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「家族」から「遺族」へ

2011年02月01日 16時01分25秒 | サプリメント仏教

身内の死の重さを突きつけられるひとつの事例に、「家族」が「遺族」に変わる瞬間があるかと思われます。

私個人も何度かこの場で記事にしてまいりましたが、亡き故人は残された遺族の想いの中で永遠に生き続けることが可能な存在になります。その意味において、亡き故人は一生「家族」というカテゴリーに属する身となりましょう。

しかし、想いの中で生き続ける故人が家族の一員であり続けることと、身内の死の重さから目を逸らして遺族の自覚に乏しくなることは、全くの別モノと考えます。想いの中で故人と過ごす家族の時間と、社会的な義理や務めを果たすべき遺族の時間を混同させてはいけないと思うのです。

「家族」が「遺族」に変わる瞬間、それは否が応でも身内の死を実感させられる機会でもあります。それが身内の「死」という重い現実であり、その「死」と向き合わなければならない遺族の最後の試練でもあるのです。

しかし、その試練を仏教では観無常と説き、その「死」と対峙する時間を仏教では前向きに捉えてきました。ゆえに仏教では、葬儀という「生死の現場」に使命感を以て携わってきたと思うのです。

人として普通の感情を有する身なれば、身内の死は非常に大きな悲しみが伴うものです。昨日まで家族の一員であった故人の死により、その死を境に家族が遺族になる瞬間が訪れるのです。その境界線が、なおさら身内の死をリアルなものに引き立てるのでしょう。

まさにそれは悲しみに暮れる時間でしかありませんが、家族は真摯にその現実を受け止めるべく遺族としての務めを果たします。昔の人は、それらの務めを通して「死」という現実の重みを自覚していったのです。

前回の記事にも認めましたが、最近ふと想うことは、その「死」という現実があまりにも軽く扱われる世の中になってしまったということ......。

本来重い意味を持つべき「死」という現実が、いとも簡単に扱われてしまう現状は憂うべき世の中なのかもしれません。その背景にあるのは、残された側の我々の都合でしかありません。その我々の都合のみで死を捉えるようになった頃から、死は必然的に軽いものとして扱われるようになってしまったのでしょう。

「死」が軽く扱われる世情があるならば、その「死」と対極にある「生」も軽く扱われて当然です。人の命があまりにも軽く扱われる事件が多発するのも、その辺と無関係とは言えないでしょう。まさに前回の記事の意図するところはそこにも通じてきます。

もちろん残された側の事情も少しは汲むべき余地があっても、その事情のみで人の死が語られたり、葬儀が進められる風潮には慎重になるべきだと感じます。まさにその風潮は、ややもすると死者儀礼と遺体の処理の境目を曖昧にし兼ねない恐れがあるからです。

ゆえに、我々は決して歴史や伝統から学ぶ姿勢を見失ってはならないと思うのです。今の時代に伝わる葬儀の意味を紐解けば、昔は決して身内の死を軽く扱うことはなかったはずです。枕経通夜を経て、ご遺体を棺に移す際にも諷経を勤め、厳粛に亡き人に対して仏の戒法を授けた後龕を移す儀式を通して山頭(墓地)にて引導を授けるのです。古来より伝わる秉炬の儀式(法炬にてご遺体に火を灯す儀式)でさえ作法に則って厳かに進められます。

それが今では、葬儀と同じ日に100日後(中には13年後)の法要まで勤めようとする風潮まで蔓延しています。その背景にあるのは、旅立つ側の故人の立場ではなく、義理を尽くす側の我々の都合によるものです。多少汲むべき余地はあっても、それこそ程度問題にもよりましょう。

うちの地方でも、葬儀と同じ日に初願忌(初七日法要)を勤めますが、その際には本来の意味をきちんと説明したうえで、忌明けの法要(四十九日法要と称する大練忌)までの諷経はきちんと正当日に内献する旨を伝えて行うようにしています。

そこにご遺族の側が想いが馳せられるか否か、形態の変化に伴う祭祀者側の自覚と説明責任があるか否か、それらが問われる時代となることでしょう。その辺に鈍感になると、我々の側から直葬や無宗教葬に対して異を唱える手立てさえ失い兼ねません。

「家族」から「遺族」へ ―― それは何を意味するものなのか? もちろん亡き身内に対する供養はもとより、我々遺族が身内の死を通して「生きること」の重みを自覚する機会ともなるのです。

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4 コメント

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Unknown (すーちゃん)
2011-02-01 19:37:50
またもや1番バッターの様で…
福井県、大変な事になっていますね。
毎日が「雪作務」なのでしょうね…。


今回の記事を拝読して、恥ずかしながら一昨年亡くなった叔父一家を思い出してしまいました。

亡くなる数日前、叔父の妻(叔母)が本家(私の実家)に突然来て、たまたま帰省していた私と母に対して、叔父の悪口を散々に話し始めました。

お仏壇が見えているにも関わらず、祖父母や私の父を始めとする、御先祖様に手を合わすことなく…


最初は、「叔父の介護疲れ」の発散だろうと、静かに話を聞いていましたが、段々エスカレートして最後には、子ども達と一緒になって責め立て、末期ガンの叔父の口から「今まで苦労かけて悪かったと言わせたのよ~♪(笑)」との事。

それを、「勝利宣言」の如く我々に話す訳です。正直、唖然としました。

叔父は大手電気メーカーで海外を渡り歩いて来た人だったので、何かと留守がちになり、異国の地で叔母は様々な苦労や悩みを1人で抱え、我々が知らない苦労を重ねてきたのかもしれません…。

でも、「専業主婦」として自由な時間を持ち、子どもは「お受験」をして有名私立中学校に入学し、東北大学の医学部を出て医者になったり、慶應大に入学でき、一人前の大人となっているのです(祖父母の遺産相続手続きをしていた時に、「叔父の稼ぎ」ばかりではないことが判明したのですが…。あえて「不問」に。)

堪らなくなり、「叔母さんは確かに辛かった時もあるかも知れないけれど、このような人生を歩んで来れたのも、叔父が一生懸命働いてきたお陰なんじゃないのかなぁ?長男は、その辺どう考えているの?」と問いました。

何故なら、確かに「医者」にはなりましたが、彼と話をしていても「心のぬくもり・思いやり」を感じないのです。
そんな彼が内科医になったと聞いていたので、「患者」である父にどんな接し方をしているのか気になったからです。

「○○ちゃん(←30代の息子に言うか?と思うのですが…)は、主治医の見たてが合っているかを見てくれたし、医者として立派だった」と話しました。何につけても「私」が育てた「自慢の息子」なのです。

叔父は、形としては家族には恵まれたけれど、孤独だったのかも…と思いました。

そして葬儀となり、葬儀後の初七日法要を済ませた直後、叔母一家は叔父の愛用品やら衣類など、全てを「可燃ゴミ」として処分したようです。

葬儀の時に、僧侶の方が懇切丁寧にお話されていたことは何処へやら…(汗)。


心配した親戚や亡くなった叔父の妹が連絡すると、「もう必要ないから捨てちゃった~。スッキリしました!」と…。

「施主さん」がそういう考えなのだから…と皆親戚一同はグッと我慢していましたが、四十九日法要も何の音沙汰もなく、心配した親戚が連絡したところ、「それじゃ、お食事会でもしますか?」と…。

この先、叔父の法要はないと思います。

身近なところから、子どもにも体験を通じて「生」と「死」を学ばせていきたいと思いました。

長文、失礼いたしました。









すーちゃん様 (布教師@Net)
2011-02-01 23:25:36
コメントありがとうございます

内容拝見しました

叔父様一家の件......何とコメントして良いものやら......正直戸惑いを禁じ得ません

度々触れておりますが、ここで述べる私の見解は全て「身内の方の死は全て悲しみが伴うもの」ということを前提に述べることんばかりです。

今回のコメントは、その前提自体を根底から覆すような内容であり......私自身の了見の狭さを責めるべきなのか、それとも世の無情を嘆けば良いのか対応の仕方が分かりません

身内の死を悲しんで当たり前という常識からも距離を置いて生死の現場を計る必要が出てくるのでしょうか。

しかし、これが今の世の現実なのでしょうか。だとしたら、私は一生青臭いままの僧でありたいと思った次第です。

それこそお身内の方のお話なのに恐縮です
Unknown (すーちゃん)
2011-02-02 06:44:31
度々失礼致します。

先のコメントは「筋違い」とは思いながらも、記入させて戴きました。申し訳ございません。

多分、今回の様なケースは「稀」だと思います…というか、そう思いたいです。

ただ、「遺族となった身内がそれ程悲しまない死」というものを身内の死をもって初めて経験してしまい、私達、その他身内は正直な所当惑し、また、非常に複雑な心境なのです。

私達、その他の身内が心中の中だけでそっと「弔い、故人を思う」気持ちを持てば良いのでしょうが…。

失礼致しました。
すーちゃん様 (布教師@Net)
2011-02-02 17:07:52
>先のコメントは「筋違い」とは思いながらも、記入させて戴きました。申し訳ございません。

いえいえ、筋違いどころから核心を突くご指摘でした

新たな気付きを頂けたような気がします。

いずれお返事を兼ねて......

また貴重なご意見をお寄せ下さい

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