来ますね」と言って笑顔でお寺を後にしました。
私たちがこの世に存在する限り、私たちの心の中に生き続ける故人も、きっとこの世に存在し続けるものと固く信じます。
故人に対する想いを蔑ろにしない限り、故人は永遠にこの世に生き続ける存在となるのです。
成仏という概念は、今のこの世に生きる我々の心の成仏を指して言うのではないでしょうか......ふと、そんな事を考えてしまいました。



※「叢林@Net」各寮ブログ更新状況はこちらをクリック♪
やはり、泣いて差し上げ、そしてキチッと供養をされることが重要ですね。そういう行為を経て、徐々にご本人も落ち着きを取り戻されると思います。その意味では、管理人様の仰りようはよろしかったのではないかと思います。
お盆の棚経も無事終わりました。
やはり供養の原点は誠意に尽きますね。
改めてそう思いました。
ここで言う「誠意」という言葉の意味を、さらに噛みしめて精進していきたいと思います。合掌