いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(197)「頼みの綱を一本に」

2014年05月13日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇62篇1節から12節までを朗読。

1,2節「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。2 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない」。
 人はある意味で弱い存在です。何かあるとすぐに転んだり落ち込んだり、失望落胆します。だから、どうしても人は何かを頼らなければおられない。その結果が有形無形の様々な神といわれるものを造るようになります。人生には不安や恐れや心配、様々な納得いかないと言いますか、不合理なこと、あるいは不公平なこと、不公正があります。それだけに、自分の頼りとするものがないことにはどうにもならない。人は一人で立つことができないのが現実です。

 父が朝顔の例を話しておりましたが、朝顔はとにかく何でもいいから近辺の物に巻きついて、それを頼りにして立っていく。もし支えがなければクシャクシャになってしまう。つるで伸びていきますから、そのとおりだと思います。それと同じで、人も何かに頼らなければどうにもなりません。おのずからいろいろなものを人は頼りとします。身近なところでは主人であったり、奥さんであったり、それが頼りにならなければ子供であったり、孫であったり、それがなければお金であったり、地位や名誉であったり、学歴であったりと。とにかく手当たり次第です。人は何でもつかんで、これを頼んで、これでよしと、安心を得たいと思います。これはやむを得ないと言うか、当然であろうと思います。神様がそのようにお造りになられたからです。ただ、私たちが頼らなければいけない相手を間違えるのです。これが問題をますますややこしくしている。人は不安とか恐れとかを何とか逃れたい、安心を得たい、頼るものを得たいと思うから、八百万(やおよろず)の神々が出現するのです。

人の不安と恐れ、思い煩いがいろいろな宗教に変化している。だから、思い煩いの数だけ、宗教があると言ったらいい。お金に心配な人は「恵比寿さん」があったり、商売のことで心配があったら、その道の神様。また病気については弘法様とか大師様とかある。学問の神様ももちろんありますし、人が心配だなと思うあらゆるものにある。車社会になったら、宗像大社が交通安全となります。なぜ宗像大社が交通安全かと、皆さんは知らないかもしれませんが、あれは海の神様です。海難事故の……。海難と陸の事故と関係があるかなと思いますが、とにかく人は心配だから、いつ何が起こってくるか分からないから、それを頼らなければおられない。よくニュースを見ていると、種子島宇宙センターからロケットを飛ばす場面があります。宇宙へ衛星を打ち上げるのですから、実に最先端の科学技術の凝縮された分野です。ところがロケットを打ち上げる前にみんな集まって神棚を拝むのです。それを見ていると、いくら科学が進歩して自分たちの技術を誇っても、最終的にはやはり神頼みです。私はそれを見ながら笑ってしまうのですが、同時にこれが、人をそのように造ってくださった神様の恵みだと思います。なぜならば、人は神様抜きには生きられないことの証明でもあります。

弱くて何かに頼らなければいられないのは、神様が初めからそのような者として造ってくださった。だから、神様を知らないままで生きることはできません。「伝道の書」に、「人に永遠を思う思いをあたえられた」(3:11)とあります。「永遠」とは神様のことです。神様を求める心、思う心はすべての人に与えられている。正しい神様、正しい御方は一人しかいらっしゃいません。真(まこと)の神様につながればいちばん幸いですが、残念ながら、ほかのものに行ってしまうので、なかなか正しい歩みや、安心が得られない。なぜ真(まこと)の神様に人が行かないか。これは明らかに罪を犯した結果です。人間が自分に都合のよい神様を造るからです。いちばん大切なことなのですが、神様の前に人が小さな者、造られた者として存在するのか、あるいは自分が中心で神様を創り出すのか、これは180度方向が違います。ここが世の中の信仰のあり方と、聖書が求めている信仰のあり方との違いです。世の中の宗教は、一応謙遜(けんそん)に神様や仏様に頼ろうとしますが、その根っ子には、ただ自分たちの思いどおりに、自分の願いがかない幸せになりたいという願望を成就しようという構図があります。これは決定的な間違いです。それでは必ず行き詰ります。そうではなくて、本来私たちは神様の前に、真(まこと)の神様の前に自分を置くことが大前提です。「足からくつを脱ぎなさい」と、聖会で教えられましたように、私たちが神様の前に謙遜(けんそん)になる、へりくだった者となる。自分で思い描いている、自分はこうなったら幸せだという思いも捨てる。そうすると神様のほうが私たちに幸せを与えてくださる。ヨブ記にありますように「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福(こうふく)があなたに来るでしょう」(22:21)と。先ず、神様と私たちとの関係をきちっと整えて、人が人として、造られた者として、神様の前に謙遜(けんそん)になって、神様と私たちの間を妨げるもの、罪を取り除いて、足からくつを脱いで神様に従うと、神様からの祝福として自分の考えもしない、思いもよらない大きな幸せ、幸をくださるのです。実は、それがいちばん幸せな事なのです。ところが、人はなかなかそのようにはならない。なぜなら、自分の生活、生きている場所にあって、自分が考えてこれがいい、これが悪い、これは不幸だ、これは幸いだと自分で決めて掛かろうとするからです。そうすると、自分の思いどおりに行かない、自分の願いどおりに事が行かない、どうしようかと不安になる、恐れがわいてくる、心配になる。挙句の果ては何かに頼ろうと、あの人この人、人にも頼る、神仏何でもいいから手当たり次第、苦しいときの神頼みとなる。神様に造られた者でありながら、そのような偶像と言いますか、人の造ったものを頼るかぎり、私たちは安心を得られない、平安でいられないのです。

今読みました62篇表題に「ダビデの歌」と記されています。ダビデはご存じのように、イスラエルという国の王様になった人物ですが、彼は決して人を頼み、あるいは自分の軍隊や力を頼んだわけではありません。国の力が、分かりやすく表さられるのが軍隊でしょう。防衛力です。戦車の数、戦闘機の数がどのくらいとか、こういう武器がどのくらいあって、陸軍が何十万人とか、そのような数で競い合います。だから、各国が軍備拡張の競争をやります。それをよりどころにして勝利を得ようとします。ダビデも王様ですから本来ならそのようなものを頼んだでしょう。

ところが、彼は、1節に「わが魂はもだしてただ神をまつ」。ダビデは神様だけに信頼する。この「もだして」とは、「黙って」という意味です。ワーワー騒がない。私たちはすぐにワーとかキャーとか、滑ったとか何とか、嘆いたり悲しんだり、泣いてみたりします。そのように大騒ぎするのではない。ただ黙って神様を信頼する。ということは、余程神様に絶大な信頼を置かなければ、そうは成り得ない。私たちは何を頼りとするのか?先ほど申し上げたように、人は何かを頼らなければいられない存在、それは認めます。弱い存在です。病気になったらどうしようか、あるいは老後になってお金が足らなくなったらどうしようか。どうしようか、こうしようかと、いろいろなことで思い煩うことがあります。そうするとハラハラドキドキして、何かに頼ろうか、あの人にこの人に、こうしようかああしようかと、いろいろなことでない知恵を絞ります。その挙句できなくなって、いよいよ落ち込んで“うつ”になる。これでは神様が私たちを造り生かしてくださるご目的にかなわない。神様は嘆かれますね。

私たちが頼るべき御方は、ただ神様だけ。1節「わが魂はもだしてただ神をまつ」。どうぞ、私たちはこの年も神様だけを頼みとする。「わが救は神から来る」と歌われています。また同じことが5節に「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである」。「救い」も「望み」もすべて神様から来る。神様を信頼する。何か問題に当たって、さぁ、どうしようかと悩んだとき、あるいは行き詰ったとき、もうお手上げだという状況の中で、神様がいらっしゃると信じていく。神様に信頼する、これは私たちの特権といいますか、恵みです。これを使わなくして、人を頼んだり、事情や事柄を頼みにするならば、誠にもったいない。私たちにとって神様を信頼することができるのは、本当に幸いなことです。

エレミヤ書17章5節から8節までを朗読。

5節に「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる」とあります。「人を頼み」「自分の腕」を頼みとする。私にはあれがある、私はこれができる。私はこのような力がある。あるいは人を頼む。病気をしたらお医者さん、あるいは何か問題が起こったら弁護士に頼んだり、この人に頼んだりあの人に頼んだり、そのようにこの人がいてくれるから助かると思う。それは確かにそうかもしれません。しかし、私たちが頼るのは神様です。主を頼みとする。だから「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人」。神様よりもそのような人や物や事柄に心を委ねてしまう、これは不幸の始まりです。6節に「彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない」と、そこからは何一つ良い事が出てこない。取りあえずは事が収まると言いますか、一つが解決したら良いものに会って安心した、ということがあるかもしれませんが、すぐにそこから次なる問題、また次にと、次々と……、「のろわれる」とありますから、そこから一つも良い事が生まれてこない。ちぐはぐになる、事がうまくいかない、そういう意味です。だから「荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる」、実に索漠として慰めも喜びも希望も持てない現実の中で、取りあえず対処療法として目の前の事はこれで一応収まった。でもこの先どうなるだろう、という不安はいつまでも続きます。これが「人を頼みとし肉なる者を自分の腕としている間」、「心が主を離れている」とそのようになりますね。では、医者も何も頼らないのか?そうです。そのようなものを頼るのではなくて利用するのです。私たちの頼るべき御方は神様であって、神様が必要な時に必要な事を必要なだけ備えてくださる。神様が事を起こして、事を解決してくださる。これが大切です。生活の中でいろいろと必要なものがありますが、それは神様が備えてくださったものです。その神様を信頼するのであって、その事物や境遇を信頼するのではない。これをよく間違える。神様がそのように導いてくださった。

「先生、私は神様を信頼しておりまして、このような病気になったときに、この先生がいたから……」と喜ばれますが、神様を喜ぶことがない。先日も、私の知っている方が、そのように病気になり、入院しました。その病院でいちばんいい先生に主治医になってもらったと、大変喜んでおられた。まるで神の手のごとく信頼したのです。私は横で見ていて大丈夫かな、と思った。話を聞きながら、せっかく喜んでいるのに、「そんなのに頼って大丈夫ですか」とは言えませんから、「はぁ、そうですか。それは良かったですね」と言いますが、そんなに人を頼って大丈夫なのかと思いました。しかし、だんだんと病状が悪くなって、いよいよ駄目になった。すると医者は興味をなくす。治療の方法がなくなると寄り付きもしなくなる。あの先生一人に頼らないで、もっといろいろな方々に診てもらったらよかっただろうにと思いました。医者を神様にしてしまった。それに頼ってしまった。これは大きな間違い。そうではなくて、神様がどのように導いてくださるか、神様に頼らなければ幸いを得られません。もちろんそのような医者が与えられたことは、神様が備えてくださった事ですから、感謝はしますが、人に感謝しても仕方がない。神様がなさることであって、その先生がどうこうしたのではない。だから、もし必要なら神様がほかの道も備えられるだろうし、どのようなことをなさるか分からないから、神様を信頼するのです。そこをよく間違える。「私は神様を信頼したから、医者には行きません」と決めて掛かる。そうではないのです。神様を信頼するがゆえに、今、神様が導いてくださった道を大切にしていく。ところが、神様は事ごとに絶えず導きを変える。変えると言うのはおかしいけれども、私たちを導いてくださる道は一つだけではありません。ここが駄目だったらこちらへ、また次へといろいろなことを私たちに教えてくださる。だから、神様を信頼していると、私たちは自由です。

5節に「心が主を離れている人」、心が主を離れるのですよ。「人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし」「心が主を離れる」、これがいちばんの不幸です。だから、パウロが「私たちは自由であって何をしてもいい。ただそれが益になるかどうかは別問題」、神様が私たちに備えてくださる道がある、そのすべての事を支配していらっしゃる神様を信頼していく。それぞれの一人一人に神様が導かれる道があります。私にとって良かったから、あなたにとっても良いとはならないでしょう。「私はこの病気でこの道が与えられた。こういう問題ではここでこの人に頼んだらうまくいったからあなたもそうしたら」と、そうはいかない。神様を信じていく。心が主を離れないように神様を頼りとしていく。

7節に「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである」。本当にそうだと思います。神様を頼りにしていくと、どのようなお取り扱いを受けても、その背後に愛をもって顧(かえり)みてくださる神様を信頼していますから、それもよし、これもよし。どのようなことでも、私どもは構わないのです。しかし、それを神にするわけではない、してはいけない。そうではなくて、心はいつも主に向いていくことです。これは絶えず警戒しなければならないことです。うっかりすると気が付かないうちに、心までも取られてしまう。この人がいるから助かる。「もうあんたがいてくれて助かった。もうあんたがいなかったら私は今いないよ」と、そのようなことを言うようになったら、神様から離れてしまいます。

最近、家内の父は随分変わりまして、私がお見舞いに行くと、「ありがとう」「ありがとう」と言うようになりました。これは長くないかな、とも思うのですが、だんだん元気づいて、とても感謝してくれて、「あんたたちがおらんかったら、今の自分はない」と言ってくれるのです。それはうれしいですが、別に私たちが何かしたのではない。神様がそれをさせてくださったし、神様が義父(ちち)のために恵んでくださった道があり、事があるのです。だから、私は神様がこうして恵んでくださったと信じています。義父にもそのことを伝えるのですが、まだ分からないから、この人がいてくれて……と、家内を信頼する。娘ですから「わが娘、大黒柱、お前がいてくれてよかった」と言います。しかし、人間ですからひょっとしたらどうなるか分からない。それよりも、今そのように神様が備えてくださる。主がおられるから、これが駄目だったらほかの方法をいくらでも与えてくださる。ここを信じるのです。ここで「おおよそ主にたより、主を頼みとする」のです。私たちは、もちろん人から助けられたり、してもらったことについて知らん振りするわけにはいかないから、取りあえず「ありがとう」は言います。けれども「あんたがいなければ、私はもう死んでいたよ。あなたは命の恩人」なんて、そんなことまで言う必要はない。命の恩人は神様です。それをしてくれて、「ありがとうね。本当に助かりました」というけれども、それよりも何倍も「ありがとうございました」と、感謝するべき相手は神様。それによって、誰を信頼しているかがわかります。

8節に「彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。「暑さにあっても」あるいは「ひでりの年にも」、何があっても「憂えることなく」、それは私たちがどのような状況、事柄に置かれても、頼るべき御方はただお一人、神様こそ私の岩であり、私の避けどころ、私の救いだからです。どうぞ、この一年もこの神様だけを本当に心に信頼していきたい。神様が、私たちに備えてくださる一つ一つの道がありますから、その時、その時に、神様が導かれるところに感謝して従っていく。そして、常に神様に信頼し、心が神様からはなれないことです。

詩篇62篇1節以下に「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。2 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである」。「神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである」と。神様が私たちの岩であり、救いであり、高きやぐら、動かされない、私たちを守ってくれるとりでです。だから「わたしはいたく動かされることはない」、「いたく」と言いますのは、容易に、簡単にという意味です。私たちはそうたやすく動かされることはないと、動揺しない。この神様を信頼して、どのようなおとずれを聞いても、どのようなニュースが入ってきても、家族に何が起こっても、「大丈夫、神様がついていらっしゃる」と、神様に信頼していく。これが秘けつです。

歴代志下14章9節から12節までを朗読。

これはアサ王様の時代ですが、アサ王様は大変信仰深い神様を信頼する王様で、国内にあった様々な偶像を取り除いて宗教改革を行ったのです。そして、真(まこと)の神様だけを信頼することにしました。ところが、その時エチオピアからの大軍、百万の軍隊が攻めて来た。アサ王様には軍隊はない、あってもまことに乏しい、頼りにならない。でも彼には頼るべきものがあったのです。それは神様です。だから、彼はすぐに神様の前に出ました。そして、そこで祈りました。その祈りが11節に「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります」。彼はほかに頼るべきものがないから、ただ神様だけに頼ったのです。そして祈りました、求めました。その先に「主よ、あなたはわれわれの神です」と迫ったのです。あなたは私たちの神です、だから放っておいたらあなたの名がすたりますよと、そのくらいの迫力でアサ王様は神様に信頼したのです。私どもも、この神様に信頼する姿勢において、徹底していきたいと思います。どのようなことも神様が主でいらっしゃる。するとこの時、神様がエチオピア軍を打ち破ったのでエチオピア人は逃げ去ってしまったのです。神様はそれ以来35年近く戦いのない平和な国を与えてくださった。

歴代志下16章1節から3節までを朗読。

 長いこと太平の世を楽しんだ。アサ王様はちょっと鈍ったのでしょうかね、信仰が。36年目に、イスラエルの王様、同じ民族仲間でありますけれども北イスラエルの王様バアシャがユダの国を攻めて来ました。その時アサ王様は何をしたかと、お金を持ってスリヤの王様に援助を頼みに行った。先ずスリヤの王様と北イスラエルとの同盟を破棄して、自分たちを守ってくれるように交渉した。それに対してスリヤの王様はアサ王様の願いを入れて北イスラエルのバアシャとの同盟関係を破ってラマを築いていたのをやめました。ラマとは出城です。自分たちが攻撃するときの陣地を築いていたのですが、それを放棄して帰ってしまった。

これで一件落着だったのですが、7節に「そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、『あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった』」。あなたは何という事をしたのですか、あなたは神に頼らないでスリヤの王様に頼った。だからスリヤの王様はあなたの手から逃れてしまった。エチオピアの百万の大軍が攻めてきた時、あなたはどうしたかと問われた。8節の中ほどに「しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された」。素晴らしい体験をしたはずです。アサ王様はかつて神様に信頼して、とてつもない大軍であったエチオピアを打ち破ってくださった神様を知っているはずです。ところが、のど元すぎれば熱さを忘れる。本当に忘れっぽい。私たちもそうではないでしょうか。神様に信頼して、これまでいろいろな中をここまで導かれて来ながら、新しい問題が起こると、どうしよう!と、すぐほかのものに頼ったり、神ならぬものを神として、そちらに心を委ねやすい。私たちは自ら警戒して、もう一度神を神としてこの御方に信頼する者でありたい。この時ハナニがアサ王様に「どうしてそんなことをしたのですか」と叱責したのです。9節に「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる」。神様はご自分に「心を全うする」と言いますのは、一つ心になって、神様だけにしっかりと信頼する。その者に神様は力を現してくださる。「今度の事では、あなたは愚かな事をした」と、「この後、あなたに戦争が臨むであろう」。この時アサ王様は本当にへりくだって悔い改めて「ごめんなさい。申し訳なかった」ともう一度やり直せばよかったのでしょうが、「何を勝手なことをお前は言うか」と、アサ王様は神の人を獄屋にぶち込んでしまった。やがて彼は病気になった。その時何をしたかと言いますと、16章12節に「アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた」。これは決定的な失敗ですね。私たちもそのようにならないために、ダビデのように「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る」と、徹底して主に信頼しましょう。神様だけに心を向けて信頼して、主が何とおっしゃるか、主がどのような道を備えられるか、必ず神様を第一にして歩みたいと思います。そうすると神様のほうが私たちに「どこに行きなさい」「何をどうしなさい」と間髪を入れないで答えてくださいます。決して手遅れになったり、何か失敗する、あるいはやりそこなうことは決してない。神様はいちばんよいことを備えることができるのです。

ダニエル書3章16節から18節までを朗読。

これはネブカデネザル、バビロンの王様について語られた記事です。その当時、シャデラク、メシャク、アベデネゴは捕囚としてバビロンの国に連れて来られたユダヤ人でした。ネブカデネザル王様は優秀な彼らを自分の部下として登用したのです。ところが、それをねたむ人たちもいまして、彼らをわなに入れようと作戦を考えた。それは王様の虚栄心をくすぐるようなことです。「王様、あなたの像を金で造って、国中のラッパ、楽器の音を決まった時に吹き鳴らす。その音が鳴った時は、その金の像を全員が拝むことにしましょう」と決めました。どこからでも見える平原の真ん中に巨大な金の像を造るというので、王様は単純ですから「おれが褒められるなら」と、喜んでそれを造った。楽器の音が聞こえたとき、「もしそれを拝まない者は燃える火の中に投げ込む」と決められました。ところが、シャデラク、メシャク、アベデネゴはヘブル人でした。彼らは真(まこと)の神様以外は決して拝まない。この神様だけに仕える。だから、楽器の音が鳴ったけれども拝まなかった。彼らをねたんでいた連中は「そら、見たことか」と、三青年は捕らえられたのです。ネブカデネザル王様は「なぜ、お前たちは拝まなかったか」と問いました。彼らを愛していましたから、何とか命を助けてやりたい、と思ったのです。それでいい口実をつけさせようと「たまたま、ラッパの音が聞こえなかったのだな」と言ったのです。「いいえ、聞こえていました」と。王様は困ってしまいました。その後16節以下に「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」と。もし、私たちが燃える炉に投げ込まれるならば、私たちの仕える神様は生きておられるから、必ず救い出すことができますと。これは格好がいいですね。大切なのはその後です。18節に「たといそうでなくても」と、これです。

救い出してくださる神様を期待しますが、そうでなかったら、私はこの神様を捨てます、という思いがある。それはいけない。そこが問題です。「たといそうでなくても」、たとえ投げ込まれて助けられなくて、私が死ぬことがあっても、それは神様のなさることですから、私は神様以外のものを拝みません。これがヘブルの三青年の徹底した神様を信頼する姿勢です。私たちはアサ王様の道を行くのか、この三青年の道を行くのか。やがてこの三人は炉の中に投げ込まれました。ところが、王様は惜しいことをした、と思って炉を眺めていると、炉の中に三人のはずが四人の姿が見える。びっくりして「投げ入れたのは三人ではなかったか、四人いるではないか。早く出せ」と、呼び出した。すると縛っていた縄は焼けてなくなり、体にはその焼けたにおいすらもついてなかった。びっくりしまして、ネブカデネザル王様は「この三青年が拝む神様こそ真(まこと)の神様だから、この神様を拝まないやつは炉に投げ込む」と全く逆転した話になっていくのです。この三人が本当に神様に信頼したのです。

詩篇62篇1,2節に「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。2 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない」。「もだして」、私の頼るべき御方はこの方以外にありませんと、ただ神様を待つ。この神様だけに心を向けて、堅く信頼して動かされない一年でありたいと思います。いろいろなことが聞こえてきます。また目に見えます。するとすぐに動揺しますね。しかし、動揺する自分は駄目だ、と言うのではなくて、動揺したときに、「ハッ」とすぐに、主に向かうのです。神様につながっていく。そこで主により頼んで動かなくなる。これが幸いな生涯です。どうぞ、ダビデのように「わが魂はもだしてただ神をまつ」者となりましょう。ただ神様だけを心から信じて、信頼していく者でありたいと思います。そして主の恵みを受けましょう。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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