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消費者目線の葬儀

2011年01月28日 22時12分56秒 | 葬儀&戒名&寺院運営

最近立場上、現代葬儀が抱える問題点について意見を求められる機会が多くなりました。

講演、執筆依頼、研修会講師......etc. 求められる役割をこなすために、最近ネット上の関連情報に目をやる機会も増えました。

その際に決まって抱く感想は、消費者目線から見た葬儀情報が思いのほか多いということ......。つまり、葬儀に際しての価格競争を煽る記述があまりにも多いということです。

もちろん施主家の事情や、そのニーズに応える業者の姿勢があるのは当然でしょう。亡き身内との別れといっても先立つものは予算だし、それなくして前に進まない現実があることも承知しています。

しかし、まるで陳列された商品の料金表を見ているか如くの感覚は、正直違和感を覚える時が多々あります。

まるで、価格のみで葬儀が決定されるかのような感覚は、そこに「故人が存在しない葬儀」のあり方が浮き彫りになっているような気がしました。

誤解のないように申し添えますが、私はそのような情報を載せること自体は一概に悪いことだと思っていません。顧客に選ばれる側にある業者の立場であれば、そのニーズに応えんがための情報掲載はある程度必要でしょう。また、その種の情報を閲覧できない業者のページは淘汰の憂き目にあうかもしれません。

しかし、その情報のみに特化してしまうと、何のために、いや誰のための葬儀なのかという一番大事な部分欠けてしまうような気がするのです。ニーズに応えるための情報提供は仕方ないにしても、なぜ一番の眼目となる葬儀の意義や歴史についての説明が皆無なのでしょうか。

これでは「葬儀は単なるビジネスチャンス」としか捉えていない本音の部分を露呈しているような気もします。それが私の危惧する「故人が存在しない葬儀」の一端です。その傾向が商業ベースの葬儀にますます拍車をかけ、消費者目線のみの葬儀を延命する装置と化すのではないでしょうか。

「葬儀の意義やその歴史の説明 そんなの本来僧侶が果たすべき役割だろう」という声が業者さんから聞こえてくることも承知しています もちろんそうなのです。我々が果たすべき説明責任や努力を怠ってきたから、こういう風潮が世に蔓延る原因になっていることも否めません。しかし、そこまで原因が特定できているならば、なおさら提供する情報には慎重になって頂きたいと思うのです。

例えば、最近気になった記述のひとつに「葬儀に僧侶が必要な方(なお、当店派遣の僧侶に関しては檀家になる必要はございません)」という選択項目があること......

別に我々は檀家獲得のために葬儀を勤める訳ではありませんが、この選択肢はまさに葬儀のオプションサービスのひとつとして僧侶の存在が組み込まれている象徴とも言えます。まさに「消費者目線の葬儀」の最たる証とも言えましょう。それが「信教の自由」の名のもとにまかり通っている現実があるのです。

それは、私に言わせれば「信教の自由」ではなく、「無信教の自由」でしかないということです。決して「信教」の信に値するものではありません。「信教の自由」で選ぶ葬儀の勤め方は、まだ宗教儀式としての余地を残すものがありあますが、消費者目線の葬儀を正当化させるための「信教の自由」であれば、そこには問われるべき「信教」の信の部分が最初から欠落しています。

ゆえに誤解を恐れずに極論すれば、葬儀の際に僧侶の存在をオプションのひとつとして検討する方であれば、最初から「葬儀」という宗教儀式を介して故人を送る必要もないということえす。別にこれは突き放す意味で言っているのではなく、頑なに「葬儀」という宗教儀式に拘る必要もないのではないかということです。それなら最初から「お別れの式」を催して故人に花を手向けるだけで十分だと思います。

我々の立場からすれば、「葬儀」と名のつく以上は僧侶(宗教者)あっての葬儀であり、僧侶(宗教者)なくして葬儀という宗教儀式は成り立ちません。極論ですが、その「葬儀」のカタチに関する最終的な決定権さえも僧侶(宗教者)の側にあるということです。

但し、既述もした「お別れの式」のようなセレモニーであれば、そこに宗教者たる祭祀者の存在は必要ないでしょう。つまり、厳密に言う「葬儀」という宗教儀式と「お別れの式」というセレモニーは一線引かれて然るべきなのです。

さらに誤解なきよう言葉を補足すれば、私個人は「お別れの式」自体を否定する立場にはありません。また、それで亡きご家族を見送りたいという遺族の気持ちは尊重されて然るべきだと思います。

では、畢竟何を言いたいかというと、葬儀において僧侶(宗教者)がオプションサービスの如くの存在に追いやられてしまう今の現状は、ややもすると本来役割が異なる「葬儀」と「セレモニー」の境目を曖昧にしてしまう恐れがあるということです。

宗教の世界で育まれてきた「葬儀」の儀軌(儀式作法)とは、身内の方を亡くしたご遺族の方の悲しみを汲み、その想いを踏まえたうえで我々の先人たちが創意功夫を凝らして仏事というカタチに昇華させてきたものです。その「葬儀」と「セレモニー」を混同してしまうことの弊害は、その先人たちの努力や歴史自体をも蔑ろにし兼ねない恐れがあるということです。

もちろん今の世に蔓延る世間の風潮は、既述もした我々僧侶の側の問題も問われて然るべきだと思います。いみじくも私は先ほど「僧侶(宗教者)あっての葬儀であり、僧侶(宗教者)なくして葬儀という宗教儀式は成り立たない」ということを述べましたが、問われているのは我々が僧侶(宗教者)に値する存在なのか否かということも理解しています。しかし、その「僧侶の質を問う議論」と「葬儀本来のあり方を問う議論」を混同し、消費者目線のみで葬儀の場から僧侶を締め出し兼ねない今の世の風潮は本末転倒のように思います。

別にこれは僧侶としての私自身の保身のために言うことでなく、葬儀本来の意味から社会が益々遠ざかることへの警鐘の意味で述べるものです。葬儀に関する情報を掲載するホームページ等では、遺族の立場や抱える事情はもとより、あくまでも故人の立場に立ったご供養のあり方に気を配ってもらいたいものです。それがなければ、ますます「消費者目線の葬儀」のあり方に拍車を掛けてしまうことでしょう。既述もしたオプションサービスとしての僧侶の存在を問うコンテンツよりも、まずはそうした葬儀本来の意義や歴史について触れて頂くページを増やして頂きたいものと切に思います(もちろん僧侶とタイアップしての情報提供でも良いでしょう)。

人ひとりの一生を締めくくる「葬儀」という厳粛な儀式を、本来の意味を踏まえた意義あるものとして残していくため、我々僧侶と業者の方々は距離を置く存在としてではなく、ともにご遺族の悲しみの受け皿機能を担う責任と覚悟を以て臨まなければならないものと思います。その業界再編をも伴うある種の構造改革こそが、日本独自の葬式仏教に新たな生命を吹き込む起爆剤になるかもしれません。

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4 コメント

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Unknown (すーちゃん)
2011-01-29 10:14:47
興味深く拝読させていただきました。

今日から「朝日新聞」33、35面で「葬儀とお金」というシリーズ記事が始まりました。

いずれの記事も、同じ条件で、大手から小規模の葬儀社6社が提示した「見積」を出しての記事で、正にご指摘された「消費者目線」での記事です。

各社とも「料金は固定」という回答で、安くしたいなら、「葬儀の簡素化」や、「他の葬儀社さんに行かれたら?」という対応だったようです。

勿論、親身になって対応して下さる葬儀社さんもあると思います。しかし、なかなか生前からご自分の葬儀のあり方を決めている方というのは少ないのが現状だと思います。

「葬儀」という宗教儀式と、「お別れ式」の様な故人を偲ぶ時間(弔辞や電報、更には「泣かせる」為の「ショー」の様な演出(汗)が)がパックになっていると、導師様が、真ん中でボツリと座していらっしゃるのが気の毒に思います…。
(ご遺族の希望かも知れませんが…、その辺りは葬儀社さんの配慮が必要かと…。)

最近では、葬儀中から遺影が「スライドショー」で次々変わっていく葬儀もあるとか…。「葬儀」のあり方が葬儀社の主導権の下で執り行われている商業ベースの葬儀の典型的な例でしょう。

いずれ訪れる「死」や、多分行うであろう「葬儀」を自分がどう考えているのか、また、執り行い方等、もしもの時に備え事前に家族で考えておきたいものですね。

また、御寺院様と葬儀社さんの関係も、主導権の奪い合いから「協同型」となっていく事を願います。
すーちゃん様 (布教師@Net)
2011-01-29 16:17:38
毎度コメントありがとうございます

この問題は言葉を慎重に選ばないと誤解を受ける可能性が多く......なかなか記事にできずにいました。

要は、現実問題としての消費者目線、葬儀の際の演出など、遺族の意向を踏まえたカタチの変化は仕方がないと思うのです。

ただ、踏み込んではいけない聖域というか、ホトケと祭祀者しか踏み込めない領域との境目が、無知なのか意図的なのかは別として曖昧になってきている現実があります。

以前、戒名問題でも触れましたが、少し勉強すればどの部分が結界であるかが分かるはずなのに、今は土足で平気でヅカヅカ上がってくるような空気が蔓延しているような気がします。

「信教の自由」と言えば聞こえはいいですが、私などはここで言う「信教」の信の意味をも尋ねたくなる時が多々あります。

>御寺院様と葬儀社さんの関係も、主導権の奪い合いから「協同型」となっていく事を願います。

この部分は記事の最後でも少し触れましたが、我々の側のこれからの課題だと思います。主導権を取ることと聖域の確保は諸刃の刃だと思うので今後注意が必要ですね。

ありがとうございました。
Unknown (すーちゃん)
2011-01-29 21:59:53
拝復、度々失礼致します。

今回の記事を再び拝読し、とある僧侶(老師様)の方のお話を思い出しましたので、コメントさせて戴きます。

お葬式での「繰上7日法要」は、今ではすっかり定着した感があります。

その僧侶の方は、ある一般的なご家庭の葬式の直前に葬儀社さんから、「施主さんの意向」として、13回忌まで繰上法要をやって欲しい」と言われ、「もうね、怒りを通り越して唖然としましたよ…。勿論、ハッキリと理由を申し上げて、「法要」という形ばかりが大事なのではないと断りましたけどね」と仰っていました。

葬儀前ですから、まだ身内の故人のご遺体は安置されているのに、どのような事情があるかは判りませんが、その様な発想が出来てしまう施主さんがいる事に驚く(「死体を処理する」と考える方に比べれば、多少はマシな方なのかも知れませんが…)と共に、その様な申し出を請けて僧侶を「コマ」の如く動かそうとする葬儀社さんの存在にも驚きます。オプション料金を支払えば済む問題と考えているのでしょうか…。

また仮に、葬儀社さんが抱える「派遣僧侶」が導師様を勤めた場合には、その様な申し出を請けてしまうのでしょうか…。

「弔う」という行為は一体誰の為のものなのか、そして「葬儀」という宗教儀式を「僧侶」が勤める意義という事を軽視しているのか、ただ単に(こんな葬儀社さんは困りますが)理解していないだけなのかは判りませんが、改めてご指摘のあった「オプション」としての「僧侶」という点を考えてしまいました。

失礼致しました。
すーちゃん様 (布教師@Net)
2011-01-30 00:08:30
度々ありがとうございます

このようなコメントを社会の側から頂けると大変ありがたいですね。

我々の側から言っても、どうしても自己弁護といか保身にしか見てくれない現実がありますから......。

いくら言葉を選んでも、そう思われてしまう側面は否めません。

何度も言うように「信教の自由」もしくは「遺族の立場にたって」という美名のもと、要はそこに亡き故人からの最後の諭しとも似た弔いの場の教育機会が失われています。

もちろん我々の側もその落とし穴に嵌る危険はあるわけで......本当に難しいところです。

あくまでも自分自身に言い聞かせる記事でもありました

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