いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(565)「招きの理由」

2016年07月22日 | 聖書からのメッセージ

ペテロの第一の手紙」2章18節から25節までを朗読。

 

21節「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。

 

ここに「そうするようにと召されたのである」とありますが、「召される」とは、招かれる、招待を受けることです。私たちはいったい誰から招かれたのでしょうか? それは神様が私たちを招いてくださったのです。どこへ? 結婚式の披露宴に招かれたのかというと、そうではない。神様が私たちをご自分の救いに招き入れてくださったことに他なりません。神様は私たちを救い出してくださる。では、私たちはそもそもどういうものであったのか? これは聖書に語られていますが、私たちは神様に造られていながら、神様を離れて、「咎(とが)と罪とによりて死にたる者である」(エペソ2:1文語訳)と語られています。いのちを失って死んだ者であった私たちをそこから救い出して招き入れてくださる。その救いは何であったか。それは私たちが神様の民となる。神様と共に生きる者とされることです。神様は私たちをこの世、神なき世界から救い出して下さる。神様を知らず人が王となり、自分が神となり、「ピリピ人への手紙」に「おのが腹を神となし」(3:19文語訳)と語られているように、自分の欲望といいますか、自我性、生まれながらの人間の欲望を充足させ、満足させるために生きてきた私たち。そこには神様を畏(おそ)れる思いは全くなかったのであります。ところが、いろいろな問題や悩みに遭い、苦しいこと、つらいことがあって、神様はこの救いへと、イエス様に出会う者としてくださいました。いま私たちはイエス・キリストを信じて、救いにあずかった者としての生活を送っています。

 

その救いにあずかって生きる私たちの生活は、どんな生活なのか? イエス様が私たちをこの世から救い出して、神様のものとしてくださった。神様と共に生きる者としてくださった、と約束されています。ところが、現実の生活は、一向に代わり映えがしません。イエス様の救いにあずかる前、イエス様を知らなかったときと今とは何が大きく違うか? 食べる物、着る物も同じだし、住んでいる場所も変わらないし、どこ一つとっても神様を知らないこの世の多くの人と同じ生活環境の中に生きている。そうすると、気が付かないうちに、「私が救われた事実はいったいどこにあるのだろうか?」と確信がなくなる。イエス様の救いにあずかって、曲がりなりにもお祈りはする。たまには聖書も読む、仕方なしに礼拝には来る。この三つぐらいは取りあえず守っている。「昔と比べて違うところはそのくらいかな」と。救いにあずかることが、ドラマチックに生活が180度ひっくり返ったという体験は、なかなか得難いことであります。

 

新約聖書を読みますと、福音書を通して多くの人々がイエス様の救いにあずかった事が語られています。ペテロはガリラヤ湖畔で漁師の家に生まれ育って、代々漁師でした。ところが、イエス様に出会って、「網を下ろして漁をしてみなさい」(ルカ5:4)という言葉に従って網を下ろしたところ、おびただしい魚が獲(と)れて、あまりの驚きに恐れおののいて、自分の生涯の全てを捨ててイエス様に従って行きました。彼らは船や船具や一切を捨てて、イエス様に従って行ったという。「これが救いだ」といわれると、「自分は何を捨てただろうか? 」と思う。ペテロは船だとか、網だとか、生活の根本、自分の生活を支えていた一切の物を捨てたのです。そしてイエス様に頼る者となりました。これは180度どころか、大変大きな変化であります。救いにあずかるとはこういうことなのか? そうでなかったら救われないのではと、自分の救いに疑問を感じるのです。「私って、本当に救われた私なのか? ただ単なる趣味でやっているだけだろうか」と。そういう現れてきた現象、見える印(しるし)によって自分の救いの確信を得たいと思う弱さがあります。

 

パウロがダマスコへ行く途中で雷鳴のような大きな音と共にまばゆいばかりの光に照らされて、そこで「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と、よみがえってくださったイエス様の御声を聞いた。サウロとはパウロのことですが、その瞬間に彼は自分の罪を認めて悔い改めて、とうとう自分の人生を変えてしまった。「ピリピ人への手紙」3章に語られているように、それまで自分の頼みとしていたもの、家柄であり、才能であり、能力であり、社会的名誉や地位等など、そういう一切のものをふん土のごとく思っていると。それは「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」と語っています。イエス様に出会ったためにそういうものを全部捨てた。「これからわたしはキリストのものなのだ」といって、生活が変わってしまった。そういう記事を見ますと、「それに比べて、私はどうやろう? 」と振り返る。「私は救われたといっても、何も捨てたものはないし……」と、そういう現れてきた印や形や見える状態で自分の救いはどうだ、こうだ、と測ろうとしやすいのです。確かにそういうことも救いの一つの証しではありますが、そういう印、形が得られたからその人は救われた、とは違います。

 

じゃ、救われるとは、何かといいますと、「ただイエス・キリストを信じる信仰によって」(ローマ 3:22 ガラテヤ 2:16 )と聖書には語られています。私たちがイエス・キリスト、神の御子、神なる御方が人となり給うて、私たちのためにこの世に来てくださった。そして十字架に私の罪のゆえに死んでくださった。このイエス・キリストを信じること、これが救いです。イエス様は私たちのために死んで終わりではなく、よみがえって、今度は今も私たちと共にいてくださる。私たち一人一人とイエス様は今日も共にいてくださることを信じる。これが救いです。それまでイエス様のことを知らなかった。神様とも縁遠い関係……、まことの造り主たる、聖書に証しされている神様を私たちは知らなかった。世の中の神仏といわれるものには子供の時からなじんでいた、聞いていたでしょうが、まさか、万物の創造者、私を造ってくださった神様がおられたとは知らなかった。その神様が私たちの罪のあがないとして、ひとり子イエス様を遣わし、私たちを救い出してくださった。それを信じる、そして私たちはイエス・キリストと共に生きる者と変えられる。これが救いなのです。そのイエス様と共に生きる結果、ペテロは船を捨てました。パウロのその人生が変わりましたが、あくまでも、それは結果です。「救われる」ことと、そこから出てきた結果とは、必ずしも一つではありません。大切なのは、私のために命を捨てて死んでくださった御方が、よみがえってくださって私と共にいてくださること。その結果、私たちもイエス様のために生きる者となる。

 

「コリント人への第二の手紙」5章14,15節を朗読。

 

殊に15節「彼がすべての人のために死んだのは」、「彼」とはイエス様です。「イエス様がすべての人のために死んだのは、生きている者が」、「生きている者」とは私たちです。「私たちがもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」。自分のために生きるのではなくて、今度はよみがえってくださったイエス様のために生きる者となる。これが救いです。イエス様を信じるとは、イエス様が十字架で私のために命を捨ててくださったと信じる。それはイエス様と共に死んだ者であると信じるからです。そして今なおこの世にあって生かされているのは、私のために死んでくださったイエス様のために生きる。これが救いです。だから、私たちの生きる目的が変わるのです。何のために生きるのか? 自分のためではない。キリストのために生きる者となること、これが救いです。それは他人様が推し量るといいますか、見ることはできません。「あなたは、どうもイエス様のために生きていないようですね」と、横に立って眺めて分かる話ではありません。一人一人の心といいますか、生き方の問題、人生の問題です。自分が今どういう者として生きているか?どういう自覚を持って生きているか、その人自身の信仰なのです。だから、私たちに大切なのは、「いま私は誰のために生きているのか? 」。親のためでも、家族のためでも、人のためでも、ましてや自分のためでもない。私のために死んでよみがえってくださったイエス様のために生きる。

 

イエス様のために生きるとは、イエス様が私をこの世に遣わしてくださった、ということでもあるのです。だから、私たちは今この地上にあってなお生きていますが、これはイエス・キリストを信じる信仰によって、もはや私が生きているのではなくて、イエス様によって生かされている私であります。だから、主のために生きる者、キリストのために生かされている。日々の生活の全てが、私たちを生かしてくださるキリストのために生きているのです。

 

「ヨハネによる福音書」20章21節を朗読。

 

これはよみがえられた日の夕方、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて隠れていた所に、イエス様が入って来られたのです。そして両手を見せ、胸の傷跡を見せてくださって、「わたしであるよ」とご自分を現わしてくださいました。このとき弟子たちはびっくりしました。そのとき最初に言われたのがこの言葉であります。「父がわたしをおつかわしになったように」、イエス様が父なる神様からこの世に遣わされてくださった。それと同じように、今度は「わたしもまたあなたがたをつかわす」。私たちの身分が変わる、あるいは、生きる目的が変わる。自己本位の自分中心の生き方ではなくて、今度はイエス様のために、イエス様が私たちをそれぞれの家庭に、社会に、あるいは職場に遣わしてくださる。イエス様がこの世に置いてくださっておられる。聖書は繰り返しそのことを語っています。「わたしたちの国籍は天にある」(3:20)と「ピリピ人への手紙」にありますが、国籍を天に移す、いうならば、私たちが神に属する者に変えられ、今、人の世に置かれているのは、イエス様が父なる神様に遣わされてこの世に来られたのと同じです。私たちも神の家族であって、キリストの兄弟、イエス様が私たちの長子でいらっしゃり、私たちはその兄弟姉妹、神様の家族、神の子だ、といわれています。それはこの世のものではないということです。「あなたがたはもはやこの世のものではない」。

 

「ヨハネによる福音書」17章14節から16節までを朗読。

 

ここに二度繰り返されていますが、14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではない」と。「彼ら」とは、イエス様の救いにあずかる私たちです。イエス様がこの世に属するものではなく、神の御子でいらっしゃる。確かに、姿かたち見えるところは全く人と変わらず、人となってこの世に生きてくださいました。しかし、たとえ姿かたちは私たちと変わらなくても、イエス様はあくまでも神に属する御方、神ご自身でいらっしゃる。そのように私たちもイエス・キリストのあがないにあずかって、十字架のいさおしによって、この世のものではない。確かにこの世に生きていて、食べる物、着る物、住む所、何をするにしても、どれ一つ他の人々と違いはありません。しかし、心は、思いは彼らと同じではない。キリストのものです。神につける者、神様にあがなわれ、神様のものとされている私たちです。そのことをしっかりと自覚していただきたい。忘れないでいただきたい。することなすことがこの世の人と同じであっても、そんなことはどちらでもいい。大切なのは神様のものとされていることです。いつも「私はこの世のものではなく、神様のもの。私が生かされているのは主のため」と。主のために生かされ、イエス様が「あなたがたをつかわす」とおっしゃったように、「いま私は神様からこの家庭に、この職場に、この社会に、いま置かれているところに遣わされているものである」と。だから、どんなことも、それは主のためにするのであって、私を遣わしてくださったご目的にかなうように生きるのであります。そのように自覚しながら毎日を歩んで行きますと、おのずから私たちの行動や態度や言葉や仕草など、神様が変えてくださる。私たちの自覚にふさわしい、神の子の内実に変えてくださるのは神様ご自身です。大切なのは、私たちがそのように自覚することです。神様のものとされ、いま神様によってこの世に遣わされ、それぞれの所に置かれている自分であること。

 

「ペテロの第一の手紙」2章21節に、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。ここに「模範を残された」と、イエス様が私たちの模範となってくださった、とあります。それは何の模範か? 遣わされたものの生き方であります。イエス様ご自身が父なる神様から、神の位に居給うた御方が世に遣わされて来られた。この地上にあってのイエス様のご生涯がどんなご生涯であったか? それは「ピリピ人への手紙」にありますように、神の御子でいらっしゃる御方が、神の位に居給うた御方でありながら、神の子であることを固守することとは思わず、死に至るまでも従順に父なる神様にお従いなさった」(2:6~)。そしてイエス様はこの地上で私たちと全く同じ生活を送られた。その生活の大原則、イエス様が絶えず守り続けてきた生き方は何か? 父の御心に従う。

 

「ヨハネによる福音書」6章38節を朗読。

 

実にはっきりしています。イエス様がこの世に父なる神様から遣わされて、人として生きる三十三年半のご生涯、十字架の死に至るまでのご生涯はどんなご生涯であったか? 「自分のこころのままを行うためではない」。自己充足といいますか、自分の願望や夢を実現するためではない。父なる神様の御心を徹底して行う。

 

「ヨハネによる福音書」5章30節を朗読。

 

ここでもイエス様は「自分からは何事もすることができない」と言われる。わたしがしたいからする、わたしが嫌だからやめる、わたしが行きたいから行く、わたしが……、わたしが……じゃなくて、イエス様は父なる神様の御旨、御心を求めていらっしゃる。そして神様の御心のみに従って行きたい。いうならば、イエス様は父なる神様の僕になりきる。僕というのは、ご主人の言い付けを逐一全て守らなければ僕たる使命を果たし得ない。まさにイエス様は、神様の御子でいらっしゃった御方が、人となって、人の世に下り、神の僕となって従い抜いてくださったご生涯です。

 

そのことが先ほどの「ペテロの第一の手紙」2章18節に、「たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい」とあります。なかなか難しい話です。「僕たる者よ」、僕となる人、それは誰であったか? イエス様ご自身が、父なる神様に遣わされた僕としてのご生涯を歩まれたからです。「心からのおそれをもって、主人に仕えなさい」。イエス様は先ほどお読みしましたように、父なる神様の御心だけを求めて、その御方に恐れおののいて従う。徹底して父なる神様の御心を行う。それは時には厳しい要求がされます。父なる神様の御心は楽な話ではありません。まさにあの十字架の道すらも父なる神様の求められたことでありました。だから「気むずかしい主人にも、そうしなさい」、言い換えると、自分にとって優しい人であろうと、難しい人であろうと、イエス様も父なる神様の求め給うところ、厳しいことであろうと、たやすいことであろうと、どんなことでも一つとして欠ける所なく御心に従い抜いて行かれました。そして19節に「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである」。どんな業をも神様を仰いで耐え忍ぶ。なぜか? 神様のためにそのことをしているからです。報いてくださるのは神様であると信じている。私たちもいま神様によってあがなわれ、そして「そうするようにと召された」のです。神様が私たちの主となり、私たちは神様の僕となりきって、どんなことにも報いてくださるのは人ではない、誰でもない、神様ご自身が報いてくださると信じる。信じて「神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶ」。また20節には「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである」。誰のことか? イエス様のことです。イエス様は罪なき御方でありながら、罪人とされ、十字架に命を絶たれる。そのときもイエス様は23節にありますように、「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」のです。イエス様は十字架の御苦しみすらも僕となりきって、父なる神様の求め給うことを信じきって、それによって誰からもお礼を言われる、報われることは一つとしてありませんでした。しかし、イエス様は絶えず父なる神様が報いてくださる御方と信じて、その与えられたところで黙々と死に至るまで従順に従い抜いてくださった。僕となりきって従うご生涯、そうなるようにと私たちも召されたのです。いま私たちがイエス様の救いにあずかったのはそのためです。だから、私たちの家庭であり、社会であり、職場であり、置かれたところ、実は救いにあずかった私たちは、そこに神様が遣わしてくださっているのです。だから、家族の世話をするといっても、それは親だから仕方なしにするのではない。救いにあずかった私たちは、主のもの、キリストのもの、主の僕であります。主がこの家族のためになすべきことを求めておられる。主の御心を信じて全力を尽くす。それに対して誰かが報いてくれるわけでもありません。しかし、神様はそれに必ず報いてくださる。だから、私たちの毎日の生活の一つ一つがそうです。どんなことも人のためにしているのではない。誰彼のためではない。ましてや自分の利益のためにでもなく、主が私にこのことを求められるから、神様がこのことを私に託してくださったことだから、私をここに遣わしてくださったことだからと、そこで主に仕えているのです。

 

「使徒行伝」20章17節から19節までを朗読。

 

これはパウロがいよいよエルサレムに戻って行く途中のことであります。エペソの教会の長老たちを招いて、告別説教といいますか、お別れの挨拶(あいさつ)をしたのです。というのは、この後エルサレムに戻れば、自分が捕らえられて殺されることを予感していました。だからこれが今生(こんじょう)の最後と、そう思ったのです。彼らに最後の挨拶をするために、ミレトという港町に、エペソの教会の代表を呼び寄せまして、話をしたときのことであります。その最初の言葉が19節にあるように、「謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」と。この最後の「主に仕えてきた」という、この言葉がパウロの生涯を表している言葉です。「主に仕える生涯」です。これはパウロだけでなく、私たち、イエス様の救いにあずかった者の生涯でもあります。私たちもそれぞれの家庭に遣わされ、世話をしなければならない家族がいたり、しなければならない仕事があり、あるいは職場に出て働かなければならない宮仕えの身であったりと、この世の業の中に置かれますが、だからといって、私たちはこの世のものとして生きるのではない。その家庭に、職場に、その業の中に主が私を遣わしてくださっておられること。仕方なしにではなく、積極的に受けようではありませんか。「いつまでこんなことをし続けなければならない。もういい加減にやめさせてほしい」と、「何とかしてよ、あなたたちも」と、家族に文句を言いたくなるでしょう。けれども、主が私をそこに遣わして、今、今日この仕事を、このことをさせてくださる。それが台所の隅であろうと、あるいは、世に出て働くことであろうと、会社に勤めているから、その会社のために働いているのではない。主が私をここに遣わして、この仕事に携わらせてくださっておられる。このことをまず自分が信じることです。主もまたそこで私たちと共にその苦しみを負うてくださっておられるのです。そうなると、私たちの生活がもっと明るくなります。喜びに変わるのです。自分は逃げたいのだけれども、仕方なしにこうなった。「嫌やだ」、「嫌やだ」と、「もうこんなことしたくない」と無理やり引きずられるような生き方であると、どんどん気持ちが沈んで、「何のために私は生きている? こんなのなら、早く死んだほうがまし」と、どこに神様がいらっしゃるやら、いつ救われたのか、訳が分からなくなる。そうではなくて、「今日も主がここに遣わして、このややこしい人間関係の中に私を置いてくださったのは、何か神様の使命がある、役割がある」と信じて立つ。パウロだってそうです。「謙遜の限りをつくし、涙を流し」です。「こんな者をこのために用いてくださる神様のために、悲しみや、苦しみや、悩みをあえて喜んで引き受ける」。それは、その人のためとか、その関わっていることのために、その組織のためにしているのではない。いつも主のために、このことを主が良しとして、喜んでくださるからです。

 

私もこれまでいろいろな方々のお世話をさせていただきました。中には「先生のところ、子供がいないから楽しんで、いいでしょうね」と。楽しいと言えば楽しいけれども、必ずしもそうばかりではない。時間も取られ、健康も取られ、本当に身を尽くさざることを得ないことがあります。時には「どうしてこんなことを引き受けなければならない」と思うこともあります。しかし、そこで絶えず立つべき場所は、「主がいま私にこのことを託してくださっておられる」、「主の御用なんだ」と信じる。だったら、できる限りのことをするしかない。するしかないと言いますか、神様はそれを“良し”としてくださる。これまでいろいろな人々との関わりの中に置かれてきました。では、どれほど報われたかというと、なにも取り立てて言うものはありません。でも主はご存じです。神様は全てのことを知っていてくださいます。だから、あるところまでさせていただいて、その人が成長して、巣立って行ってくれたら、それでおしまい。それは神様がそこまでさせてくださって、それでおしまい。後は主に感謝する他はないのです。私たちは主に仕えているのですから。

 

「ペテロの第一の手紙」2章21節に、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」。私たちがイエス様の救いにあずかる目的はここです。その後に「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残された」と。イエス様も苦しみの僕となって、父なる神様に遣わされた僕となりきって、十字架の道を歩んでくださった。私たちのあがないとなってくださった。どれほど私たちはその主に感謝したでしょうか?イエス様は「お前、有難うのひと言もないやないか」とは決しておっしゃらない。なぜならば、それは人のためにしているのではなくて、それは神様の喜び給うことだからです。

 

私どもも誰のためにしているか? 「いま私がこのことをしているのは、だれのためにしているのか? 」そのことを絶えず問うてください。気が付かないうちに「あの人のためにしてやらなければ、あの人に義理があるから仕方ない。前にこんなことをしてもらったから」と、「仕方ない」、「仕方ない」の人生では神様の報いを受けることができません。神様は私たちに今日もそれぞれいま生きるところに遣わしておられる。その主の僕となりきって、キリストの御足の跡に倣いたい。イエス様は誰のためでもない、父なる神様のために、ご生涯をささげきって、栄光のご生涯を全うされました。

 

私たちもこの地上に置かれている限り、どんな事情、境遇、問題の中に置かれても、「私は主のために生かされている者、キリストが私をここに置いてくださる」と、主のために果たす責任がある。このことを自覚して、最後までキリストの僕としての生涯を全うさせていただきたい。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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