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「風評被害」と「御用学者」

2011年06月28日 11時56分32秒 | 社会問題&時事ネタ
「風評被害」と「御用学者」 -- 。

今ほど、この「二つの言葉」の意味が混迷を極める時代はないのではないでしょうか。

まず「風評被害」に関しては、以前當寮でも何度か記事にした経緯があります。


  「Stop the 風評被害による風評被害」

  「風評の迷走」 

  「風評の混乱」


これらの記事でも述べていますが、「風評被害」という言葉で特に気になることは、「実害」と「風評」との境界線が曖昧になってきている点です。

例えば、子どもの将来を案じて買い控えに走る親たちを指して、「風評被害」に拍車を掛ける行為と諫める「空気」が蔓延していますが、それらは本当に批判に値する行為なのでしょうか? 予め予想される危険を回避する行為と一体どこが違うのでしょうか?

今、政府から出される原発関連の情報には、その「問い」に答え得るだけの確たる根拠に欠けているように思えます。

私はその意味において言えば、地震や津波被害を受けた被災地の人たちも、過度のストレスによって極端な行動に走ってしまう被災地以外の人たちも、みな他ならぬ「被災者」だと考えています。

特に放射線被ばくの問題(以下、「被ばく問題」という)に関して言えば、被災地といった「場所」に制約を受けない意味において、新しい「被災者」という言葉の定義が必要になってくるのではないでしょうか。

今回のような未曾有の大震災では、直接的に被災された方々はもとより、間接的に被災された方々であっても心に深いストレスを負っておられます。中には通常の精神状態を保てずに、過剰に不安な状態となり、自己防衛本能から心ならずとも風評に惑わされてしまう......そういう方々も多いと思うのです。

問題の核心は、既述もした政府の対応はもとより、専門家の間でも「危険」(実害)と「安全」(風評)の境界線の設定ラインが真っ向から対立している点です。その現実が「迷走」と「混乱」に拍車を掛けているのでしょう。

であるならば、既述もした親たちの行為は本当に「風評被害に拍車を掛ける行為」なのか、それとも「親として至極真っ当な行為」なのか、の検証作業が必要となってきます。今の社会は、その検証作業に必要な「冷静さ」に欠けているような気がするのです。

さらに今回は、この「風評被害」という言葉に合わせて、「御用学者」という言葉についても考えてみたいと思います。

「御用学者」とは、辞書を紐解くと「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」(『広辞苑』)と載っています。

いま、少しでも政府と同じような論調を述べる研究者は、その内容が検証される以前に「御用学者」という負のレッテルを貼られる場合が少なくありません。もちろんこれまでの政府の対応がそうさせるのでしょうが、最近それがとても不幸なことに思えるようになりました。

もちろん辞書の記述通りの「御用学者」(学問的節操を守らずに権力に迎合・追随する学者)を無条件に擁護するつもりはありませんが、「正しさ」の基準が混迷している今だからこそ、最初から「御用学者」といったバイアスを掛けて研究者を評価してしまうことの「危うさ」を感じます。

こと「被ばく問題」に関しては、何が「安心」で何が「危険」なのかは専門家の意見に委ねる部分が多々出てきます。見解の相違があるにせよ、我々もそれを「対立の構図」として煽るのではなく、社会全体で議論の推移を見守り、冷静に検証していく姿勢が必要なのではないでしょうか。

その冷静な議論を経て総意は練られるべきなのに、最初から「御用学者」というレッテルを貼って聞く耳を持たなかったり、逆に耳に痛い情報ばかりに妙な説得力を感じたりで、その時の感情に流された議論に終始しているような気もします。

もちろん全ての議論がそうだとは言いませんが、そういった「御用学者」という負のレッテルが時に良心的な議論を阻害し、昨今の「風評被害」と同じような誤った使われ方をされている点が気になります。

例えば、以前當寮でも紹介した日本医学放射線学会理事の中村仁信先生のご主張(以下のリンク参照)は、「冷静な検証作業」よりも先に「御用学者」という負のレッテルのみが先行し、今の社会から冷静な評価を得ているような気がしません。

 「やしきたかじんのそこまで言って委員会」(中村先生は31:00頃から登場)

この種の主張を耳にすると、今の世は内容を吟味する以前に「御用学者」というレッテルを貼り、最初から信用に値しない戯論として指弾の対象としているのではないでしょうか。もちろん、私のこの見立ても全ての事例に当てはまる訳ではないので、ここにも「冷静な検証作業」が必要になってくるのは自明の理です。

結果的にこれらの対立は、年間積算「20mSv/y擁護派」と「1mSv/y堅持派」といった構図を生み出し、素人目からみても冷静さに欠く感情的な議論に繋がる恐れがあるものと危惧します。そうなると、その「対立の構図」のみが際立ち「内容の検証」よりも先に「感情論の応酬」に終始する悲しい結果を生み出すと思うのです。

我々はもう少し冷静に、その「二つの言葉」(風評被害&御用学者)が生み出し兼ねない「冷静さの欠如」を自戒し、もう一度原点に立ち返った議論(検証作業)をしていく必要があるのではないでしょうか。それがなされないうちは、過度の不安が生み出す「風評被害」は決して収束しないでしょうし、確たる根拠を以て安全を謳う研究者もみな「御用学者」という負のレッテルを貼られてしまうことでしょう。

それは当事者(被災者)にとって非常に悲しいことだし、何よりもその空気自体が冷静な議論を阻害してしまうことを危惧します。


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2 コメント

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なるへそ (さまでぃ)
2011-06-30 23:08:34
石橋叩いて渡れば風評被害、安心を唱える科学者はすべて御用学者、、、単一的な括りは確かに危険かもしれませんね。
石橋叩いて渡る主婦がいたっていいと思います。人々の不安を鎮める情報だってないほうがおかしい、、、よーは正しい検証作業に基づく冷静な判断ということですね。
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2011-07-01 22:16:04
> さまでぃさん

今の世は、冷静な検証作業の前に「風評被害」と「御用学者」という言葉が乱発されているような気がしています。

みな先行きの見えない不安から、自分の不安を解消するための説明が欲しいのでしょう。

それに合わない現状説明に、この二つの言葉は有効に機能するのだと思います。

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