いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(269)「安かれ」

2014年07月24日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書14章25節から31節までを朗読。

 

 27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

 「ヨハネによる福音者」14,15,16章とまた17章も含めてですが、これらはイエス様が十字架におかかりになる直前、最後の晩餐(ばんさん)の席で弟子たちにお語りになったメッセージ、言うならばイエス様の告別メッセージです。その中でイエス様が語った一つが27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」、また「わたしの平安をあなたがたに与える」と言われました。「平安」、これは幸いな恵みの言葉です。というのは、私たちはいつも「平安でありたい」と願います。「平安」という言葉に対して、その反対の言葉は「不安」です。不安、心配であるとか、思い煩いを心の中にいつも抱いて日々の生活をしています。ひと時も心が休まる暇がない。安心がないというのが現実の姿です。

 

神様は私たちをこの地上に生きるように遣わしてくださったのです。決して不安と恐れと心配と思い煩いの中で、生涯を過ごすようにと造られたのではありません。「伝道の書」には「人の一生は苦しみとつらいことばかりだ」と書いてありますが、「そのとおりだな」と実感します。だからといって、神様は私たちがそのような悩みと不安と恐れの中で一生涯を過ごすことを喜ばれる御方ではありません。聖書には「人が神様の作品として造られた」とあります。そうであるのに、どうして私たちは神様が造ってくださった目的にかなう者に成り得なかったのか?それは私たちが神様から離れてしまったからです。「創世記」のいちばん最初にエデンの園の記事があります。神様は人を造り、生きるものとしてエデンの園に置かれました。父なる神様と人が裸で付き合う、実に神様と間近に、なんの隔てることも、障害もなく、心を通わせることができる関係でした。ですから、エデンの園での人の生涯は、不安もなければ恐れもない、思い煩いもなければ、心を騒がせる、悲しいことも失望、落胆もなかったのです。神と人とが共に生きるという恵みの中にあったのです。

 

ところが、人が神様に対して罪を犯した。と言われると、私どもは「いったい何を、自分はどんな罪を犯したのかしら」と思いますが、そもそも神様を認めようとしません。神様を認めるとは、私が今生きているのは、見えない大きな神様がいらっしゃって、命を与えられ、生活を許されていると信じる。ところが、なかなかそれを認められない。自分の努力でここまでやってきた。自分の計画でうまくやってきたと、自分の思いがあります。将来についても、こうなりたいとか、こうありたいとか、これが私の願いだ、というようなものがしっかりとありますから、神様に委ねる、神様に自分の思いを明け渡す、手放しでお願いすることに、何か不安になる。「そんなことをしたら、私はいったいどうなるの?」と心配する。「神様が私たちに備えてくださる将来があり、日々があり、人生が終わったら、神様のところへ帰っていく。だから何の心配もいりませんよ」と言っても、「いや、そんなことはない。私はああなりたい、こうなりたい。こうなったらどうしますか、ああなったらどうしますか」と、自分が神様に取って代わる。そう言われると、「私はそんな大それたことは思いもしません」と言います。しかし、よくよく考えてご覧なさい。自分の思うところは、「私が」、「私が」、「私が明日は何をしようか、こうしようか」、あるいは「今日は何をどうしよう」と、自分が決めて自分の力でやりたいと思う。ところが、なかなか思うようにいきませんから、それで苛立(いらだ)つ、心配になる、不安になる、思い煩う。そういうものにいつも煩わされる。だから、神様はそんなに思い煩わないで、神と共に生きる者となること、罪が赦され、神様に対して安心を持って信頼することができるようになること。これが私たちに神様が求めている最大の事柄です。

 

だから、「ヨブ記」には「神と和らいで、平安を得るがよい」(22:21)と語られています。先ず、神様と和らぐ。そこから初めて平安、安心が作り出されてくる。与えられるのです。「神と和らぐ」、言い換えると、神様の前に罪を赦されることです。そして、どんなことでも神様に信頼する者になることが大切です。私どもは「では、神様、あなたに一つお願いしますからよろしくやってください」と、口では言いますが、心がそれに伴わない。そう言った次の瞬間から、すぐに心配したり思い煩ったりします。

 

ところが、そのような私たちの罪を赦すためにひとり子イエス・キリスト、神でいらっしゃる方が人となってこの世に来てくださった。これは、私たちに平安を与え、喜びと感謝に満たし、思い煩いから解放するためです。そのために神様と和らぐ道を備えてくださった。だから、イエス様がこの地上に来て、十字架にご自分の命を捨ててくださった。これを信じなければ、神様と和らぐことはできません。今まで神様を軽んじて、ないがしろにし、身勝手に自分が神になって偉そうな顔をして、高慢であった私たちの罪をイエス様が十字架に処分してくださった。これを信じていくのです。イエス様が十字架に命まで捨てて、私たちの罪を潔(きよ)めてくださった。だから、いま私たちはイエス様の十字架を自分のものとして生きる。パウロは「イエス様と一緒に十字架に死んだ者であって、いま生きているのはわたしではなくて、イエス様がわたしの罪を赦して生きるものとして生かしてくださっている」(ガラテヤ 2:20)と告白しています。だから、神様に咎(とが)められる、神様に罪を糾弾(きゅうだん)される、責められる関係にはもうないのです。ところが、私どもはそれを忘れる、信じようとしないから、「ああなったらどうしようか。こうなったらどうしようか。この先はこれで行き詰まりだ。もう解決がない。こうなったらおしまい。死ぬしかない」と嘆きます。そんなはずはない。神様はどんな道でも私たちのために備えることができる方です。神様を信じて、信頼する関係に変えて下さったのはイエス様です。だから、思い煩っているとき、心配なことがあるとき、先ず立ち返るのはイエス様の十字架です。「あのことはどうなるだろうか」「このことはどうなるだろうか」「この子供のことは?」「あの孫のことは?」「私の老後のことは?」と、具体的な問題があります。それを見るたびにハラハラドキドキ、あるいは心配で気持ちが暗くなってしまいますが、そのとき、問題を見るよりはイエス様の十字架を見るのです。「そうだ。私のためにイエス様は命まで捨ててくださった」。そこに目を留める。神様が私の後ろ盾、私のスポンサーなのですから、その方に全面的に降参すること。「お手上げですから、神様、どうぞよろしくお願いします」と、身を神様に委ねきっていく。一度にこうなればいいですが、なかなか人はしぶといからそうはいかない。聖書には「敬虔(けいけん)を修行せよ」(Ⅰテモテ 4:7文語訳)と勧められています。神様を信頼すること、神様に自分を絶えず委ねることを訓練しなさいと。朝起きてから夜寝るまでいろいろな事にあいますが、そのたびに「あれはどうなるだろうか」「これはどうなるだろうか」と、黒い思い煩いがスーッと心を覆ってきたとき、「これは今、訓練の時なのだ」と。自己憐憫(れんびん)に陥(おちい)って、「私は世界でいちばん不幸な人間だ」と言って、自分の思い煩いを眺めているようでは駄目です。「そうだ、イエス様と共に私はあの十字架に死んでいるのだ。この問題もイエス様が握ってくださっている。神様が知っているから、私が心配しなくてもいい」と、心を十字架に向ける訓練。これは一回でできなければ、二度でも三度でも繰り返し、それを努めていく。これは私たちの大きな恵みです。そうすると、気がつかないうちに思い煩いがだんだんと少なくなっていく。どんなことも「これは神様がご存じなのだから……」と、思い煩いの雲が心の隅っこにちょっと見えたら、すぐに心がイエス様のほうに向くように変わる。うそだと思うならやってみてください。3ヶ月やってください。3ヶ月で効かなければ大体半年ぐらいですね。しつこい人は1年ぐらい掛かるかもしれない。神様から離れていた時期が長いから、なかなかそこへ行かない。でも、幸いなことです。私は今、そのことを感謝しています。いつでもどんなときでも、神様のほうに心を向けることができる。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Ⅰペテロ 5:7)とあるように、神様にすぐに持って行く。思い煩いは自分で握っていたって何にも役に立たない。好きならいいですが。だから、早くそれを手放せばいい。聖書にそう書いてある。「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さった」(ガラテヤ 4:6)と。私たちはいま十字架によって罪を赦された者です。そして、神の子供としていただいている。神様の民です。心配なことがあったらすぐ「天のお父様」と持って行く、祈るのです。そして、十字架の主を見上げて「いまキリストが私を生かしてくださるから、こんな心配している必要は無い」と、心を切り替える。そうすると、気がつかないうちに、心の波が静まっていく。穏やかになってくる。

 

 27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」とあります。世が与えてくれる平安は何か。お金であったり、有力者であったり、友人知人、あるいは家族であったり、子供であったり、自分のより所とするもの、これが助けてくれるに違いないというものによって平安を得ようとします。確かにそれはひと時「これがあるから安心」「この人がいてくれるから安心」と思いますが、それは一瞬の間です。すぐに次なる不安がわいてきます。次なる思い煩いへと引きずり込まれる。底なしの沼の中に入って行きます。だから、この世が与えてくれる平安は、本当の意味の平安ではありません。イエス様は「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」とおっしゃる。「主の平安」は何なのか?それは、そのすぐ前の26節から続いていることですが、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」。ここでイエス様は「わたしの名によってつかわされる聖霊」と語っています。その「聖霊」と次の27節の「平安」とは密接につながっていると言ってもいい。あるいは聖霊そのものが平安であるということにもなります。「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)とイエス様が言われたのは、まさにこのことです。イエス様は十字架にかかって葬られた後、三日目の朝よみがえってくださったのですが、弟子たちはエルサレムの一つの家に集まって、ユダヤ人を恐れ、戸を閉じて、ひっそりと息を潜めて隠れていました。その日の夕方、イエス様は弟子たちのところへ来てくださった。「安かれ」とイエス様はおっしゃって、ご自分の手の傷や胸の傷を見せて、「わたしはこのようによみがえって、あなた方と共にいるよ」と言われた。そのとき「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。その後で、イエス様は「『父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』」と言われたのです。イエス様がそこにいるとき、弟子たちの不安が消える。ユダヤ人を恐れて隠れ潜んでいたところへイエス様が現れてくださった。「主がいらっしゃる」と知ったとき、彼らは不安から大きな喜びに変わった。主がそこにいることが、実は平安なのです。では、いま主はどこにいらっしゃるか。それが「聖霊を受けよ」と言われることなのです。聖霊、御霊とも言いますが、聖霊はキリストご自身でもあります。イエス様が十字架に死んでくださったのは、あくまでも私たちの罪を赦すためです。罪の結果、私たちが当然払うべき、あるいは受くべき神様の呪いと刑罰を、イエス様が身代わりとなって負ってくださって、「お前たちの罪は赦されたよ」と宣言されました。だから、私たちはどんな状態にあっても、神様はキリストの義をもって私たちを正しい者として、神様の御心にかなう者として受けいれてくださっています。その罪を赦された私たちがこの地上でどうやって歩んで行くか。神様はイエス様を墓からよみがえらせてくださった。イエス様が私たちの罪のために死んでくださっただけで十分ではないか、と思いますが、罪を赦された私たちが、これから何によって生きていくか?神様と共に生きる生活へ、この地上にありながら肉体を持った私たちが神と共に生きる方法、生きる道として、イエス・キリストをよみがえらせてくださった。そして「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と言われるように、どんな時にも私たちと共にいてくださる方となるためによみがえってくださった。よみがえったイエス様はどこにいるか。イエス様はよみがえりなさったことを40日にわたって証しなさいましたが、その後、天にお帰りになりました。では、もうこの世にいないではないかと思われますが、イエス様は父の御許(みもと)にお帰りになって、「父がわたしの名によってつかわされる聖霊」、今度は父なる神様にお願いして、私たちのために聖霊を送ると約束してくださいました。神の御霊、霊を与えてくださる。その具体的な結果、成就がペンテコステ、聖霊降臨の事態だったのです。それから後、今に至るまで、神様は絶えず私たちと共にいてくださる。それは、神の御霊、聖霊が私たちの内に宿ってくださって、神様のことを教えてくださる。神様を畏れる心を与え、神様を信じさせてくださる。

 

しかも、26節に「あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」とあります。御霊が私たちの内に住んでくださって、「これは道なり、これを行くべし」「これはやめときなさい」「ここに行きなさい」あるいは「これは早くしなさい」と、いろいろなことを絶えず語りかけてくださる。何か他人(ひと)事のようにしていますが、すでに神様は約束されたように、私たちに聖霊を与えてくださっている。ただ、そう信じる人に神様ははっきりとそのことを具体的に体験させてくださるのです。だから、どうぞ皆さん、イエス様が約束してくださった御霊、聖霊が私と共にいつもいてくださるのだと信じていただきたい。その方にいま私の祈りは聞かれているのだ。私のしていることは見られているのだ。心に思っていることも何もかも、他人には分からなくても、聖霊は私の心と思いを全部知ってくださる方だと自覚するのです。「そうだ。御霊のことが私には分からないが、しかし、そのように聖書に約束されているから、私も信じましょう」と、素直に信じてみてご覧なさい。そのように御霊は私たちの心に働いてくださる。そして、自分では考えなかった、思いもしなかったいろいろなことを教えてくださる。だから、読んでいる聖書のお言葉を通して、心が励まされたり、慰められたり、力づけられたりします。聖書を読んでいて、自分がしようとしていたことがとどめられたり、あるいは、あるお言葉によって心に喜びにあふれてきたり、涙するような体験をします。それは感情によるのではない。まさに御霊が聖書を読むあなたの中でその力を働かせてくださっている。だから、御霊は何か特殊な人、あるいは特別な人のためではなく、すべての人に宿ってくださって、イエス・キリストを信じる心を与えてくださる。また、私たちに聖書のお言葉を聞いて喜ぶ、その喜びを満たしてくださる。それは聖霊による喜びです。すでに、そういうことを体験しているでしょう。それを繰り返し味わうために、私たちは聖書を読むのです。御霊が宿ってくださると、私たちはもはや心配することもいらなくなる。思い煩いも消えてしまう。私たちと絶えず御霊が共にいてくださって、神様と私たちが太いパイプでつながれるのです。聖霊が私たちに遣わされ、イエス様が語ったすべての事を教えてくださる。そればかりでなく、それは平安となって私たちの心に宿ってくださる。私たちの心を御霊が絶えず治めてくださる、ご支配してくださる。「霊感賦」に『我が心いと静かなり』という賛美がありますけれども、「なぐさめぬしなる みたまは我に やどればこころは よろこびにみつ わがこころ靈(みたま)にて いとしづかなり 風ふかず波たたず いとしづかなり」と歌いますが、私はあの賛美を歌うのが大好きです。御霊が私たちの内に宿ってくださるとき、大荒れに荒れていた怒りや憤り、つぶやく思いがスーッと取り去られていく。イエス様は27節で「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われ、イエス様ご自身がこの平安に満たされていたのです。イエス様も神様の霊に満たされて肉体を持って生きていながら、恐れることなく、思い煩うことなく、絶えず安心の中に生きることができたのです。

 

マタイによる福音書8章23節から27節までを朗読。

 

イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っておりましたとき、突然暴風が吹き荒れて、船が波に翻(ほん)ろうされ、沈まんかと思うぐらい、命も終わりだというような不安の中に置かれました。ところが、そのときイエス様は「眠っておられた」とあります。弟子たちは大慌てでイエス様の所へ来て、「わたしたちは死にそうです」と言った。それに対してイエス様は「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。弟子たちもイエス様も同じ船の中にいて、片や眠っておられる、片や大慌てで死に物狂いになっている。二つのスタイルがあります。私たちはどちらでしょうか?「イエス様はいくら人だといっても、神の子だからへっちゃらですよ」と言うでしょう。いえ、イエス様はスーパーマンではないのです。わたし達と同じで、全く人の弱さを知り給う御方。しかし、ただイエス様は御霊による平安を絶えず持っていたのです。あのバプテスマをお受けになり、イエス様が水から上がられたとき、「聖霊が鳩のように下った」とあります。神様の霊がイエス様を支配してくださった。御霊がイエス様に宿ってくださったから、どんな中にあっても御霊によって「いと静か、波立たず 風吹かず」、いつも平安でおられる。ところが、弟子たちは肉体の眼をもって見える形でイエス様が船に一緒にいるのに、彼らは慌てた。なぜなら、イエス様を自分の主であると心に信じることができなかった。やがて、イエス様が十字架におかかりになられて、よみがえられた後、天に帰り、あのペンテコステの霊を注がれたとき、ペテロたちはこの嵐の中で眠っていたイエス様と同じ平安を体験するように変わっていく。これは不思議です。あの嵐の船中で泰然自若(たいぜんじじゃく)、動じない、絶大な安心感、絶対的な安心の中におられた。「死にそうです」と言ったあのペテロたちが、今度はその力に満たされるのです。その違いは御霊が一人一人の内に宿ってくださったことです。

 

使徒行伝16章25節から28節までを朗読。

 

これは、パウロが伝道しておりましたときに、ピリピの町だったかと思いますが、彼は捕らえられてしまった。その日ろう屋に入れられました。25節に「真夜中ごろ」とあります。彼らはそれ程の罪を犯したわけでもないのですが、悪意のあるユダヤ人たちの訴えで、とうとう捕らえられて、ろう屋に入れられてしまった。その当時のろう屋は、現代の社会とは違いますから、居心地のいい所ではない。しかも、今のようにきちっとした法律や裁判制度があるわけではないから、いつまで置かれるやら、どういう結果になるやら、皆目分からない。弁護士がいるやらいないやら、起訴されるやら……、とにかく鎖でつながれて、真っ暗なろう屋の中に入れられて、いつ釈放されるかも分からない。ところが、このときパウロとシラスとは「神に祈り、さんびを歌いつづけた」。もし私たちがパウロとシラスのような目に遭ってご覧なさい。意気消沈、歌うどころか、青息吐息です。つぶれてしまいます。ところが、彼らは神に祈り、賛美をささげることができた。その力はどこからきたか、彼らはいったいどうしてそんなことができたのか。それは彼らの内に揺るがない平安があった。その平安とはキリストの霊が自分の内にあることを信じていた。イエス様が私と共にいらっしゃるのだ。これを信じること、これが主の平安を頂く秘けつです。どんな中にあっても「イエス様が私と共にいらっしゃる」。イエス様の御霊が、聖霊が私と共にいてくださるのだ。その聖霊に私たちが頼って、信じて、祈っていくと、心にある思い煩いや様々な不安、恐れ、悲しみをことごとく取り除いてくださる。御霊が不安や恐れを全部清めてくださる。御霊は将来、いつか、何かをしてもらえるのではなくて、もう既に神様は送ってくださっている。事あるごとに、このときのパウロとシラスのように、「神に祈り、賛美をささげて」ご覧なさい。そうすると、御霊は私たちの心を励ましてくださり、私たちにいろいろな神様からの思いを伝えてくださる。今まで信じられなかった御言葉が私たちの心に思い浮かび、それがいのちとなり、私たちを内側からグッと力づけて支えてくださる。これは確かです。「聖霊を受けよ」と神様が言われるのは、まさにそこなのです。私たちもこのキリストの平安、主が私たちに宿ってくださる恵みを体験したいと思う。

 

使徒行伝27章21節から26節までを朗読。

 

これはパウロがローマで裁判を受けるために連れて行かれる途中、大変な大嵐に遭い、船が難船しかけたのです。三日の間、台風に遭ったのです。食料も船具も何もかも捨てて身軽になって何とかしようとしたけれども、とうとう望みを失ってしまった。今、読みました少し前の20節に「わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」と、絶望のふちに立った。ところが、その中でただ一人、パウロだけは実にうろたえない。彼の内にある御霊が彼を支えてくれたのです。その時、皆が食事もできずに失望しきっていたとき、22節に「元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう」と励ました。神様がわたしに求めておられるのは、わたしがローマに行くことであって、わたしが助かるならば当然あなた方も決して失われることはないから、そのように神様は約束してくださった。「約束してくださったと言っても、勝手に思っているだけ」と。そうではない、彼には御霊がはっきりとそのことを告げてくれた、確信を与えてくれたと言っているのです。だから、いつも、どんなときにも、私に宿ってくださった御霊、聖霊は私を守ってくださる。私どもがその方、聖霊なる神に思いを向けて、心を向けていくならば、不安も恐れもどれもこれもことごとく取り除いて、私たちを祈りと賛美へ導き入れてくださる。

 

とてつもなく絶望したり、失望したり、不安になったり、恐れたりしますと、祈ることもできなくなる。賛美することもできなくなり、ただ「どうしよう」「どうしよう」とうろたえるばかりで、何もできない。そのとき、「そうだ。私には主がついていてくださる。主の霊が私に宿ってくださっている」と、そこに心を開く。扉を開いて、「主よ!」と迎えていくとき、イエス様の平安が私たちの心を支配して、もはや恐れることはいらない。

 

「ヨハネによる福音書」14章27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。イエス様が体験した御霊による平安、神様の力によって自分の心と思いを全部支配していただく。その平安を私たちが受けることができるのですから、幸いな生涯ではないですか。そして、そのあとに「あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。私どもはすぐ心を騒がせ、だんだんとおじけて縮こまり、「怖い」「怖い」で、手も出ない、足も出ない、何も出ない、ただ悪口とつぶやき、嘆きばかりが出るようになる。しかし、御霊によってしっかりと心を支配していただくとき、どんなことのなかに置かれようとも、平安が絶えず私たちを支配してくださるのです。

 

どうぞ、この御霊の平安、キリストにある平安、主の平安を、しっかりと体験したいと思います。 

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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