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戒名は、自分で決められない(4)

2010年05月25日 10時50分16秒 | 葬儀&戒名&寺院運営

> 再び lさんへ


大変ご無沙汰しておりました。 お返事遅くなって申し訳ございません

ご寺族の方なら事情がお分かりだと思いますが、六月という時期は殊の外「行持」が多く、他県の慶弔会随喜や地元の本葬準備とが重なり、落ち着いてPCに向かえない日々が続きました。

コメント頂いた内容から、落ち着いてきちんとお返事した方が良いかと思い、多少のお時間を頂戴した次第です。諸事情、ご理解いただければありがたく存じます。

>コメントでなく、一つの記事にしていただいたのですね。

まず、當寮における過去の記事でもそうですが、あまりにもコメントが長くなってしまう場合、字数制限もあるゆえ単独で記事を立ち上げる場合がございます。

単独記事で差し支えある場合は、コメント欄に分割して載せるようにしますので、その旨メールでお知らせ頂ければ幸いです(fukyo-net@mail.goo.ne.jp)。

>ついでのリクエストといっては何ですが寺族への授戒については、どう感じますか?

まず、ご質問の主旨を完全に理解できていない場合もあるゆえ、その後に続く文章を頼りに推測に基づく回答であることをご了承願います。

ここで言う「寺族への授戒」とは、恐らく宗門における「寺族得度」を指すものと思われますが、宗門の「寺族得度」は儀規的にも「戒師」(宗制上、両大本山貫首又は前貫首が戒師を勤める)対「寺族」の関係にて「戒法の授受」を前提に勤めらるゆえ、今回私が問題としている「戒名は、自分で決める」という「戒法の授受」が介在しないケースとは明らかに一線を画すものと考えています。

もちろん葬儀の際の「没後作僧」同様、この種の議論は戒を受けた側(受者)の持戒護戒の問題が問われて然るべきですが、「戒法の授受」をひとつの結縁の機会と捉えるならば、その結縁の是非と受者の持戒・護戒の問題は分けて議論すべきだと考えます。

要は、「戒名は、自分で決める」というスタンスは、その持戒・護戒といった「戒法の授受」に必要不可欠な要素までをも吹き飛ばし兼ねない恐れがあるということです。それは少なくとも、本来あるべき「生前授戒」(戒法の授受)の意味を踏まえ、「戒名」を拠り所に信仰生活を続けている方にとっても失礼な話になり兼ねません。

よって、ご質問の「寺族得度」(寺族への授戒)に関しても、「戒法の授受」が前提にある以上は通常の生前授戒受戒)と同じ機能を果たすものと考えます。

もし、それ以外の主旨のご質問なのであれば、改めてお問い合わせ頂ければと思います。

>「信仰をはぐくむ機会」とは、あなたにとっては受戒でなく授戒なのですね。

こういう受け取り方をされると言葉が足りなかったのかな......と反省せざるを得ませんが、これまでの文中で多用してきた「戒法の授受」(戒法の授戒受戒)という言葉を以て補完してきたつもりでした。

よって、私の言う「信仰をはぐくむ機会」というのは互いの「戒法の授受」(戒法の授戒と受戒)を指して言います。言葉が足りなかったから、お詫びして補足申し上げます。

>在家の方がたの御受戒はもちろん大事ですが、妻帯しておられる方がほとんどの僧侶にとって「最も身近な方がた」に戒をお授けいただいているかどうかのほうが余程気になります。

ここでのご指摘が何を意味するものなのか正直分かり兼ねますが、推測を前提に返答すれば、そのご指摘が意図する問題と本来の「戒法の授受」を巡る議論は分けて考えるべきだということです。これは決して我々僧侶の現状を棚に上げるという話ではなく、その「現状」のみを論拠に「戒名は、自分で決める」という結論は導き出せないことを意味します。

>失礼な表現で申し訳ないですが学僧さんが偽学者といわれる方の論に一々反応することで話を益々わかりにくくし、情報にバイアスがかかり、さらには上の方のように僧侶同士(?)不特定多数の場で軽々しく褒め称えあう様子に、同じ業界にいる家族として、かえって不快・不安に思えることは本当に多々あるのです。

上のご指摘にある「学僧さんが偽学者といわれる方の論に......情報にバイアスがかかる」という意味が正直読み取れませんでした。もう少し分かり易くご説明いただけると助かります。

しかし、次の「さらには上の方のように僧侶同士(?)不特定多数の場で......不快・不安に思えることは本当に多々あるのです」という部分に関しては、前回のコメントに残したように私自身重く受け止め、コメント一時保留という処置を取らせていただきました。

また前回のコメントで述べたように、今までは頂いたコメントに何か一言を残すことを慣習としてきましたが、不特定多数の閲覧者に誤解を与えるようであれば、今後その慣習は改めようと思っております。

>信仰や神仏へのお願い事をおおっぴらにしたら恥ずかしいと思うような感情と同じで、戒をうけたことを静かに心にしまっておきたい人もいると思いますし、(曹洞宗だけなのかもしれませんが)「修行」や「僧侶」のイメージから家族や寺の子どものイメージや、求められるものも同じように連想されていくのですから。

この部分のご指摘が、何を意味するものなのか正直読み取れませんでした。もう少し詳しくご説明していただけると助かります。

また、私は「信仰や神仏へのお願い事をおおっぴらにしたら恥ずかしいと思うような感情」を否定しませんし、「戒をうけたことを静かに心にしまっておきたい人」がいても良いかと思います。

これまでの私の主張が、上のような方の感情や立場を害するものだとは思っておりません。ましてや「戒名は、自分で決める」といったコピーが、ややもすると人々の「信仰」を結果的に阻害する要因ともなり(理由は後述)、「戒を受ける」という行為自体を蔑ろにする恐れがあることを指摘しているだけです。

>安易な共感や「戒名」に対する悪いイメージ払拭の前に、するべきことはありませんか。

このご指摘に関しては、日常生活の中で自分なりにすべきことはしているつもりでいます。また、その実践と今回の私の主張(戒名は、自分で決められない)は私の中で相反するものではありません。

>置かれている現場が理想とは違うからなのか、宣伝のためにバーチャルの僧堂や役職をつけているのかもしれませんが、それこそPCや電波環境のないような実際の僧堂に安居する修行僧の方が毎日大勢いらっしゃる中で、一寺族としては、こちらの僧侶の方のコメントのほうに、ずっと安心を覚えます。
http://blog.goo.ne.jp/zen-en/e/57c3d40af200a2226f6ad2b6bf7d6d74


まず、このブログのあり方に対して、上のようなご指摘を頂いたことは重く受け止めたいと思います。このブログを開設するに当たっては、正直そこまで深く考えずに立ちあげました。

ただ、私も過去に「PCや電波環境のないような実際の僧堂に安居する修行僧」の立場でありましたので、昔の自分や今の彼らの立場を茶化すことがないよう気を付けて運営しているつもりです。今後も注意を払うことは当然ですが、「表現の自由」という観点から寛容に見ていただければ幸いです。

それを「宣伝のために」と言われてしまえばそれまでですが、ブログ開設の主旨としては、「社会」と「PCや電波環境のないような実際の僧堂」を繋ぐ結縁の場の役割を果たせればと思っております。

また、ご紹介いただいたコメントですが、私もそのご意見に対して特に異論はございません。ただ、今回私が問題としているのは「戒名」の本質論でありますので、若干ご指摘の主旨が異なるかなとも感じました。

以前の記事でも少し触れた経緯がありますが、葬儀の要不要論はあくまでも遺族の側の決定権も尊重されて然るべきだと考えています。もちろんそのご遺族が菩提寺をお持ちの場合は、その菩提寺の立場や双方の信仰のあり方について話し合いの場を持つべきだとは思いますが、最終的な個人の信仰については憲法にも明記があるように尊重されて然るべきと考えます。

しかし、その問題と今回の「戒名」の本質論に関しては全く異なるものと考えています。繰り返しの説明となりますが、「戒名」とは授者(師僧)と受者(弟子)間における「戒法の授受」があって初めて成り立つ話です。それは決してお金で買うものでもなく、自分で命名する類のものでも決してありません。

lさんが経験なされたであろう「寺族得度」でさえ、その「機能」(受者の持戒・護戒の問題)は別として、その「戒法の授受」の結果として「戒名」が付与される形(体裁)を保っております。つまり、その形(体裁)を「結縁の機会」として機能させるか否かは、全てはその戒を受けた側の心掛け次第だということです。その受けた側の責任をも反故し兼ねないコピー(戒名は、自分で決める)は厳に慎むべきだということを指摘したまでです。

極論を申せば、現代の「戒法の授受」のあり方が機能していないからといって、それを盾に「戒名は、自分で決める」といった主張がまかり通ること自体本末転倒なのではないでしょうか。まずそこで議論されるべきことは「如何に機能させるか」という問題であり、本来の「戒名」の意味を曲げることではないと思います。もちろん機能していない現実は我々の側にも責任があるゆえ、それを課題にした具体的な実践(例:生前授戒や授戒会の励行など)に繋げる努力は必要だと考えます。

何度も申し上げるように、今回の主張が前回の「葬式は、いらない」のように「戒名は、いらない」ならまだ分かる話なのです。それは互いの信仰や価値観の違いでしかありません。しかし「戒名は、自分で決める」となれば、それは我々の側の信仰に関わる問題となります。

本来の戒名に不可欠な「戒法の授受」(持戒・護戒)の視点が全く欠けた主張が世に出る以上、それは本来の「戒名」の意味自体を全く変質させる要素を含むものです。それは、きちんと正す必要があるのではないでしょうか。無信仰の方々には体の良いガス抜きになったとしても、それが信仰ある方々の犠牲の上に成り立つものであってはいけないと思います。

>前回質問した私にとっては、御回答の内容は、あなたと同じ僧侶の皆さんの話の中で耳にタコというだけなのかもしれませんが、せっかくですので、今回もご回答いただければ幸いです。

今までの話を踏まえてこの一文を見る限り、私と同じ僧侶の方々が、毎回同じ話を耳にタコができるぐらいlさんに差し向けていたのであれば、それはある意味lさん自身も重く受け止めるべきなのではないでしょうか。

大変失礼な物言いかもしれませんが、耳にタコができるぐらい進言されていたのであれば、今一度咀嚼して理解に努める姿勢があっても良いのではと思います。

>研究者や学僧としてではなく、僧侶としての回答を求めるまでです(受戒会に随喜というのは、匿名であるかぎりは私はあえて信用しません)。間接的に存じ上げている方のようですし、直接現場で私をたどっていただいてもかまいません。

授戒会に随喜したことを信じてくれとは申しませんが、私は今までも可能な限り「研究者や学僧としての立場」と「僧侶としての立場」が同一になるよう努めてまいりました。逆に、両者を繋げる努力を今まで重ねてきたつもりです。私はそのスタンスは決して否定されるべきものではないと考えています。

私事で恐縮ですが、私は出来が悪い修行僧であったせいか、安居に通常の修行僧の倍以上の時間を費やしました。その時に学んだことは、行学一如の必要性とそれが前提となる慈悲の発露ということでした。もちろん今の私にそれができているかどうかは不安ですが、なるべくその誓願が朽ちぬよう日々努力をしているつもりです。

ゆえに、今回の主張もその行学一如の立場(僧と研究者・学僧を分けない立場)を前提に行ってきたつもりです。私は現代の伝統教団が抱える諸問題も自覚しているつもりですし、島田氏のようなご主張が今の日本で喝采を浴びる構図も自分なりに理解をしているつもりです。ゆえに、今回の主張(戒名は、自分で決められない)が必要だと思いました。それは決して慈悲の発露とも相反するものではないと考えています。

さらに具体的な実践として、自分にご縁があった授戒会随喜を通して、微力ながら戒弟の方々との四衆加行に努めてまいりました。話が少しそれますが、長年授戒会に随喜をしていて感じることは、あの現場にいると今回の島田氏のような主張をも凌駕する「信仰」の悦びに浸れるということです。まさに、法喜禅悦を体感できる世界とも言えましょうか。もちろん、現行授戒会の抱える問題点が指摘されていることも自覚しております。それは今後の宗門の課題となりましょう。

しかし、「結縁の場」としての授戒会という教化事業を見た場合、きちんと制度に則り約一週間(五日間)にわたる加行を勤め、その各々の「機能」(持戒・護戒の有無)は別として、「戒法の授受」を通して如法に戒師から戒名をいただく戒弟各位のことを考えると、そういう現実を知らずして「戒名は、自分で決める」といった安易な方向に流れ兼ねないコピーが世に出ることに一抹の不安を覚えるのです。

厳しいことを言わせてもらえば、「戒名は、自分で決める」といったスタンスは、島田氏の主張は別にあるとしても、「戒名」議論に必要不可欠な「戒法の授受」といった視点、また「持戒」・「護戒」といったその後に繋がる重要な要素をも反故し兼ねない恐れがあり、意図してそれをしていたのであれば「他者の信仰への冒涜」にもなり兼ねず、無意識のうちにしていたのであれば単なる「無知の極み」でしかないということです。

各々が受けた戒を持てるか否か、また護れるか否かは別な議論として、その仏教徒としての起点に立つことの証が「戒名」である以上、その「持戒」・「護戒」さえをも問わない「戒名」論(自分で命名するだけの戒名)は、本来あるべき「戒名」の名に値するものではありません。恐らくlさん自身の視野に入る議論よりも先に、危険な落とし穴を提示し兼ねないコピーとなるのがこの「戒名は、自分で決める」なのです。

何度も言うように、今回のコピーが「戒名は、自分で決める」ではなく「戒名は、いらない」であるならまだ許せる話なのです。なぜならそれは、最初から異なる信仰や価値観の世界の話であり、本来あるべき「戒法の授受」に重要な「持戒」・「護戒」といった概念が最初から絡まない話になるからです(それは本来あるべき戒の教えが汚されないことを意味します)。

しかし、そのコピーが世に出た以上、たとえ少数派であっても本来の「戒名」の意味を踏まえ、それを信仰の拠り所として生きている方々がいる限りは、その誤った情報に基づく風評被害は正していくべきなのだと考えます。

>「戒名が必要ないと思う人がなぜそこまで戒名にこだわるのか」というあたり、学者という名を借りただけの個人的見解なら誰からも理解されないでしょう(理解するための方法はあるにしても)、しかし著者が戒名不要をうたう教団の信者または広告塔として(擁護して)書いているのであれば、その理由は、僧侶の方ならみなさんが既にご存知と思います。

私は今まで述べてきたような理由により、私の主張が単に「学者という名を借りただけの個人的見解」だとは思っておりませんし、ましてや「誰からも理解されない」主張だとも思っておりません(無信仰の方からは理解を得ることは難しいと思っておりますが)。また、機会がある毎にこの種の話はご縁のある方々(授戒会についた戒弟さんなど)にさせて頂き、理解を深めて頂けているものと感じております。

だからこそ、本来あるべき「戒名」を授かった方々を、誤った情報に流されないように正す行為の積み重ねが必要だと思うのです。その行為の積み重ねと日本仏教の抱える問題は分けて考えるべきだと思います。また、同時に議論されなければならない問題だと考えております。もちろんそれが、今の日本仏教が抱える問題を無批判に擁護したり、先送りする意志があるものでは決してございません。

生前授戒(受戒)により如法に「戒名」をいただき、その信仰のもとに布薩(正しく生きる日常底)に勤しむ方々を見るにつけ、意図する批判は別としても、間違った情報による風評被害には慎重になるべきだと考えます。その部分に関しては、学者や僧侶といった分別のない立場の話であることを明記しておきます。

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2 コメント

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読み終えて一言 (りゅう)
2010-06-14 00:37:52
 決して軽々しく褒め称える意味でコメントする訳じゃないですが、やはり管理人さんがおっしゃることは正論だと思います。
 正しいことは正しいと信仰を持つ人々に伝えていく姿勢は必要なんじゃないでしょうか。
 私は以前島田裕己氏の講演を聞いたことがありますが、管理人さんのおっしゃるように島田裕己氏の意図は今の日本仏教に対する批判です。
 今回は戒名が犠牲になったような構図のように思います。
 私も最初は軽く考えていましたが、きちんと信仰をもって授戒につく人や、授戒会の歴史が「戒名は自分で決める」というタイトルにより汚されてしまう恐れがあることを学びました。
 これは同じ僧侶だから言いことではなく、管理人さんおっしゃることに納得したから書き込むものです。
 島田裕己氏が本当に批判したい点に対しては我々は謙虚になるべきだと思いますが・・・
 それは管理人さんも理解しているのではと思います。
私も読み終えて一言 (宗門寺院)
2010-06-19 12:27:58
布教師寮@Netさまへ

私も今回の連載を読み終えた一人として一言残します。
ここにコメントすると、ある方から僧侶同士が不特定
多数の場で軽々しく褒め称えあう様子に映ってしまう
らしいので言葉を慎重に選んで話します。
まず今のお授戒や葬式が形式化しているといった問題と、
本来の戒名がどういうものかという議論は分けて考えなく
てはならないという点は大いに賛成です。
形式化されて意味がないからといって、本来の仏教の教え
の意味を曲げてしまうような考えはいずれ仏教の教えを
この世からなくしてしまうと思います。
我々坊さんは、たとえその時に理解されなくても、正しい
教えを勇気をもって伝えていくべきだと思う。
社会の大勢が間違った考えに支配されたとしても、そこは
きちんと我々坊さんが衿を正して正論を吐くべきだ。
間違いなく「戒名は、自分で決める」を認めてしまうと、
葬儀の時に出費をしたくないから自分で命名しちゃえと
いう悪しき方向に流れていくことは目に見えている。
やはりそこに仏教の教え(戒法の受戒)という大眼目は
ない。
それはよくよく考えると、戒名安売りする論理に他なら
ないことだと私も思う。
久しぶりに読みごたえのある戒名論だったと私も思う。
もちろんこれは同じ僧侶を褒め称える意味ではない。

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