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【私的参究ノート】 葬  儀

2009年02月04日 16時24分32秒 | 葬儀&戒名&寺院運営

先日、ある葬儀に関する講習会を受講する機会に恵まれました。

その研修会では、他宗の僧侶の先生方もお招きして、我が宗門のみならず、他宗の葬儀の詳細についても学ぶことができました。

個人的にも、非常に有意義な時間を過ごせたような気がします。スタッフの皆さま、本当にありがとうございました

しかし、それぞれの宗派によって葬儀に対する考え方、意義付けというのは変わってくるものなのですね。

我が宗門で言えば、亡き故人に滅後の授戒を通して十六条戒を授け、僧階に上らせたうえでご供養を勤める「没後作僧」という形態を取ります。

これは、もともと中国の「清規」に所収される「亡僧喪法(葬法)」に倣うもので、古来から日本に伝わる「逆修」(生前にあらかじめ自分の為に仏事を修して死後の冥福を祈ること。昔の貴族などは亡くなる直前に授戒をして僧の身としてあの世に旅立つ習慣があったとされる)という習俗とも相重なり、今の時代に喪法として伝わるものです。

我が宗門では「清規」に説かれる儀規を重んじる家風があるため、この亡僧儀規という古来よりの型を重視し、先人たちが勤めてきた喪法(没後作僧)を以て亡き人を送ってきた歴史があるのでありましょう。

他の宗派では、大日如来の世界観を引導作法に反映させたり、念仏の功徳力を以て故人を西方極楽浄土へ御送りする形態を取ったり、やはり各宗派の教義が儀礼の中にも色濃く反映されていることが分かります。

各宗派の教義や儀礼の意味を学べたことはもとより、今回自分の中で一番収穫になったことは、檀信徒の方々(ご遺族や参列者)の目線に立って葬儀という儀礼を客観視できたことであります。

つまり、我々にとって他宗の葬儀というのは、何もかも初めて目にするものばかりで、その意味で言えば、当日の私は葬儀に参列する檀信徒の立場でいたのです。

初めて耳にする難解な言葉(専門用語)の連続に、時に戸惑いと違和感さえ感じ、「普段の私も葬儀の場ではあの様に映っているのだろうな」と自覚させられました。

誤解を恐れずに極論すれば、「葬儀」の現場で最も重要なことは、葬儀に関する教義や意味付けそのものではなく、その祭祀者たる僧侶の「説得力」だという事です。少なくとも、私にはそう感じます。では、ここで言う「説得力」とは何を意味するものなのでしょうか。

もちろん、檀信徒に対する儀礼の説明責任は果たすべきですし、その意味をも把握せず導師を勤めることは無責任の極みでしかありません。

しかし、葬儀の場における僧侶と檀信徒との距離感を計ることなく、教義と儀礼のみに埋没することは本末転倒でしかないものと思われます。

その意味で言えば、既述もした「説得力」とは、その僧侶の説く教えがどれだけ信じるに値するか否かという点に尽きましょう。

ここで言う「説得力」とは、僧侶と檀信徒の距離感、つまり両者の信頼関係抜きにして成り立たないという事です。

信頼関係がある僧侶の口から発せられる言葉と、通夜の席で初めて対面した僧侶の口から出る言葉とでは、同じ言葉(教え)であっても重みに差が出てきてしまう事は避けようがない事実かと思われます。

その言葉を聞く者が納得するだけの言葉の力とは、間違いなく「教えの内容」そのものよりも両者の「信頼関係」だと感じます。

要は、檀信徒は葬儀の現場で説かれる教えの「正しさ」を見るのではなく、その教えを説く僧侶の「正しさ」(信頼に値するか否か)を見るという事です。

今回のような研修会で誤解してならないことは、葬儀に関する意味付け作業というのはあくまで「入口」でしかないという事です。

しかし、その「入口」から始まるご縁の深まり(葬儀を媒介した布教教化)は非常に重要で、要はその「入口」に立つことからしか我々の布教は始まらないという事だと思います。

ややもすると我々は、この種の研修会で葬儀の意味付けを学ぶだけで由としてしまう傾向がなきにしも非ずです。また、その意味を学ぶことが研修の意義だと感じている場合も少なくありません。

しかし、そこに檀信徒(他者)の視点を導入させる慈悲の姿勢に欠けてしまうと、この種の講習は自利のみの研修で終わってしまう可能性が多々あります。

まずは、そのご遺族の方々との信頼関係を築き、「亡き故人を送ってもらう方はこの人しかいない」という安心感を相手に抱いてもらう努力は必要でありましょう。

つまり、「この僧侶であれば、納得して故人のご供養を任せられる」といった安心感が、初めてその僧が発する「言葉」(教え)に意味と力を持たせるという事です。

まずは、檀信徒の目線に立った葬儀という視点を忘れずに、葬儀の現場における布教は単なる「(教義と儀礼の)辻褄合わせ」ではないという事を自覚すべきです。また、その「辻妻合わせ」に説得力を与えるか否かは、あくまでも僧侶の檀信徒に対する慈悲の姿勢に尽きるものと思われます。

ここでも他者に対する慈悲の視点が、葬儀の現場における僧侶の説得力に大きな役割と貢献を果たしている事が分かります。

我々は、ご遺族があって初めて葬儀という現場が成り立ち、そのご遺族の方々の納得が故人の供養の原点になり得るという事を忘れてはならないと思います。その自覚こそが、逆に我々の慈悲の視点を育む要因になり得るという事なのではないでしょうか。合掌

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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2009-09-28 07:24:19
> 管理人様

説得力は、やはり「信」から生まれるのでしょう。ご指摘の様に、我々僧侶と、檀信徒の方との信頼関係、そして、我々自身の仏・菩薩への信、それらが相俟って、初めて「力」は生まれる気がします。これまでは「合理」の面が説かれ、その結果葬儀の簡略化が進みましたが、しかし、その合理とは、本当に「合理」だったのか?拙僧は何かが間違っていると思います。
コメントありがとうございますm(__)m (布教師@Net)
2009-09-28 16:54:05

> 助化師さま

ご指摘の「合理」さには、ある意味逆行的とも取れる謙虚さが必要だと私は思います。

勤精進、勤精進の日々ですね。

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