いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(571)「あなたの神は誰か」

2017年07月27日 | 聖書からのメッセージ

 「出エジプト記」20章1節から10節までを朗読。

 

 3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。

 

 イスラエルの民はエジプトでの四百数十年にわたる長い奴隷の生活から、モーセという指導者を通して救い出されました。神様が約束の地カナンへと導き入れてくださったのです。そのことを語っているのが出エジプト記であります。カナンの地へ導かれる途中で、神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。イスラエルの民は信仰の人といわれているアブラハムを父祖として、その子孫が増え広がり、やがてエジプトの地に移住し、長い年月を過ごしたのです。神様はアブラハムに約束して「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする」(創世22:17)と約束してくださいました。その祝福は神様がイスラエルの神となり、彼らをご自分の愛する、特別に選んだ民とすること、これが約束された祝福です。全てのものの根源、造り主の神様がおられること、その神様はイスラエルを選んで、その民を通してご自分が今も生き働いている神であることを証ししようとされたのです。神様はどんなに大きなご愛をもって人を愛しておられるかを、イスラエルの民を通して語ろうとなさったのです。その歴史は私たちの時間とは違って、到底想像もつかない長いスパンといいますか、時間の流れの中で事を進めなさいます。今日の明日と、私たちはすぐにそう考えますが、神様は神様の時間の中で一つ一つ具体化しておられるのです。ですから、アブラハムにあらわれてくださった神様が、その約束を完成なさるのはまだまだで、神様の約束の祝福がやがて主イエス・キリストを通して、私たち、イスラエルの民族とは何の関係もない、血筋といいますか、血縁としては全く異邦人である私たちにまで及んでいます。神様の壮大なご計画の中にイスラエルは用いられ、道具として使われているのです。イスラエルの民に対して、神様はねんごろにご自分の思いを一つ一つ実現してくださる。彼らが長年の奴隷生活で苦しんでいるところから、モーセという指導者を立てて、パロ王様の過酷な手から救い出して、カナンの地へと導き入れてくださるのです。

 

 ところが、一筋縄ではいかない。イスラエルの民は我々と同じで、かたくなです。強情といいますか、神様を信頼しようとしない。というのも、神様は私たちの目で見ることができません。声で聞くことも手で触ることもできません。だから、人は手で触れないもの、見えないもの、自分の五感を通して感じることができないものは一切存在しない、と思いやすい。だから「神様は声も聞こえないし、見ることもできないし、いらっしゃらないのではないか」という、それに代えて見えるものを神としようとする。神様はイスラエルの民にいろいろなことを通してご自身がいらっしゃることをあらわしているのです。そのときは「これはなるほど、神様の御業だ」、「神様のなさったことだ」と言いながら、すぐに忘れてしまう。

 

 エジプトの強情なパロ王様の手からイスラエルの民を救い出すことは至難の業でありました。しかし、神様は数々の不思議な御業をもって神の力を現わしてくださった。とうとう最後にエジプトの全てのういご、最初に生まれたものを、人も動物も含めて全てのものの命を取るという(出エジプト11:4)、とてつもないわざを行いました。そのときさすがにパロ王様もお手上げになったのです。そしてついにエジプトの生活から彼らを解放しました。これとても神様のわざとしか言いようのない事態でした。そのときイスラエルの民は大喜びをしてエジプトを後にします。ところが、彼らが進んで行くさきには紅海が広がっている。後ろからはパロ王様が精鋭の軍隊を差し向け、押し迫って来る。といって、前には海しかない。そういう切羽詰まった状況の中にあって、神様は海に道を開く。海を分けてそこに渇いた地を現わし、イスラエルの民を救ってくださった。これは神様のわざとしか言いようがない。彼らはその瞬間は「なるほど、神様だ」と言って大喜びをし、神様を褒めたたえますが、それを通り過ぎると、すぐに神様を忘れる。

 

 イスラエルの民がカナンの地を目指して行く途中、神様を何度となく失望落胆させます。シナイ山の麓(ふもと)までイスラエルの民が来ましたとき、神様はもう一度イスラエルとはっきり契約を結ぼうとなさったのです。それでモーセを神様の御許に、臨在の下に呼び寄せなさいました。モーセは全ての民を麓に宿営させたまま、一人だけ山に登って行きます。それから40日間、神様とモーセが1対1の交わりの中で、神様は祝福を受ける道がどこにあるかを示して、律法といわれる神様の戒めを与えられたのです。「このことを守りなさい。そうすればあなたをわたしの民とし、あなたをわたしの祝福にあずかる者とする」と、アブラハムに与えてくださった約束を新しく、再び確認するといいますか、もっと細かくきちんとしてくださったのです。神様が人に求められること、律法の始まりがいま読みました十戒といわれるものです。

 

 3節に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と。これは第一の戒めです。さらに十の戒めが続きますが、それで終わりではありません。神様はその後、こうあるべきだ、こうすべきだ、こうしてはいけない、と細かい基準といいますか、人の生きる道筋を定められたのであります。しかし、何よりも大切なのは、この「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という戒めであります。どれが大切でどれがそうでないか、そんな比較をすることはできませんが、しかし、神様が最も求めている大切なものは、この3節のお言葉です。

 

 そして神様が求めている戒めが8節までに4つ語られています。これは人と神様との関係です。神様の前に人がどういうふうに歩み、神様を尊び、敬うにはどうすればよいのか。その後の12節からは、「あなたの父と母を敬え」から始まって、最後の「隣人の家をむさぼってはならない」までは人と人との交わり、在り方について神様が求められた基本であります。これに付随して後にいろいろな形で言葉を言い換え、敷衍(ふえん)して、内容を増やしたのが律法です。だから、「十戒」はある意味で律法の書の目次といいますか、律法の土台になるひとつの目録であります。その中でまず第一にいわれたのが、3節の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」ということです。

 

 よく言われることですが、「キリスト教は心が狭い」、唯一神、神様はただおひとりであると、「そんなことを言うから嫌われる」と言います。しかし神様が複数いらっしゃること自体が考えられないことです。神様はオールマイティーであって、おひとりいればそれで全てです。ところが、人が作った神様はそうは言えないから、分業化する。交通安全、あるいは病気治癒、学業優秀、商売繁盛と、それぞれの神々を設けています。それは人が自分の不安や恐れや、様々な生活上の不都合なことを取り除いてくれる、自分の気持ちを映し出す神々を作ったからです。だから、いくらでも神様は出来てしまう。ところが、まことの神様、まことといいますか、この御方しかいらっしゃらないわけで、この神様はおひとりです。神様によって全てのものが創られ、今ここに存在しているのです。神様は万物の創造者であり、全能の神でいらっしゃる。神様のご性質として、全知、全能、偏在という言葉を使いますが、いつでもどんな所にでもいらっしゃる御方、そしてどんなことでも知っている方、全知、全てを知り給う方。そしてどんなことでもなし得る力、全能の力を持っていらっしゃる。そういう神様が、二人も三人もいてご覧なさい、当然勢力争いになるに違いない。だから、そんなことはあり得ないのです。神様という方はただおひとりです。「じゃ、他の神々はいったい何なのか? 」というと、「それはただ神と称(しょう)している別のものであって、神ではない」ということです。

 

 ところが、まことの神様がいらっしゃるのですが、なかなか認めることができない。その理由は、他に神を求めているからです。だから、神様は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と言われる。どんなものをも神としてはならない。4節に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない」とあります。まず「形あるものを神としてはならない」ということです。よく「偶像」といいますが、木や鉄やいろいろな物で像を造る。それを神だと拝む。まず神としてそういう形あるものを造ってはいけない、これは神様が求められることであります。神様を神様とする上で、別の神を造ってはならない。「形ある神を造ってはならない」、いうならば、人の五感を通して理解できる、あるいは、人の知識をもって納得できるような、そういう姿形あるもの、必ずしも木であるとか、鉄であるとか、銅であるとか、木造とか、そういう形あるものを含めてでありますが、私どもは別段そういうものを神とすることはもちろんしません。今の若い人もそうでしょうが、昔のように木で造ったものや石で造ったものを飾るとか、拝むことは最近はあまり見かけなくなりました。「じゃ、そういう刻んだ像を造らないから神様を信じているのか」というと、そうじゃないですね。

 

人は神様なくしては生きられないのです。本来私たちは神様によって造られた存在でありながら、まことの神様でない他のものを神としてしまう。神ならぬものを神として生きる。神なくして人が生きることは、不可能です。必ず神様を求めます。それは私たちが神様を求める存在として造られているのであります。「創世記」に人が創られた記事がありますが、神様は土のちりをもって人を形づくりました。そのとき神のかたちに似た者として私たちを創ってくださった。そこに命の息を吹き入れて、人は生きる者とされたのです。いうならば、神様とつながって、神様と同じ霊を持つ者として創られたのであります。ですから、それを絶えず求める心が人の中にあります。「伝道の書」には「人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と語られています。「永遠を思う思い」とは、神様を求める心を人の中に置いてくださった。だから、人が心に平安といいますか、安心を得るのは、自分の造り主でいらっしゃる神様につながるとき、その神様を信頼する者となるとき、人は本当に安定するのです。だから、まことの神様を求めるゆえに、人はいろいろなものを神とするのです。まことの神様に行き着けばいいのですが、その神様は目には見えないし、手で触ることもできないし、よく心で見なければ、霊で、御霊によって悟らなければ分からないのが、まことの神様のおすがたです。だから、人はなかなかそこに行き着かないから、つい手近なところで自分の心の安心を得るために、あれやこれや様々な物をもって、それを神とする。これが私たちの世の中の姿です。それで神でないものを神としてしまう。いちばん手近なのは“己”(おのれ)を神とすることです。聖書にいわれているように、「自分を神とする」(ピリピ3:19)、「絶対こうだ」と主張する。あるいはいろいろなことがあったとき、「どうして? 」と問う思いに変わる。「何でこうなったの? 」と、不安や恐れを感じるとき、そのとき、実は自分が神様になっている。「絶対こうでないと駄目だ」、「絶対、それは間違いよ」と言い切るとき、自分を神としているときです。まず、人は自分を神としてそこに安心を得ようとする。だから、どんなことでもまず自分が思うこと、自分が計画すること、これが絶対いちばん良いこと、と思います。これが己を神とすることです。ところが、そうやって自分を神として、自分の考えにしがみ付いても上手く行かない。「絶対、こうしかならない」と言いながら、別のことが起こってくる。すると、自分に自信が持てなくなる。その結果、今度はまた別のものを神とします。人の言葉や過去の経験など、そういうものを頼りとする。だから、人の心に幾つもの神が生まれてくる。その結果、人はきちんと真っすぐな道を歩めなくなる。右に左に揺れよろめきながらの人生を生きる他ないのです。

 

一つの神様に徹底して信頼して行く。だから、神様が3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とおっしゃるのは、私たちが幸いな人生を生きるにはこの道しかないからであります。まことの神様、万物の創造者、全てのものを創り、今も力ある御手をもって、目には見えないけれども全てのものを生かし、また、私たちをもいま御手に握っておられるということを信じる。そして日々の生活の小さなことも大きなこともどんなこともこの神様のご計画と御思いによって進められていると信じる。これが、人が人として生きる基本であります。

 

“神とする”とはそれを頼りにすることです。それを絶対譲られない大切なものと考える。だから、私どもは「いや、私はそんな、他に神様なんて拝みはしません」と言います。確かに偶像の神、祀(まつ)られた神を拝むようなことはしないけれども、しかし、心の中に「これは私の頼りとするもの」というものを持つ。私たちが「これはもう失うわけにはいかない」、「これが私の救いだ」と握っているもの、それはまさにその人にとっての神です。他人から見ると仕様のないものであっても、本人にとっては命といいますか、命に次いで大切なものと思える。そこが既に神にしている結果です。だから、子供を神にする人もいるでしょう。「神にはしませんよ、子供は子供ですから」と言いながら、「この子には頼ろう」と、あるいは、ある人にとってはお金が大切、「これさえあれば……」と握っている。あるいはそれが友人であったり、仕事であったり、自分の家柄であったり、学歴、様々なもの、人はいろいろなものをもって、「これがあるから大丈夫」、「これが私を支えてくれるに違いない」、「何かのときは、これがある」と思っている、それがあなたにとっての神なのです。

 

3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。どんなものをもです。ですから、そういう一切のものを神様としてはいけない。確かに健康も必要だし、お金も必要でしょう、生活をするには食べる物も、いろいろな物が必要です。しかし、それは神ではなくて、まことの神様が私たちに与えてくださっておられる恵みであります。しかし、それはあくまでも一瞬の間のこと、それは無くなるときもあります。どんなにでも変わっていくものです。そういうものを頼りとするかぎり、そこには平安がありません。どうぞ、今一度私たちは「あなたはいったい、誰を、何を神としているのか? 」と自問してみてください。この聖書を通して証しされている、目には見えないけれども、今も力ある御方が、実は私をも造り、この世に命を与え、生きる者として、ここまで持ち運んでくださったこと、そういう御方がいらっしゃる。この神を信じることです。この神様を神として生きることが私たちの最も大切なことです。

 

「伝道の書」12章13,14節を朗読。

 

13節に「事の帰する所は、すべて言われた」とあります。これはどういうことかと言いますと、今まで述べてきた全てのことの結論はこのことであると。「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ」。神様を恐れよと。ここで言う神様は、聖書を通して証しされている、万物の造り主、目には見えないけれども私たちを造り、命を与え、今日も私たちを生きる者としておられる御方、神がいますことを信じ恐れる。「恐れ」とは、恐怖の「恐れ」という文字が使われていますが、もう少し広く深い意味で、神様を尊び敬い大切にせよ、ということです。確かに神様は怖い御方であり、力ある御方ですから、神様の意に沿わないことがあれば、どんなにでもそれを変えることができます。だから、怖いことではありますが、同時に神様は私たちを愛してくださる御方、ひとり子を賜うほどに限りないご愛をもって愛してくださる方です。その神様をまず第一にする、大切にする。その御方を尊んで、敬って生きる者となること、「これはすべての人の本分である」とあります。全て人としての不可欠な条件、「本分」とは、それを失ったら値打ちがなくなるようなものです。ですから、人が自分の造り主、目に見えない万物の創造者でいらっしゃる神様を畏(おそ)れなくなる。神様をないがしろにし、軽んじるようになったら、人としての値打ちはなくなる。そういう御方として、私たちがまず神様を尊ぶ、敬うことです。それは私たちが常に神のいますことを信じて行くことにほかなりません。だから、日々の生活の中でも、いろいろなことが起こるたびに「ここにも主が、神様が働いておられる」、「神様が今このことを導いていらっしゃるのです」と、認めること、そしてどんなことにも、そこに神様が働いていらっしゃることを信じるのです。

 

だから、イエス様が十字架におかかりになられたとき、両脇に罪を犯した犯罪人が同じく処刑されました。そのとき、一人の人はイエス様に向かって「お前が救い主なら、こんな十字架にかかっていなくて、降りて、自分を救い、そして俺たちも救え」と悪口を言います。ところがその時、もう一方の人は「お前は神を恐れないのか」、「自分たちはしたことの報いを受けているのだ。しかし、この方は何も悪いことをしたのではない」(ルカ23:41)と、それをたしなめます。その人は、自分たちのしたことの報いとして今十字架の処刑を受けようとしていることを認めたのです。それは神様を恐れる思いがそこにあるからです。

 

日々の生活のどんな小さなことも大きなことも含めて、そこに神様を認めること、これが神を畏れることの第一歩です。「このことも神様がご計画をもって導いていらっしゃることです」と。これからどうなっていくか分からないけれども、自分ではああなってほしい、こうなってほしいという思いはあるけれども、それを捨てて神を畏れる。神様を第一にする。これが「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」ということです。

 

ダビデがそうです。ダビデはまさに神様を畏れることを努めた人であります。彼は王の位に就いたとき、しばらくして国中が安定しました。ところが、そのとき息子アブサロムが謀反(むほん)を起こした。ダビデ王はそんなこととはつゆ知らず。突然アブサロムが兵を集めてエルサレムを攻めて来た。彼は大慌てで逃げ出して行きます。シメイというかつてのサウル王様の遠縁に当たる人物が、世が世なら自分たちが王宮に住むような身分であったのですが、ダビデによって自分たちは王の位を奪われたと思っておったのです。だから、ダビデが大慌てで逃げ出して行く姿を見て、悪口を言う。「ざま見たことか」と、そのときダビデの家来が憤慨して、「たたき殺してやる」と言いました。それに対してダビデは「彼を許してのろわしておきなさい」と言ったのです。「神様がダビデを呪えと彼にさせておられるなら、それを甘んじて受けるべきではないか」(サムエル下16:11)と。ダビデはそのように自分に不幸が起こっても、「このことも神様が許して起こしていらっしゃるのだったら、私は何も文句を言うことはできない」と、「また時を経て、神様はこの呪いを変えて私を救ってくださるかもしれない」と彼は語っています。息子から謀反を起こされて、悔しくて死にきれん、というような憤りや怒りがあるわけではない。「それは神様がなさったことです」と、神を第一にする。

 

私たちがそこを外れてしまったとき、他のものを神としているときです。他のものに心を移して、「こうでなければ嫌だ」とか、「私のメンツが潰(つぶ)れる」とか、そんなことにしがみ付いている。その人にとって名誉が神様になっている。私たちは、こんなことをしたら損をするとか、得をするとか、そればかりを大切にしている人は、その損得というそろばんずくで生きることが神様になっている。財布の中のことも、一日のスケジュールであっても、そこに神様がいますことを信じて、「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。常に神様を第一に、この御方を大切に尊び敬うこと、これが私たちに求められていること、神様が願っていらっしゃることに他なりません。

 

「出エジプト記」20章3節に、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。「なにものをも」です、どんなものをも。「ピリピ人への手紙」には「おのが腹を神となし」(3:19文語訳)とあります。自分の腹を神とする。いうならば、自分の情欲といいますか、そういうものを大切にする。ですから、「コロサイ人への手紙」には「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(3:5)と語られています。「貪欲」とはむさぼる欲です。それを満たそうとすること、自分の感情といいますか、情欲を優先する。全てに勝って、そのことを求めようとする、これはむさぼることです。「貪欲は偶像礼拝に等しい」と語られています。形あるものを拝んでいるわけではないけれども、その人にとって「これがなければ嫌だ」と握っているもの、それが神となっている。

 

 「いま自分は何を神としているのか? 」「まことの万物の創造者でいらっしゃる神様が今このことの中にも働いてくださる。ご計画をもって臨んでくださるのだ」と、恐れおののいて神様の御手を認めること、これが私たちのなすべきまず第一の事です。

 

 神という名は付いていないけれども、気が付かないうちに、私たちは心の中にいろいろなものを神としているのです。「これだけは……」と、「この事だけは……」と、それは有形無形、形のあるなしを問わず、私たちはいろいろなものを自分の神としやすい。神様は「自分の杖とするものを砕く」とおっしゃる。神様はそれを取られることがあります。ですから、神様をまず第一にし、神様を大切なものとして尊び敬って、目に見えない御方を絶えず信じて、その御方の前にへりくだって、謙遜になって、主に仕えていく者になりたいと思う。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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