いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(444)「主の命に従って」

2015年01月17日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」16章21節から28節までを朗読。

 24節「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。

 この記事はイエス様がピリポ・カイザリヤ地方に弟子たちと共に行かれた時のことでありました。そのことが16章13節の所から語られています。そこで、イエス様と弟子たちとが問答するといいますか、イエス様との交わりのときであったと思います。このときイエス様は、「人々は人の子をだれと言っているか」と弟子たちにお尋ねになりました。世間の人はイエス様のことをどういう人だと言っているかと。うわさといいますか、人々が言っていること、伝聞でありますけれどもそういうことをお尋ねになられました。それに対して弟子たちはそれぞれに自分の聞いたこと、知っていることを口々に答えています。エリヤであるとかエレミヤである、あるいは預言者の一人であるとか、バプテスマのヨハネの再来であるとか、世間ではイエス様についていろいろな評価といいますか、評判があったのです。イエス様は更に引き続いて「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と切り込まれたのです。世間での話を伝えるのは楽であります。聞いたことを言えばいいのですから。でも「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と突然振られてしまって、弟子たちは当惑したと思います。身近に知っているから余計に言いにくい。たまに会う人だったら、何とかご愛想を言っておけば良いわけです。しかし普段見知っている、寝食を共にしているイエス様が「わたしをだれと言うか」なんて言われたら「イエス様はイエス様でしょう」と言うしかない。その時にシモン・ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と、はっきり信仰告白をしました。「イエス様、あなたは生ける神の御子であるキリスト、救い主である、油注がれた人である」と。これは素晴らしい信仰です。イエス様を目の前にして、人の子であります。私たちと同じ肉体を持ったイエス様をして「神の子である」と言い切るとは、この時代としては大変なことであります。ユダヤ教の場合は神様以外に神なるものはいません。「神の子供だ」なんて言おうものなら、神を冒とくする重罪犯であります。宗教的な犯罪者であります。滅多なことでは言えない。ところが、このときペテロははっきりと「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。本人はそのように信じたのかどうかは分かりませんが、ペテロはそう告白したのです。その後、ペテロはイエス様を裏切るというか、十字架におかかりになる前、鶏が二度鳴く前に、ペテロは三度「イエス様を知らない」と言っていますから、普段から彼が必ずしも「生ける神の子キリストです」と信じていたのではないかもしれませんが、このときはそうだったと思います。

 私たちもそうですが、本当に恵まれて「私はこの神様について行きます」と言ったかと思うと、何日かしたら「そんなことを言ったかしら」と忘れるようなことがあります。ペテロも似たような者ですから、といって、それで安心しては困りますが、しかし、神様がちゃんとそれを受け止めてくださって教育してくださる。私はそう思うのです。ペテロはここでこのようにはっきりと断言してしまった。その後、彼はイエス様の期待に反するといいますか、思うようには行きませんでした。しかし、一度(たび)告白した信仰を完成してくださるのは神様です。だから、ペテロはその信仰を最後まで持ち続けて、ついにネロ皇帝の大迫害の中ローマで殉教する人と変えてくださったのです。これは大きな奇跡です。大きな出来事です。ガリラヤという一寒村、ひなびた、恐らくそうだろうと思うのですが、名の知れない小さな村の漁師であった者をやがてこの歴史に残る大伝道者として彼を用いてくださった。そのようにしたのは誰か?ペテロが努力した、研さんを積んだ、あるいは何年も修行を重ねて即身成仏というか、生き身のままに仏になるような、そういう難行苦行を経たわけでもないのです。ただ、神様が彼を捕えてくださってあっちこっちへといろいろな問題や事柄の中に引き回して、ついにその信仰を完成させてくださった。だから、私たちも大いに信仰を持って大きな事を言ったほうが良い。「こんなことを言って責任を取らされたらかなわないと、小さくなって『私は信仰がありません、私は駄目です』」と、そんなことを言っていたら、そのようになります。「いえ、神様、わたしはあなた以外に慕うものはありません」と言ったら、そのようにしてくださるのです。「そんなことを言ったら、あれはどうしようか、これは神様が取られるんじゃないかしら」と考えてしり込みする。私どもが「あなたはこういう御方です。私は信じます」と告白しますと、そのとおりに私たちの信仰を神様が完成に至らせてくださる。だから「言った以上、自分が最後まで責任を持たなければ」と思うことはありません。私たちの信仰をしっかりと受け止めて成長させてくださるのは神様です。だから、「私は、いまあなたのことをこのように信じています」と、はっきり言い表していく。そうしますと、そのように神様は応えてくださるのです。

 このときのペテロもそうでありました。イエス様は大変喜ばれて、17節「すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』」といわれた。ペテロが、まさにイエス様の合格点、100点です。模範解答をしたものですから、イエス様は大喜びをして、「この事をあなたに悟らせてくださったのは、あなたが努力したから、あなたに力があって知恵があったから、賢かったからではなくて」と念を押しています。「血肉ではなくて」とはそのことです。「天にいますわたしの父である神様がこの事をあなたに悟らせてくださった、教えてくださったのですよ」と言われたのです。確かにそのとおりで、信じることは神様の賜物、恵みであります。そして「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」とまで言ってくださったのです。これにはいろいろな解釈があって議論がありますが、いずれにしてもペテロのことを褒めてくださった。

 ところが、その後、いま読みました21節以下に「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」と。このときから公にイエス様ははっきりとご自分の使命が何たるものであるか、これからイエス様が受けようとする御苦しみがどんなものであるかをお話しになった。それは聞く者にとっては誠に不幸な悲しい話であります。これからエルサレムに行って苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる。「三日目によみがえる」とは、とうてい信じられません。苦しめられて殺される、ということまではよく理解できる。「三日目によみがえる」というのは分かりませんから、恐らく「死ぬ」ということを聞いただけでもうパニックになった。弟子たちはびっくりしたのです。22節「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った」と。イエス様を脇へ呼んで「そんなことはない、言わないでください。滅相もない」。イエス様が苦しめられて死んでよみがえる。「よみがえるのだから、良いではないか」と思いますが、それは結果を知っている私たちが言うことであって、まだ知らない弟子たちにとっては「苦しめられて死ぬんだ」と聞くだけで、「そんなことはあるはずがない」と言ってイエス様を引き止めました。それに対して23節に「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」と。ここでイエス様はペテロに対して「サタンよ、引きさがれ」と言われました。つい先ほど、何分もたたないと思いますが、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と褒めたと思ったら、今度は「サタンよ」と、手のひらを返したように叱(しか)られたのです。ここでイエス様が問題にしたのは、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことです。このときペテロはイエス様がそんなに苦しい目に遭うのは気の毒、こんなに親しくしてきたイエス様と別れるなんて「悲しい」と思ったでしょうし、「これから自分の生活はどうなるだろうか」ということもあったでしょう。そういう人間的なことのほうに彼の思いが行くのです。イエス様は父なる神様が自分に求めておられることは何であるか、神様の御心を行うことがご自分の使命でありますから、ただそのことにまっしぐらに向かって進んで行こうとしているのです。そこへきてペテロは「そんなことを言わないで、もうちょっと先にしなさい」とか、いろいろと引き止めたのです。こういうことはよくあります。私たちも時にそういうことがあります。「これは主の御心だから、私はこれを今しよう」と心に思いが与えられるが、同時に「そんなことをしなくてもいいじゃない。もうちょっとこうして、ああして」と別の思い、人の思いが湧いてくる。「そうか、あとにするか」と、負けてしまいますが、イエス様はそうではない。「サタンよ」と叱ったのです。

 その後、24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」と。イエス様は「わたしについてきたいと思うなら」と言われます。これはどういうことでしょうか?ペテロたちはガリラヤで漁師をしていましたので、そこで漁をして人生を送ればそれで済むわけです。ところが、「私についてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と、イエス様に言われた。それで船具も船も置いたままイエス様について行きました。だから、いうならば、生活の一切を捨ててイエス様について来たのです。そのときは恐らく「漁師などという重労働をしなくて済む。イエス様に付いて行けば食いっぱぐれがない」、「これは楽な話や」ということでイエス様に付いて行ったのかもしれません。しかし、イエス様が「わたしについてきたいと思うなら」と言われる。

なぜイエス様について行かなければいけないのか? それは礼拝でも教えられましたように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)。ここに「永遠の命」とありますが、イエス様はこれを弟子たちに与えたいと願っておられる。弟子たちどころか私たちに与えてくださるためにこの地上に遣わされてくださった神の御子でいらっしゃいます。イエス様について行くこと、それが永遠の命を頂くことなのです。だから、イエス様を離れて私たちは生きることができない。いのちがなくなる。いのちの源であるイエス様のおられる所に常にいなければいのちから切れてしまいます。神様のほうが自分の行く所に出向いていのちを与えてくださるのではありません。そうではなくて、私たちは永遠の命を求めなければ得られないのです。「ヨハネによる福音書」には「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(17:3)と語られています。分かりやすく言いますならば、イエス様を自分のものとすること、イエス様と共に生きる者となること。これが永遠の命の生涯であります。イエス様が私たちと共にいてくださるならば、私たちは常に命に輝いた者となって生きることができる。私たちの内に光なる御方、キリストが宿ってくださるからです。これが、イエス様が私たちのために備えてくださった救いであります。私たちの心が闇に閉ざされ、罪ととがとに死んでいたのですが、その闇を取り除いて光に照らされ、明るく輝いて望みにあふれ、喜びに満ちて、平安のうちに絶えず主を褒めたたえて讃美しつつ生きることができるのは、イエス様が常に私たちと共にいてくださるからです。そして、イエス様と共にいるために、イエス様の行く所へついて行かなくてはなりません。「私の行く所へ、イエス様、来てください」というのではありません。「私はこれをしたいからイエス様、来て助けてください」と、そうではなくて、私たちがイエス様について行く。そこにこそ永遠の命があり、そこに光があり、闇が消え去るのです。

イエス様が弟子たちに言われたとありますように、24節「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、イエス様の行く所に私たちがついて行く。これが、私たちが命にあずかる秘けつであります。従って行く。イエス様が右に行けば右、左に行けば左、まっすぐに行けば真っすぐ、止まれば止まる。イエス様の影のように常にイエス様を慕い求めて行く。「いや、それは目にも見えんし、私たちの日々の生活でどうやってイエス様について行くか」と問われます。それは私たちが常にイエス様を信じて「今、していること、私がしようとしていること、ここにイエス様が私を導いておられる」、「いま私はイエス様に従ってこの事をしているのだ」という自覚、その意識を絶えず持っていなければできません。ただ、自分のしたいことをし、自分の好きなことをし、自分の嫌なことは避けて、そのような好き勝手なことをしていて「私はイエス様に従っている」と確信して言えないからです。私たちがすることの一つ一つ、どんなことでも「いま私はイエス様に従っているのだ」という自覚、はっきりと告白する歩みをして行くことです。これは度々申し上げますように周囲の人には分かりません。「あなた、今ちょっとイエス様から離れているよ、ほら、ちょっと距離があるよ」とか、見て分かるなら非常に分かりやすい。ところが、分からないのであります。分かるのはご自分だけ、皆さん一人一人です。私たちが何をするにしても「いまここにイエス様が私を導いてくださる」「いまイエス様が私にこの事をさせておられる」「いまここに神様が私をここに置いてくださった」と、はっきり言い得る歩みをすることです。それがイエス様に従うことです。後ろをついて行くのですから、自分の好みを差し挟むわけにはいかない。「私はそっちが嫌ですから。イエス様ちょっと右へ行ってください」と、後ろから指示するわけにはいかない。ついて行くのですから、イエス様が右に行けば右、左に行けば左。だから、常に私どもはイエス様が動きなさる所にそのままについて行く。「民数記」のほうにイスラエルの民が荒野を旅していたときの記事があります。そこに「主の命に従って」という言葉が繰り返されている箇所があります(4:41・9:20.23・13:3)。「主の命によって道に進み」、「主の命によって宿営する」、全てことごとく神様がお命じになるとおりに旅路を進めて行く。これが荒野でのイスラエルの民の歩み方であります。イスラエルの民にとって、主に従っているかどうかというのは分かりやすかったのです。昼間は雲の柱、夜は火の柱があって、その雲が動くとき「いま神様が行けとおっしゃるから、はい、従います」。雲が動かないときはジッとして「いつ動くだろうか」と待ちながら、何日も同じ所にとどまる。その代わり動き始めたら瞬時に何もかもやめて、すぐに荷物をからげて付いて行く。これがイスラエルの荒野での旅路です。

それは今の私たちもそうです。イエス様の救いにあずかって、カナンの地である神の御国、永遠の命の具体化されるべき神の御国を目指して歩いて行く私たちは、この地上にあって絶えず雲の柱、火の柱に従う。ところが、それは見えないのです。私たちの心に御霊が、聖霊が宿ってくださる。だから、今は「進み始めたからついて来なさい」と、御霊が私たちを押し出してくださる。それが大切なのです。だからどんな時にも「いま私はここで主に従っている」「イエス様に従っているのだ」と、はっきり言い得る歩み。それは内容によりけりではないのです。何をしていてもです。「今日はイエス様に従おうと決めたのだから、イエス様、何を食べましょうか」と祈る。冷蔵庫をパッと見て「昨日の残りがあった。これを食べとこう」と衝動的に生きるのではありません。ことの内容がどうこうじゃないのであります。「主よ、今朝は何を食べましょうか」と尋ねて、神様が備えてくださる事を信じる。「これがそうでしたか。分かりました」と、感謝していただく。イエス様に従うとは、そういう一つ一つの小さな事柄を通してです。だから、片時もイエス様を忘れたらそれはできません。人と話をしていても、電話していようと、歩いていようと、いつも心の半分は、半分どころか常にイエス様が心に有るのです。

イエス様に従うには「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われます。自分を捨てることです。従うのはなかなか難しいのです。自分の思いのまま、心のまま、考えるところに従って、何でも自分のしたいようにやりたいと思う。これが人間の生まれながら持っている自我性です。何としても自分の思いを遂げよう。どうしてもこれをやろうとします。そのためになかなか従えない。人に対してもそうです。ご主人にも従えない。

先日もある方に「今日一緒に食事をしよう」と約束をしていた。すると、昨日電話があって「先生、約束したけどキャンセルしたい」「どうしたの」「ご主人のお母さんの亡くなったお兄さんの連れ合い。その方が亡くなったために、今日は前夜式があって、お母さんもちょっと疲れているし、私はやっぱり家にいたほうが良いと思うから、先生、断ってください」と。「せっかくなのに、でも、あなたはそこにいなければいけないの? 」「やっぱり私はいたほうが良いと思う」、「でも、お嫁さんはいないほうが良いのよ」と言ったのですが、「私がいないと義母が休まらない」「いや、あなたがいたら休まらないと思うよ」と。そして「あなたの気持は分かるから断るけれども、でもご主人は何と言っているの」「主人に聞いたら、そんなこと構わん、構わん、行って来なさい、と言うのだけれども」「良いじゃない。じゃご主人に従って……」「え!良いのでしょうか」「ご主人が良いと言ったら良いんじゃないの。それに従ったら」と。ちょっとつまって「どうして? 」と言ったら「いや、今まで従ったことがないから」と、今までご主人に従ったことがないからついご主人に従うのは気が引けると言う。だから私は「この際ご主人に従ったら」と。でも都合のいい時だけご主人に従うわけにもいかないから、今日従ったらこれからズーッと従わなければならない。彼女はそこを考えてちょっとためらったのかもしれません。人に従うだけでもなかなか大変です。あの人のことを思い、この人のことを思い、「こうしたらひょっとしたらあの人はこう思うかもしれない。おしゅうとめさんが何か言うかもしれない。こうしたら、子供たちが何とか……」。いろいろな思い煩いで、イエス様のことが忘れられてしまう。昨夜また電話がありまして「やっぱり行くことにしますから」と。私はいろいろな方を見て、従うというのは難しい。

ましてや見えないイエス様に従うのは、これまた難しい。どうぞ、ここにありますように、難しいから駄目だったら、私たちはいのちがなくなります。永遠の命を絶えず握って行く。その秘けつはイエス様と共に生きること。イエス様について行く以外にない。そのときに自分を捨てる、己を捨てるのです。これがいちばん厄介であります。己を捨てる、自分を捨てること、これは自分で何とかして自分を捨てたいと思うときがあります。自分の我がままで突っ張って周囲にいろいろな迷惑を掛けて雰囲気を悪くしてしまって、我がままな性格、あるいはひねくれた性格、かたくなな性格、腐った性格、挙げればいくらでも出てきますが、そういう自分を見ては「もう少し何とかならんだろうか」と嘆きます。それで「よし、これからは少し眉間(みけん)のしわを1本ぐらい減らそう」と「にこやかな生活を」と思いつつもすぐにそれが消える。何とかしようとしても自分の力ではできません。できないことにとことん徹底して来ましたから、最近は居直って仕方がない状態が多いのですが、それではイエス様に従えない。じゃ、どうすれば自分を捨てることができるか? 一つだけです。「自分を捨てよう」と思わない。では、どうすればいい。「イエス様について行こう」と努める。「イエス様に従って行こう。何があっても従って行こう」と、繰り返し、繰り返しそれを努める。たとえ転んでも、失敗しても、つまずいても「今度はイエス様に従って行こう」「今度はイエス様に従って行こう」と。主に従うことをすべてに優先させて、従うことを努めて行く。そうしているうちに、気がつかないうちに私たちは自分を捨てて生きる者と変えられるのです。神様のほうが私たちを造り替えてくださる。

もう一つ「自分の十字架を負う」と言われます。十字架を負うのは苦しい、つらいことのようです。罪無きイエス様が、ご自分の罪でもないのに人の罪のために十字架を背負ってゴルゴダの丘で死なれた。だから、自分の責任でもない、自分のせいでもない、自分と何のかかわりもない問題や悩みを負わせられることが「十字架を負う」ことだと思っていますが、ここで言っている「自分の十字架を負う」という、その十字架はどこにあるのか。これはキリストの十字架であります。パウロが「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言ったように(ガラテヤ 2:19)、イエス様の十字架は私の十字架ですと信じるのです。イエス様が十字架に死んでくださったのは、誰のためでもない。実は私のためです。私の赦されざる罪、私のかたくなな自我性、私のわがままな性情性格のためにイエス様はあの十字架に死んでくださった。その十字架は私のもの。その十字架を絶えず負うことです。だからパウロは「わたしは日々死んでいるのである」と語っています(Ⅰコリント 15:31)。十字架に死ぬのです。朝起きると「今日も私はキリストと共に死んだ者です」と。そして、そこで「主に従います」。「イエス様、あなたが導かれる所に従って行きます」。そのことを求めていると気がつかないうちに自分の性情性格が変えられ新しく造り替えられる。だから「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われるのです。「ついて来なさい」「従ってきなさい」。なぜならば、イエス様に従って行く所にこそいのちがある。だから、イエス様が「よし」とおっしゃるまで従って行く。どうぞ、私たちはこのことを努めていきたい。

 「ヨハネによる福音書」12章24節から26節までを朗読。

 26節に「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい」とあります。ここでもイエス様は「わたしに従って来なさい」と。イエス様に仕えて行く。いうならば、永遠の命でいらっしゃるイエス様と共にある。「わたしについてきたい」、そこについて行かなければ、従って行かなければイエス様と共におることができません。イエス様は右に行き、私は左に行くのだった永遠の命から切れてしまいます。だから「わたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう」と。イエス様のいらっしゃる所に私たちがついて行く。そこでイエス様に仕える。イエス様と共に生きる。これが永遠の命であります。「今日も主よ、あなたと共に歩んでいます」、「イエス様、あなたがこのことを導いてくださいました」、「イエス様、あなたに従って私はここまで来ました」と、感謝賛美してご覧なさい。今まで不安と心配と苛立ちと憤りに満ちていた闇の心が消えるのです。いのちが輝いてきます。本当に喜びが生まれる。たとえ、事態や事柄が変わらなくても、そこに主がいます。このイエス様が永遠の命なのです。このイエス様によって私たちが生きる。そして主が行かれる所、主の命(めい)に従って出で立つ。主の命に従って宿営をする。あのイスラエルの民の旅路、そのように私たちはこの地上の生涯を歩む。イエス様のおる所に私たちがおらしていただくことです。これが何よりも幸いなこと、自分の行きたい所、自分のしたいこと、自分の思いを遂げること、そこにはイエス様はいらっしゃらない。もしその自分の思いを遂げるならば、そこには不平不満、苛立ち憤り不安と恐れと失望が待ち受けているだけです。闇の世界です。ところが「私はイエス様に従うことができた」と、感謝を持って主に従って行くとき、そこにイエス様はいのちの光を照らしてくださる。私たちを明るくしてくださるのです。

 先日もある一人の兄弟に会いました。その兄弟は働いているのですけれども、「収入は少ないし仕事の時間も長いし、何とかもうちょっとましな仕事に変わりたい。今はこの仕事を辞めて自立して自営で仕事をやってみようかと思いますから、先生、どうですか」と言われる。だから私は「あなたはイエス様に従って行くのだから、イエス様がそれを『せよ』とおっしゃるならば、したらいいのだけれども、あなたにその確信があるの? 」と。「いや、別にそのような確信はない。無いけれども……、それはどうやったら分かりますか」と。「いまあなたをこの仕事、それは給料は少ないかもしれない、時間は長いかもしれない。しかし、少なくともあなたは祈って神様に導かれてここに来たのではないですか。だったら、ここで『もうお前の用はないか出て行け』と言われるまでいなさい。イエス様がそこに『おれ』とおっしゃる。イエス様がそこにいるのだから、あなたが勝手に飛び出したら、あなたの魂が死んでしまうから、ここで辛くても苦しくても……」と話しました。聞いてみるとその職場では彼は大変信頼されて用いられている。ところが、こんなに用いられているのに、その報いたるやちょっと割が合わん、と思っているのです。だから私は「そうではなくて、よく祈って、今ここに神様が置いてくださった以上、あのヨセフだってそうでしょう。ポテパルの家に置かれて神様がおれと言われる間はおった。あなたも感謝して喜んでおりなさい」と、彼はそのとき「はぁ、分かりました」。「神様のほうがあなたを動かしたいときには事を起こされるから、それまではじっと蹴飛ばされようと踏みつけられようと、『出て行け』と追い出されるまでいなさい」と言ったのです。すると彼は「はぁ、分かりました。これがイエス様に従うことですね。はい、分かりました」と、素直な人です。私たちはいつもそうですが、すぐ飛びだそうとする。神様が事をされるまではじっと待つのです。主が動きなさる時が必ずある。

 「マタイによる福音書」16章24節に、「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。イエス様に従って行く。これはイエス様のためにすることです。その後に「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と。ここに「わたしのために自分の命を失う者は」とあります。イエス様のためにでしょう。だから、私たちが何をするにしても「これは主のために」、「イエス様のためにこのことをさせていただいている」、「イエス様がこのことを私に求めておられる」と信じて、「イエス様の求めることを私はしているのです」、「イエス様に従ってこのことをさせていただいている」と、そこに自分の心を定めますと、イエス様が私たちのいのちになってくださいます。「イエス様のために」と、自分の思いを捨てる。「イエス様の願っていることですから」と信じて自分のしたいことをやめ、あるいは嫌なことを引き受ける。そのときイエス様は私たちのいのちになってくださる。失ったいのちをそれに代えて新しい永遠の命を私たちに注いでくださる。これは大きな祝福と恵みですから、私たちは日々の生活のどんなことも常にイエス様について行く。「いま私は主に従ってこのことをさせていただいているのです」、「イエス様のためにこの命を生きているのだ」と、絶えず自覚する者でありたいと思います。

 最後に24節のお言葉を読んでおきたいと思います。「だれでも」ですよ。「自分を捨て、自分の十字架を負うて」、常に十字架の主を見上げて、今日も主と共に死んだ者、そして「よみがえってくださったイエス様のために私はこのことをさせていただく」、私たちの人生そのもの、私たちの全てが主のものなのだ、ということを自覚しておきたい。はっきりと言い表す心を持ち続けたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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