いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(574)「御言の力」

2017年08月23日 | 聖書からのメッセージ

 マタイによる福音書」8章5節から13節までを朗読。

 

 8節「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。

 

 イエス様がカペナウムという町に来られたときであります。そこに百卒長といわれる人がいました。「百卒長」とは、百人の部下を持つ隊長であろうと思いますが、ある程度の地位のある人であったと思います。聖書の記事を読みますと、「百卒長」はローマから派遣された占領軍、ユダヤの地方はその当時ローマ帝国の支配下にありましたから、そこに駐屯しているイタリアから来ているローマの兵隊たちであったと思われます。ですから、そもそも異邦人です。ユダヤ人から見れば、イタリアから来た人たちは自分たちとは接触してはならない異邦人でした。ですから、ユダヤ人と異邦人とが話をするとか、その人の家に行くなど、「汚れる」といわれましたから、まずはそういうことはあり得ない事態です。

 

 ここで百卒長が「みもとにきて」というのですから、よほどのことがあったと思われます。これは断られて当然であります。親しく話をすることすらもはばかられるような、そういう律法の世界に生きていたのです。百卒長はよほど部下のためにと思って、イエス様の所へ来たと思います。同じ記事が「ルカによる福音書」にも語られています。そこには「ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした」(7:3)と語られています。だから、直接百卒長が来たわけではなかったのかもしれません。しかし、いずれにしても、イエス様が本来ユダヤ人として交わりを持たない異邦人、神様の選びの民でない人たちにもイエス様の福音が語られている証拠でもありますが、百卒長自身もまたそういう環境の中であえてイエス様の所へやって来た。それはよほど部下のことを心配したのだと思います。

 

 6節に「主よ、わたしの僕が中風(ちゅうぶ)でひどく苦しんで、家に寝ています」と実情を語っています。「中風」と語られていますが、いまはほとんど使われません。脳溢血(いっけつ)とか脳梗塞(こうそく)というように、もっと細かく分けられます。「中風」とは身体的に不自由になる、マヒを起こすような病気、それらを総称して「中風」と昔は呼んだのです。その原因が定かでなかった時代であります。百卒長の僕がそういうことで苦しんでいる。イエス様の所へ訴えて来たのは、イエス様のうわさといいますか、その当時のことですから、「イエス様はこんなことをするらしい」と聞いていたのです。あちらこちらで病気の人を癒したり、あるいは、足の萎(な)えた人が歩けるようになったり、目が見えなかった人が見えるようになったり、そういう不思議なわざをなさる方だと百卒長は知っていたのでしょう。ですから、自分の部下の病気も、イエス様なら治していただけると信じた。彼は断られて当然ですが、そのことをいとわずやって来たのです。

 

 7節に「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」と。この時のイエス様はとても親切といいますか、優しいのです。スロ・フェニキヤの女の人(カナンの女ともある)が「娘が苦しんでいます」と言ったときは、「わたしはイスラエル人以外には遣わされておりませんから知りません」(マルコ7:3)と、つれなく断っています。イエス様のなさることは「いったいどうなっている?!」と思います。こちらでは良いし、こちらでは悪いしと。スロ・フェニキヤのお母さんも「ギリシャ人で」と語られています。この百卒長もユダヤ人ではなかったと思われます。けれども、イエス様は百卒長には優しく、お母さんには冷たくするなんて、「どうなっているのか? 」と思いますが、まさに神様のなさるわざは、私たちにはわかりません。神様はもっと深い御思いをもって一つ一つを決めなさるのです。だから、人間的にいうならば、平等に、公平にと思います。家族でもそうでしょう。子供が何人かいると、お兄ちゃんにもこうしたのだから、妹にもこうして、だったら、この末っ子にもこうしようと、そうしないと「不平等だ」と文句が出ますから、できるだけ同じようにしようとしますが、しかし、公平とか、平等とは、それぞれの人の能力に応じたことをする、あるいは、それを与えることが大切です。

 

 イエス様はタラントの譬えで語っていますが、5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれの僕に渡しました。「5タラントの人は2タラントの人より多く与えられた」のは、神様がその人の能力を知っていたからでしょう。だから、必ずしも全ての人が同じように取り扱われることが平等というわけではありません。神様は「この人に対してこれが必要」と思うことをしてくださる。こちらの人にはこれ。だから、スロ・フェニキヤの女の人、娘さんが病気で苦しんでいた人の場合は、やはりその人の心の状態、思いを知っていたのだと思います。だから、イエス様はつれなく断ったわけですが、断られたからこそ、この女の人は「小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と、イエス様にくらいついて行くといいますか、求めて行く。そこで初めてその人の思いが明らかになる。もしその人が求めたから、「はい、それじゃ私が行って治してあげましょう」となったら、そのお母さんの信仰がはっきりしないまま、ファーッと綿菓子のような状態で終わってしまうでしょう。そうすると、それはいつ消えて、「あれ、癒されたけれども、そういう時が来ていたのかもしれない」となってしまう。神様ははっきりと「これは主のわざである」ことを明らかになさるのです。だから、そのお母さんに対しては、ある意味では厳しく当たります。それは、お母さんの性格といいますか、心の思いまでも知り抜いておられたからそういう対応をなさるのです。神様のお取り扱いは、それぞれ一人一人に違います。神様はこの人にはこのように取り扱う、あの人にはあのようになさるのは当然です。

 

 だから、周囲の人を見て、「何年も信仰していたらあの人のようになるだろうか、この人のようになるだろうか」と考えますが、なるかならないか分かりません。それぞれに神様が求めておられること、また与えようとしている事が違うのです。だから、人を見ないで、「神様がいま私に最善をしておられる」と信じる以外にないのです。

 

 よく言われます。「あの方は大変恵まれて、あれもこれもと、神様はあの方になさる。不平等だと思います。私は一生懸命にお祈りをして、あの人以上に熱心に頑張っているのだけれども、ちっとも良くならない」と、不平を言われる方がおられますが、それは当然です。神様はあなたに期待していることがある。「次から次へと私に災いが起こって、家族の病気もあるし、こんな悩みも起こって、どうして私の所ばかりそうなのでしょうか」と。「いや、それはあなたのことを神様は愛しておられるからでしょう」と、「神様が愛しておられるのなら、あの人のように何もかもが三拍子そろって順調に……、ああなるのだったら」と嘆かれる。それぞれに神様の取り扱っておられることが違う。必ずしも、人が考えて、これが平等とか、こうあるべきだ、と思うことが神様の御思いと違うのです。だから、「イザヤ書」55章に「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(9節)と、神様のご計画は知ることができません。自分がいま受けている事態や事柄、「どうして私だけがこんな目に遭わなければいけない」、「神様は私を憎んでいるのかしら、私をいじめる」と、ひがみっぽく取っては駄目です。「神様は私を愛してくださる。私のことをご存じで、今こういうことを味あわせてくださる。その中で私にだけ与えようとしてくださる神様の祝福と恵みがある」ことをしっかりと覚えておきたいと思います。だから、人を見て、比べたら駄目です。

 

 このときの百卒長に対して、イエス様は実に優しいのであります。7節に「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」。これはうれしい話です。大喜びで、百卒長は「来てください」と言ったでしょうか。そうではありません。8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません』」、来ていただくわけにはいかないと言うのです。これは先ほど申し上げたように、異邦人であるがゆえにユダヤ人を家に迎えることができないということも含めた、社会的な制約、ユダヤ人の目をも考慮したのだろうと思われます。あるいは、この方がイエス様のことを本当に、神から遣わされた御方であると信じたとも考えることができます。神なる御方が私のような汚れた者の所へ来ていただくことはできないと、そういう信仰に立っていたことも考えられます。いずれにしても、「イエス様、恐れ多くも、もったいなく、異邦人の私のような者の所へ来て病気を癒してくださるなんて、滅相もない」という思いであった。

 

そこで、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言う。この人は「イエス様の言葉をいただいたら僕の病気も治る」と信じた。これは信仰です。お言葉を信じる。更に続けて9節に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。「わたしも権威の下にある」と語っていますが、隊長さんは、同時にもう一つ上の千卒長という、千人の人を抱える部隊長がいる。もっとその上にも上官がいる。指令官の下で全てが統率される、これは軍隊の必須条件です。上官の命令は決して破るわけにはいかない。絶対服従、これが権威の下にあることです。軍隊生活そのものがまさに言葉による生活です。命令一下(いっか)、命令によって、ひと言上官が「進め」と言えば進みます。「止まれ」と言えば止まります。一糸乱れず全ての者がその命令どおりにすることが、軍隊の大原則です。もし、一人でもそれを破る人がいたら、その人だけの問題ではなくて、それは部隊全体の問題になるのです。平時といいますか、普段の生活だったら、少々命令を守らなくても問題は起こらないかもしれませんが、戦闘状態のとき、敵味方が入り乱れて銃撃戦などになったとき、隊長が「止まれ」と言ったときに止まり、「伏せ」と命じられたら即座に「伏せ」なければならない。一人でも勝手なことをされると、敵にやられてしまいます。勝手な人が死ぬだけで終わらない。その部隊の所在がはっきりして一斉攻撃を受けるでしょう。だから、たった一人の不従順が、部隊全体の命運に掛かっている。これが軍隊です。だから、徹底して命令、言葉に従う。

 

9節に「わたしも権威の下にある者」とはそのようなことを含めている。しかも自分の下にも兵卒がいる。そしてその兵卒に対して「行け」と言えば行く、「来い」と言えば来る。どんな時にも、たとえそれが困難と思えても、上官が「こうせよ」と言えばそのとおりにするのが兵卒、部下の役割。だから「ただ、お言葉を下さい」、言い換えると、イエス様が全てのものの権威ある御方、力ある御方であることを彼は告白したのです。この百卒長は「イエス様、あなたは全てのものを統べ治め給う力ある御方です」と、彼はこの9節で語ったのです。そのことを聞いたイエス様は10節に「イエスはこれを聞いて非常に感心され」、付いて来た人々に褒めていらっしゃる。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」、イスラエル人ではないけれども、この百卒長はイエス様がどういう御方であるかを知っていました。そして、それを信じました。イエス様の恵みにあずかる、イエス様の力、ご愛、イエス様が私たちに与えてくださる全てのものを受け止める道筋がどこにあるか? それは、権威ある御方、イエス様の言葉に従うことです。これが全てです。というのは、上官である彼は、部下に命じるとき、部下の命を危険にさらすような命令は決してしない、とよく知っている。部下のためにはどんなこともいとわない。その代わり命じることはちゃんと守ってくれよ、そうすればあなたたちも幸せになれるし、命を全うすることができることを、上官としての体験、また自分自身も兵卒として仕えてきた経験から身にしみて彼は知っているのです。だから、ここでイエス様を権威ある御方、力ある御方、私はその御方に従うべき者、それどころか、全ての者がこのイエス様の命じるところに従うのだ、と彼は認めて、信じていた。だから、イエス様は10節に「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃったのです。ここで「こんな立派なことを言う人をお前たちも見習えよ」と言われたのではなく、百卒長の言葉を通して、「彼の中に、ここに信仰がある」と語っておられるのです。「これこそが信仰だよ」と。ここでイエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言われたのは、何であったか?というのが、今申し上げましたように、イエス様の言葉を権威ある、力あるものとして信じることです。お言葉を信じること、お言葉をしっかりと自分のものとして受け止めること、そして、その信じたところに従って行く。これが信仰だ、とイエス様は語っている。

 

11節以下にイエス様は、あなたがたは神に選ばれた民でありながら、終わりの日には捨てられてしまうであろう、と語っておられます。ここでイエス様が求めていることをずばり言い表したのが、この百卒長だったのです。イエス様は、ご自分が神から遣わされたものであって、神様の力と権威を握った御方、イエス様の語る一つ一つの言葉こそが、神の命令。それは私たちに命を与え、幸いを与え、喜び、力を与えてくださる神様の約束です。それが信仰です。だから、私たちが聖書のお言葉を信じること、神様のお言葉である御言葉を信じていくこと、これが全てです。

 

イエス様は13節に「それからイエスは百卒長に『行け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」。「あなたの信じたとおりになるように」、私たちが御言葉を信じること、これが全てであります。御言葉を信じて従う。これが私たちの信仰であり、いのちです。ですから、私たちは聖書のお言葉を繰り返し、繰り返し味わい知るわけであります。百卒長が言うように「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエス様はできないことのない御方、といって、イエス様が直接出掛けて、その病気の人に手を置いて、何かまじないのようなものでもしたら癒されたと、そうではないのです。イエス様を信じるのは、イエス様のお言葉を信じて、その言葉に従うこと、これが信仰であります。そうするときに必ず神様は、そこにご自身の結果を体験させて、味あわせてくださるのです。

 

「詩篇」119篇105節から108節までを朗読。

 

105節に「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」とあります。神様の御言葉、これは「わが足のともしび」、「足」というのは、歩みです。「わが道」、私たちの人生、生きる道筋、それをはっきりと示してくださる光。いうならば、御言葉が私たちにとっていのちの光であり、力である。その御言葉を絶えず守って実行する。106節に「わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました」。ここに「正しいおきて」といわれていますが、これは御言葉のことでもあります。107節に「わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」と。119篇の詩篇は、初めから終わりまで御言葉がどんなに私たちにとって大きな力であり、恵み、慰め、喜び、望みであるかを語り続けている。

 

「詩篇」119篇97節から104節までを朗読。

 

97節に「あなたのおきて」と書かれていますが、これは神様の御言葉のことでもあります。そのおきてを愛し、「ひねもすこれを深く思う」とありますように、いつもそのお言葉を自分の心に置いて、「ひねもす」、朝から晩までそれを反すうする、絶えず心に思い巡らす。また98節に「あなたの戒めは常にわたしと共にあるので」と、この「戒め」も神様のお言葉です。だから、戒めによって「わたしをわが敵にまさって賢くします」とありますように、愚かな者を賢くしてくださる。御言葉を味わい、神様の知恵を頂くとき、私たちに神様は悟りを与えてくださる。物事の全ての理(ことわり)といいますか、隠された秘密のことを明らかにしてくださる。これは聖書を読み、神様のお言葉を常に味わいますと、この世の中の……、それはもちろん学校も行っていない、学問もしていない人であっても、生きる知恵に満ちた賢い人になることができる。これは聖書にあるとおりです。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」と、130節にあります。世の中にはいろいろな知恵、言葉があり、人生を生きるには「ああせよ」、「こうせよ」と、賢くなるように、人を出し抜いて、少しでも勝利者になる、勝ち組になろうと、情報を集めたり、賢くなろうとしますが、しかし、いちばん幸いなのは、この聖書の御言葉を心に抱いて、そのお言葉を思い巡らしていくことです。

 

ですから、98節以下に「あなたの戒めは常にわたしと共にあるので、わたしをわが敵にまさって賢くします。 99 わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります」と。「あかしを深く思う」、これも御言葉を深く味わうことです。そうすると「知恵」を与えられる。そして100節には「わたしはあなたのさとしを守るので」、これも御言葉です。「老いた者にまさって事をわきまえます」、どんなに若くても人生の真実、様々なことを悟ることができる。それは御言葉を守るときです。聖書の御言葉が私たちにとってどんなに大きな慰めであり、また知恵であり、力であるか、そのことをしっかりと味わって行きたいと思うのです。103節に「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです」と。御言葉が私たちの心を豊かに慰め、力付け、また痛み、悲しみを慰めてくれる力ある甘いものとなって私たちの内に宿ってくださる。確かにそうです。

 

だから、私たちはいつもあの百卒長のように「お言葉を下さい」と、神様のお言葉を絶えず慕い求める。その言葉に潤(うるお)される、慰められる、力付けられる、これが信仰であります。

 

ですから、「マタイによる福音書」8章8節に、「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。「お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。聖書を読みますと、初めから終わりまで徹底して語られているのはこのことです。御言葉を信じる。

 

アブラハムもそうです。まずアブラハムに神様はあらわれてくださって、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)とおっしゃった。彼は神様の約束、お言葉を信じたのです。そして行き先を知らずに出て行きました。そのとき彼は「主が言われたようにいで立った」とあります。「行け」と聞きながら、聞きっ放し、「そのうち行きましょう」というのではなくて、「行け」と言われて、彼はそこから踏み出していきました。

 

ノアもそうです。ノアの時代は暴虐が地に満ち、悪がはびこっていた。ただノアは一人、神様を恐れる忠実な人でありました。ある日、神様はノアに船を造ることをお命じになりました。とんでもない話であります。彼にとってその船が必要なわけではない。ただ言われるままに彼は船を造る。その労力たるや、大変な苦労があったと思います。とてつもなく大きな船を造りました。そのときも神様は「このように造れ」と細かく指示を出していらっしゃる。その最後の所に「ノアはすべて神の命じられたようにした」(創世記6:22)と、ひと言語られている。ノアは神様のお言葉のとおりに従った。その結果、あの大洪水の中にも滅びることなく命を全うすることができた。これはやがて来るイエス様の予表、ひとつの予言でもありますが、イエス様の救いにあずかる私たちも、ゴルゴダの十字架で主に直接お会いしたわけではない、イエス様を肉体の目でもって見たわけではない、手で触ったこともない、何によってか?御言葉でしょう。聖書のお言葉を信じて、「それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16文語訳)と、こんな私を、ひとり子を賜わるほどに愛するゆえに、あの十字架にイエス様をくぎ付けてくださったと信じて、それによって救いにあずかるのです。その他、聖書に語られている全ての人が神様のお言葉を信じたのです。

 

 モーセもしかりであります。ところがイスラエルの民は、神様のお言葉を信じなかったために大変な苦労に遭いました。エジプトを出立して、間もなくヨルダン川を越えると、カナンという所、カデシ・バルネアに来たとき、神様は一つの試みを与えられた(民数記13章以下)。「その地を探ってこい」と、各部族から代表を出して、12人の人が出かけて行って、40日間、その地を探ってきました。その結果、素晴らしい喜びのニュースもあります。「その地は肥えた地であって、大変素晴らしい食物が実る所」と、収穫を持って来ます。彼らは大変喜んだ。ところが、そこには先住民がいて、自分たちが行ったらまるで虫けらのように踏みつぶされて滅ぼされてしまうと、それを聞いたとき、皆は意気消沈がっかりして、エジプトに帰ろう、モーセとアロンを殺してでも帰ろうとしたのです。そもそも「カナンの地、約束の地をあなたがたに与える」とおっしゃったのは神様です。ところが、現実の状態を見たとき、彼らはお言葉を信じなかった。そのときカレブとヨシュアは「主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません」(民数14:9)と彼らをなだめましたが、とうとう神様の怒りを受けて、更に40年間、荒野の旅路を歩むことになりました。なぜそうなったのか? ただ一つ、その聞いた言葉を信じなかったからです。そのことが「ヘブル人への手紙」にあります。

 

 「ヘブル人への手紙」4章1,2節を朗読。

 

 ここに「神の安息にはいるべき約束」とあるように、神様の約束をいま私たちもいただいております。この地上の旅路はやがて終わります。終わったならば、「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)とおっしゃる。「わたしの父に家には、すまいがたくさんある」、「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行くのだから」と。だから、私たちはそれを信じて、永遠のいのちの生涯に入れられる希望を持っています。しかし、現実に肉にあって生きている生活で、いろいろなことに捕らわれて、御言葉から離れてしまう。2節、「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった」と。イスラエルの民はせっかくカナンの地に入るという約束を受けながら、疑ったために神様の約束を信じ通せなかった。そのために40年の荒野の生涯を続けることになりました。しかし、その間も神様はマナをもって養い、岩から水を出して飲ませ、40年間、彼らを絶えず持ち運んでくださったのです。決して懲罰として、刑罰として40年間を与えられたのではなかった。むしろ、その40年間を通して、神様は、彼らをはぐくんで、成長させてくださった。

 

 だから、神様の御言葉をまず私たちが素直に受け入れ、信じ、お言葉に従うとき、神様は不思議なことをしてくださる。そこにありますように、「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかった」と。御言葉と自分とを切り離してしまう。「御言葉はなるほど立派なお言葉で、飾っておきましょう」と、飾ってはいるけれども、自分はそれとは関係がない。そこをつながなければ駄目です。御言葉に密着するのです。これが何よりも大切です。「主がこうおっしゃるから……」、「聖書にこう書かれていることなのだから……」、「神様がそうおっしゃることですから」と信じるということです。

 

 先だってもある一人の方がお証詞をしておられたのですが、その方は持っていた鍵をなくしてしまった。出先でなくしてしまって、開けようとしたら、「あっ、鍵がない」。しかもその方は家の鍵ばかりでなく、いろいろな仕事関係の鍵もたくさん束にしていた。落としていたらどこかで見つかるはずだと、それからあちらこちらいろいろな所に電話をして尋ねたけれども無い。そのときに御言葉が「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇 46:1)と、「悩める時のいと近き」、「いと近き」そばにいらっしゃる。「そうだ、神様にお祈りをしよう」と、それまであちらに電話をし、こちらに電話をし、忙しかった。どこにもない、それで「お祈りをしよう」と。「いと近き助け」と、約束です。私たちは御言葉を知りながら、信仰によって結び付けないとだめです。その方はそこでお祈りをした。そうしたときに、「そういえば、もう一軒帰りがけ、買い物に寄った店がある。でも落とせば音で分かるし、そんな所でいちいち鍵を出すこともないし」と思ったが、取りあえず、そこへ電話をした。「鍵を落としたけれども届け物はありませんか」と。「あの青いタグの付いた鍵ですか? 」、「はい、そうです」、「ありますよ。預かっています」と、瞬時にして事は解決。そのときもう一度、「いと近き助け」、「こんな所に助けがいらっしゃるのに私は一体どこをさ迷っていた」と、そのようにお証詞をしておられました。私は御言葉を信じることが大切だと思いました。聖書のどこにもあるでしょう。いくらでも皆さんがいま心配していること、悩んでいること、いくらでもそばに助けてくださる御方がいらっしゃる。「お言葉を下さい」。

 

 「マタイによる福音書」8章8節に、「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。百卒長にとってイエス様が「いと近き助け」であったのです。私たちにとって、あなたにとって「いと近き助け」は何でしょうか? あの人がいるから、この息子がいるから、これがあるから、あれがあるから、助けてもらえる。そうではありません。御言葉こそ「わが足のともしび」、しっかりと御言葉に絶えず潤され、力付けられ、そのお言葉と交わりをもつ。これが神様を愛することであり、イエス様に従うことです。「お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」、絶えず主のお言葉を信じて「そうです。あなたの約束のとおりです」と信じ、感謝して先へ進んでいきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


聖書からのメッセージ(573)「神の民の自覚」

2017年08月07日 | 聖書からのメッセージ

 ペテロの第一の手紙」1章13節から31節までを朗読。

 

 15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。

 

 「聖なる者となりなさい」といわれると、現実の自分を振り返って、「これは、到底無理だ」と思います。「聖」という言葉は、清い、あるいは崇高なという意味合いの言葉ですから、普段の私たちとは全く縁がない。しかも「あらゆる行いにおいて」といわれるように、私たちの生活の隅から隅まで、ことごとくにおいて「聖なる者となりなさい」という事です。「これは大変なことになった。神様からこんな要求を突き付けられて、そうでなければ救われないのだったら、私は到底無理」と、多くの人がそう思うでしょう。また、私もそれを求められたら、到底できようがない。「聖」という言葉は、そういう清い、何一つ汚れのない、透き通ったといいますか、光のような性質、性情、性格、「これが聖(きよ)いもの」と人は思います。ところが、人間はどんなことをしてもそういう者に変わることは、自分ではできません。世の中には非常にまじめな人がおられて、一生懸命、何としても自分の性情性格を造り変えて、清い、すがすがしい性格になりたいと願う人もおられます。そのために懸命に修業を積むといいますか、いろいろな難行苦行を耐えて、自分を鍛え、清める。人間は、そもそも様々な欲望が渦巻いていますから、いろいろな思いが絶えず湧いてきます。人の行動を見たり、あるいは、日々の生活で心が騒ぎますし、揺れます。怒る事もあるし、失望落胆することもあります。そういう自分を見ていると、何とも俗っぽい人間、欲もあれば、人をねたむ思いもあるし、「自分はどうしてこんな嫌な人間なのだろうか」と思います。そこへもってきて、神様は「聖なる者となりなさい」と。これはもう到底不可能、「私はそんな人間になれません」と言わざるを得ません。

 

 イエス様の所へ一人の人が訪ねて来て、「永遠の生命を得るにはどうしたらよいか」(マルコ10:17~)と尋ねました。そのときイエス様は「律法を守れ」と、まず十戒ですね、「これを守りなさい」といわれました。その方は「それはみんな小さい時から守ってきました」と言う。だからイエス様はその人に感心して、「いつくしんで」見ておられたと。幼い時から十戒の全てを落ち度なく守ったと自分で言える人は、まずいないと思います。皆さんでもそうでしょう。十戒の全部を落ち度なく守る。「わたしのほかなにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)、第一の戒め。これ一つ、徹底して守ることのできる方はいない。神様どころか、あれが大切、これが大切、私の命が……、と思います。形ある偶像は造らないけれども、心の中に神ならぬものを神とする。それどころか、己を神とする。「自分が神だ」と思っているときがあります。そのことを思っただけでも、戒めを完全に守り行うなんて、到底不可能です。

 

 ところが、イエス様の所へ来たその人は、「守った」と言うのです。だから、イエス様は感心したのです。「立派な人物だ」と思った。けれども、私がその記事を通して教えられるのは、到底人ではなし得ないような律法を完全に守ったその人ですらも、「自分はこれで良い」と言えなかったのです。やはり、「ここまでやったけれども、これで大丈夫だろうか、永遠の命という神様の救いにあずかるには、これでは足らないのではないか」という思いがあるから、イエス様の所へ来たのです。もし、自分が完全に落ち度なく律法を守りつくして、「自分はこれで神様の前に義なる者、清い者とされた」という確信があれば、イエス様の所へ来る必要はないのであります。ところが、彼にはその確信がなかったのです。自分の努力や、自分の力でそれを得ようとしても、確信が得られないのは当然であります。私たちが何かのために一生懸命に尽くします。「こうありたい、こうしよう」と努力します。しかし、「十分やったからこれで何の心配もない。パーフェクト」と言えることはありません。

 

 大学の受験生は入試まで一生懸命に勉強をします。勉強をし尽くして試験に臨みますが、誰ひとり「自分は大丈夫、これで通る」と思っている人はまずいないと思う。「8割ぐらいは大丈夫と思うけれども、後2割、あるいは1割はひょっとしたら?」という不安が常にある。完全に「よし」と言える人は、まずいません。確かに周囲の人は模擬試験の成績を見たり、偏差値を見たりして自信を持ちますが、たとえ全国模擬のトップであったとしても、いよいよ自分の希望の大学を受験するとき、「こんなのは朝飯前や」と言えるかと、やはり不安を感じます。「大丈夫だろうか、これでよかったのだろうか」と。「もう少し、あれもしておかなければ、これもしておかなければ」と。

 

私たちが神様の前に立って、「罪なし。あなたは何のとがめるところもありませんよ」と言われるために、自分で努力しなければならないとするならば、これはもう無理であります。そして、いくら努力してもそれに達し得ません。大丈夫との確信が得られません。

 

イエス様の所へ来たその人も自分はそんなに一生懸命に努力して守ってきた。「でも、まだ足りない」と思ったのです。イエス様は彼に「あなたの持っているものをみな売り払って貧しい人に施して、天に宝を積む者となりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とおっしゃったのです。「それが永遠の生命だよ」と言われたのです。ところが、その人は「それはできない。それはもう無理や」と思って去って行った。それはそうです。自分の力でやろうとすると、それはできないのであります。

 

となると、15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」と、とてつもない要求を出されたら、私たちはお手上げであります。「聖なる者となるためにどうすりゃいいのか? 」この世に生きていたら、自分は欲望の塊、あれもこれも欲しい。あいつは嫌いや、と心の中を見られたら、それはドロドロのヘドロだらけの心でしかありません。罪の塊であることは自分がいちばんよく知っている。到底聖なる者となりようがない。「では、神様は私たちに何を求めていらっしゃるのか」。ここに「あなたがたを召して下さった」とあります。神様は私たちを神様の所へ招いてくださった。私たちは今まことの神様を信じる者へと導かれていますが、誰一人自分の力でそうなろうと思ったわけではありません。確かに表向きは具体的な切っ掛けがあって、たまたま友達に誘われたとか、どうしても解決がつかない悩みがあったから、何とかその救いをと思って、教会の扉をたたいた。あるいは行き掛かりで、そこに教会があったから取りあえず入ってみようと入ったとか、それぞれの具体的な切っ掛けはあるでしょうが、実はその背後に、神様が私たちを招いてくださったのです。だから、今ここにこうして座っているのは、今朝「することがないから、教会へ行こうか」と、決めたわけではない。神様が思いを与え、願いを与え、押し出してくださったのです。背中を押してくださったのです。だから、今こうしてここにおらせていただくのです。だから「召して下さった」とあるように、神様が私たちをここに招いてくださったのです。その御方は「聖なる御方でいらっしゃる」と。神様は清い、聖なる御方、その聖なる御方にならうようにと招かれた私たちです。神様の御許(みもと)に引き出された私たちもその神様に等しい者となりなさい、というわけです。「さて、これからどうしようか」と。「そんな宿題を出されるために私は来たわけではない」と思うかもしれません。

 

ここで大切なことは、「聖なる」というのは、何なのか?「聖」というのは、神様のご性質であります。何か姿形のあるものが聖なるものではなくて、神様ご自身が聖なる御方でいらっしゃいます。私たちは、神様のご性質、聖なるものになることはできません。「だったら、なぜこんなことが言われているのか」と思いますが、確かに私たちは神様のご性質である聖なる者ではありませんが、この「聖」という言葉は、もうひとつ「取り分ける」という意味があります。神様のものとしてそれを取り分けるとき、これが聖なるものであります。言い換えますと、神様が私たちを招いてくださったのは、私たちをこの世から神様のものとして取り分けてくださったのです。

 

「ヨハネによる福音書」17章14節から19節をまでを朗読。

 

イエス様が最後の晩さんの席で祈られた最後の祈りであります。これはまた私たちに対する祈りでもあります。この14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」と語っています。「彼ら」というのは、私たちのことでもあります。イエス様が私たちの救い主となって、私たちが神なき世界に生きていた、自分勝手なわがままな自己中心の罪の中に苦しみうめいていた私たちを、イエス様はご自分の十字架の血潮によってあがなってくださった。命をもって罪の支配から買い取ってくださった。そのことが「世のものではない」といわれているのです。私たちはこの世には生きているけれども、もはや、この世のものとしてではなくて、イエス様の尊い十字架の命によって、この世から取り分けてくださった。キリストのものとしてくださった。ここに「わたしが世のものでないように」とあります。イエス様はこの世に属するものではありません。神の御子でいらっしゃる御方です。その御方があえて人となって、確かに人の世には住んでくださいましたが、それはこの世のものとして生きたのではなくて、神様によって派遣されたものとしてこの世に来ておられたのです。だから、イエス様はこの世に住んで、ペテロやヨハネたちと同じように、その時代の人と寸分違いのない、どこを取っても違った所のない“人”となってくださった。だからといって、この世のものではありません。

 

外国の政府機関から日本に遣わされて来る大使とか、領事などがいらっしゃいます。福岡にもアメリカや中国や韓国の領事館がありますが、その人たちは普段は町中に出て来て、私たちと同じスーパーでショッピングもしますし、韓国や中国の人たちは見たところ我々と同じ服装をしていますから、全然分かりません。じゃ、彼らは日本人かというと、そうではなくて、ちゃんとそれぞれの出身の代表であるという自覚があります。この日本の国民ではありません。

 

私たちもイエス様の救いにあずかって、イエス様を信じ、この世から神様のものとしてとり分けられた存在です。この世から神様に属するもの、神様の所有、言い換えると、イエス様の命を代価としてあがなわれた存在、買い取られた存在となった。ですから、イエス様が「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20:21)とよみがえられた最初におっしゃいました。私たちは、イエス様によってそれぞれの家庭や職場に派遣されているのです。だから、この世に生きていますが、「私たちはこの世のものではない」。これをまず自覚しておきましょう。そういうことをいつも自覚していらっしゃいますか? 案外忘れている。この世のものと一緒になっている。ところが、14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」とはっきり言われています。私たちはこの世のものではない。これがイエス様の救いにあずかる者の姿です。私たちは今日もこうして八幡の町に生きています。スーパーで買い物もし、生活する場所も、この世の人と全く同じであります。どこを取っても変わりはありません。違いがあるのは、魂、心です。これが違うのです。私たちはこの世にあるけれども、この世のものとして生きるのではなくて、神様によって遣わされて生きているのです。

 

 イエス様が15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく」とここで祈っておられるように、神様は、私たちをイエス様の命によってあがない、救い出して、私たちをこの世からどこか花のうてな(高殿)、カプセルのような温室に移してください、というわけではないのです。あるいは、深山幽谷、どこか人里離れた所に庵(いおり)を組んで、世から離れた別世界といいますか、超越した生活に私たちを置くというわけではありません。「いつも神様がこの取り分けられた、神の民とされた私たちを守ってやってください」。これがイエス様の祈りであります。そして16節にもう一度繰り返して、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」と。

 

その後の17節に「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言(みことば)は真理であります」とあります。「彼らを聖別して下さい」、清い者として、きちんと取り分けてください。そして「真理によって」とあります。「真理」というのは「御言(みことば)」と言い換えられています。御言葉によって私たちを聖なる者として取り分けてください。神様につける者としてくださいと。私たちはこの世に生きていますが、しかし、常に私たちが神様の所有、神様の子供とされて、御言葉によって絶えず神様との交わり、神様のいのちにつながっていく。これが聖なる者です。18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と。イエス様が父なる神様にこの世に遣わされてくださったように、今度は私たちをそれぞれの地域や社会や家庭や職場、いろいろな所に遣わしてくださる。だからといって、私たちはこの世のものではありません。誰のもの? 私たちは主のもの、神様の所有、神の子供、神の民であります。神様の所有とされる、神様のものとして自分を自覚していくこと、これが「聖なる者になる」ことです。聖なる御方、神様の所有になる。その結果、私たちは聖なる者と唱えられるのであります。

 

その人の持ち物となるということは、その人の所属であります。たとえば、やん事無き(非常に高貴な)身分のお方が、自分のものとしてハンドバッグとか、何かを持っている。そうすると、高貴な方のものですから、従者たちはそれを大切に持ち運びます。高貴なる人が持っているからといって、その品物が他の品物と性質が変わったわけではありません。デパートで買うしゃれたハンドバッグがあります。代価をはらって買いますと、その人の所有となります。天皇がそれを買ったら、品物は同じであっても天皇が握った途端に、他のものとは違うそれは大切な物として取り扱われる。

 

だから、聖なる御方が「これはわたしのものだ」と言ってくださったら、それは「聖なる者」です。これが聖別される、聖なる者となることです。私たちはいまイエス様の命によって神様に買い取られた。「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とイザヤ書(43:1)に語られている。神様の所有とされた私たちは、たとえ出来そこないで、腐ったようなものであっても、神様のものとされたゆえに、これが「聖なる者」なのです。そこで大切なのは、私たちがそれを日々自覚していくことです。

 

 ですから、「ペテロの第一の手紙」1章15節に「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。「聖なる者となる」、それは今申し上げたように、この世のものではなく、神様のものとして取り分けられたことを、私は私ではなく神様のものなのだ、ということをどんなことの中でも自覚して、決してそれを忘れない。これが大切です。私たちは今はっきりとそのことを自覚して「私は神様のもの、この世のものではない」「私は私であって、私のものではない」と自覚する。だからパウロは「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」(ローマ 14:8)といっています。神様のものは、みな清い聖なる者なのです。

 

 だから、神様に従う人々を聖徒といいます。「聖なる人々」なんて言われると、「くすぐったいような、とんでもないことを言われてしまった」と思いますが、自分が清いからではありません。私たちには聖なるものは何一つありません。しかし、聖なるお方が、神様が「あなたはわたしのものだ」と。神様の一部分として、神様の所有としてこの世から取り分けてくださった。このことを日々の生活のどんなことの中でも自覚していただきたい。だから、「あらゆる行いにおいて」と語られています。この世の生活の全てのことの中で、神様の所有とされた私、神様のものである“私”を常に自覚していく。そうしますと、気がつかないうちに私たちに神様のご性質が移ってきます。だから、パウロは「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)と語っています。イエス・キリストをいつも思う。取りも直さず、それは神様が私をあがなって、神様のものとされたのだ、と自覚していく、覚えていくことです。そうやって神様のことをいつも思い、イエス様のことをいつも心に覚えていますと、性情性格が変わります。神様は私たちをご自分のものとして、「これはわたしのものだ」と決めて、ご自分の所有にふさわしく手入れなさいます。

 

 無けなしのお金をはたいて大切な一つのものを買うと、それをなでたりさすったり、大切にするではありませんか。そして自分のいちばん使い勝手の良いものにしようとします。ましてや神様は、尊いひとり子の命をも惜しまないで、私たちをご自分のものとしてあがなってくださった、買い取ってくださった。「あなたはわたしのものだよ」、「あなたがどこへ行くにもわたしは一緒にいるじゃないか」とおっしゃる。私たちはそれを忘れるのです。そして勝手に神様から離れてしまうから、神様は「駄目だよ、わたしの所へ帰ってきなさい」と招いてくださいます。聖なる者として、神様はご自分の所有として、私たちを買い取ってくださった。だから、朝起きてから夜寝るまで、毎日の生活の中で、買い物をするにしても、洗濯をするにしても、何をするにしても、「いま私は神様のものとされているのだ。だから、神様の御心に従う」と心を決める。先程、「御言(みことば)によって聖別する」ということをイエス様は語っています。それはいつもイエス様のことを思うとき、御言葉が絶えず心に思い起こされます。不安なとき、恐れが湧いてくるとき、心配するとき、心を騒がすような事態や事柄の中、いろいろなことの中で、「いま神様がこのことを起こしてくださっておられる。神様が導かれることがあるに違いない」と、常に思いが神様に結び付いていく。そういう思いで常に生活してごらんなさい。私たちの性情、性格、顔つきから、立ち居振る舞いまで全部変わります。なぜ変わらないかというと、私たちが「主のものである」ことを忘れるからです。

 

 「コリント人への第二の手紙」3章15節から18節までを朗読。

 

 16節に「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」とありますが、「おおい」とは、私たちの罪のかしゃくといいますか、罪の幕であります。神様と私たちの関係を遮断していたものは何かというと、罪です。その罪を取り除くのは、誰の力といって、イエス様、十字架によるほかはないのであります。イエス様は十字架によって神様と私たちを隔てていた中垣を全部取り除いてくださいました。そして神様の栄光を見る者と変えてくださった。ですからここに「主に向く時には」とあります。私たちがイエス様に心を向けるとき、罪の一切の妨げを取り除いてくださる。そして直接顔と顔を合わせるごとくに神様のお顔を見ることができる。聖なる御方と一つにせられていく。17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。神様は、よみがえってくださった主は、いま聖霊、御霊となって、私たちの内に働いてくださる。だから18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」、言い換えると、罪の隔てなくして、隔てをすべて取り除かれて、「主の栄光を鏡に映すように見つつ」、神様のご性質、聖なる御方のご性質に、その姿を目の当たりに見るのです。だから、常に私どもが、今日も主によって取り分けられて、「私は神様のものです」と自覚していく。そうしてまいりますと、私たちの内に神様の光が、ご性質が注がれてくる。しかもその後に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」とあります。私たちの性情、性格、心と思いを全部清めて、神様のご性質に近い者へと造り変えてくださる。この素晴らしい恵みに私たちを引き入れて「聖なる者となりなさい」、「神様の所有となりなさい」、「神様のご性質に変えられて行きなさい」と勧められているのです。神様は私たちをそのように造り替えようと願っておられるのです。ねたむ思いや、憤る思い、あるいは自己本位の思い、譲られないかたくなな心がなかなか変わらずに苦しみます。それを何とかしようとしますが、既にイエス様が十字架によって私たちの罪を清めてくださったのですから、ただひたすらに神様に目を留めて行くこと、主のものであることを自覚していく。たとえ自分の状態がどんな状態であるかを見ながらでも、「いや、大丈夫、神様が私をあがなってくださった。神様のものとしくださった」と、片時も忘れてはならない。そして感謝する。「こんな者を今日も、主よ、あなたの民とし、あなたの子供としてくださって感謝です」と、絶えずそこにとどまっていきますと、神様のほうが親に似る子供に変えてくださる。神様はご自分の性質に私たちをあずからせてくださる。ここに「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と約束されています。これはすごいことです。神の聖なるご性質に私たちを造り替えて、この肉体にありながら、この世にありながら、私たちを永遠の御国に住む者へと変えてくださる。「これは霊なる主の働きによるのである」と、あなた方の努力によるではないのです。私たちの頑張りによってそうなるというのではないのであります。ただ、自分を神様の御手に委ねて行くとき、神様のほうが私たちを造り替えて、栄光の姿へと変えてくださる。

 

 「ペテロの第一の手紙」1章15節に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて」と、具体的な日々の歩みの中で、「私は主のものです」、「私はいま神様の子供だ」と自覚していく。そうすると、おのずから「神の子供だったら、その必要はない、これもいらなくなる、こうしておこう、ああしてあげよう」と、今まで自分になかった性質が芽生えてくる。今まで罪のゆえに隠されていた神様のご性質が私たちの内に新しく造りだされていく。だから、常に私たちはそのことを自覚して、「あらゆる行いにおいて」、友達と話すときでも、旅行をするときでも、どんなときでも「私は主のものです」と、神の子供とされている自分であることを、常に自らが自覚して生きる者となりたいと思う。そのとき、私たちの心と思いが全く造り変えられて、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、キリストの栄光の姿へと変えてくださるのであります。神様は「そうする」とおっしゃっているのですから、「はい、どうぞよろしく」と、無条件で神様の御手に委ねて行きたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


聖書からのメッセージ(572)「恐れを克服する秘訣」

2017年08月01日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨシュア記」1章1節から9節までを朗読。

 

 9節「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

 

 イスラエルの民はエジプトでの奴隷の生活から救い出されて、神様が与えると約束されたカナンの地を目指して、荒野の旅路をたどってまいりました。ところが、その旅の途中で神様から心が離れて、神様の怒りを引き起こすような事態となったのです。そのために、カナンの地を目の前にしながら、更に40年という長い間、荒野の旅路をたどることになりました。その間モーセはイスラエルの民の指導者として彼らを導いてまいりました。やがて神様の約束の時が来まして、ヨルダン川を越えて、カナンの地へ入る所まで来たとき、神様はモーセを「わたしの所へ帰って来なさい」と、天に引き上げられてしまいました。考えてみると、モーセにとっては痛恨の極み、まことに残念であっただろう、と思います。ミデアンの地にいたところが、80歳にして“燃えるしば”に出会って、神様からとんでもない使命を与えられた。波乱に満ちた人生に引きずり込まれたのです。

 

私たちも時にそういう事態に遭遇することがあります。自分が考えたように、計画したように、思ったような人生を歩んでいるわけではありません。例外なく「こんなはずではなかった」と思っています。「いつどこで、どう間違ったのだろうか」と、いい意味でも悪い意味でも、思います。それは人が計画してそのことを進めるものではないからです。いや、たとえ計画しても人の力ではできないことです。私たちを、受けるべき問題、悩み、様々な思い掛けない事柄や事態に引きずり込んでおられるのは神様です。

 

神様はモーセに「イスラエルの民を約束の地カナンにまで導け」とお命じになりました。それは彼にとって到底想像し難い人生の大転換でした。彼はやむなく、神様から迫られて、断るに断りきれなくて、とうとう引き受けざるを得なかったのです。神様は私たちをそういう事態の中に置かれます。やむなく、仕方なしにと、受けなければならない状況に組み込まれる。今までの人生を振り返って、自分はそう思わなかったのだが、仕方なしにこんな人生になって、こういう事態、事柄を選ばざるを得なかったと思うことが多々あると思います。そのとき私たちが思うことは、目の前のあの人が、この人が、こういうことがあったからと、そこに原因を求めようとしますが、それは間違いです。すべては神様によるのです。だから、全ては神様から始まっているのです。そこで神を認めるということが大切です。「今この事態に神様が私を引き入れておられる」と。モーセも神様にいろいろとへ理屈を並べて断ろうとしたのですが、全部塞(ふさ)がれてしまいました。断りようがなくなった。神様は万事万端を整えて、モーセが引き受けざるをえないように、それしか道がないように整えてしまわれました。それからのモーセは、覚悟を決める。「こうなったら、神様、あなたと一蓮托生(いちれんたくしょう)、行く所まで行きましょう」と、これがモーセの神様に対する信頼です。私たちとモーセの違う所はどこか? その覚悟がない。なぜなら、逃げ腰になるからいけないのです。今、この問題、悩みの中に、誰が引き入れたか、神様です。「じゃ、神様、私はあなたとトコトン行きますよ」と腹をくくればいいのですが、それができない。どこかで、逃げ腰になって、「何とか逃れる道はなかろうか」と、あちらに走り、こちらに走りするからいつまでたっても安心が得られない。

 

私はいつもそこを問われるのです。思い掛けないことに出会います。殊にこうして牧会伝道をしていますと、いろいろな事態が突発的にも起こってきます。自分の思わないような、願わないようなことももちろんあります。でもそういうときに、「ここはいま主が働いてくださるとき」、「いま神様がこのことを始めていらっしゃる」と、そこにいつも立ち返ります。そうしますと、心がぶれない。思いが定まるのです。モーセもそういう思いをもって、神様からのとてつもない使命を受けることになります。それからの40年間、80歳から120歳に至るまで、イスラエルの民を導いて行きましたが、それは平坦で順風満帆な歩みではなかったのです。場所は何と荒野でありますから、いま私たちが生活する文明の利器に囲まれた旅路ではありません。ましてや百万近いイスラエルの民を率いて行くのです。その間、「出エジプト記」や「民数記」に語られているように、様々なトラブルが続きます。苦労に苦労を重ねて、やっと40年たって、いよいよカナンの地、モーセとしてはひと目、一歩でも踏み入れたいと、また周囲の人もそう思ったことでしょう。「モーセのこれまでの苦労を考えたら、抱えてでもヨルダン川を渡ってやりたい」と思ったでしょう。ところが、神様はモーセに「もうお前の使命はそこでおしまい。わたしの所へ帰って来なさい」と、天に帰らせなさいました。

 

聖書に語られていますが、その前に一つの出来事がありました。イスラエルの民の「水がない」という不平に対して、モーセが「何というかたくなな民であろうか」と、思い余って、神様が「岩に命じなさい」と言ったのに、持っていたつえで岩をたたいて水を出した。以前レピデムという所で神様が「岩を打って水を出させなさい」(出エジプト17:6)という経験もあったのですが、今度は「岩に命じなさい」(民数記20:8~)と言われたのに、腹立ち紛(まぎ)れに岩を打ってしまった。「モーセは神様の聖なることを現さなかったから」と神様から責められます。その結果、この大事業の最終仕上げで、そこに出られないことになった。神様は命じた言葉どおりに忠実に従う者を求められたのです。モーセが従わなかったことを責められたのは確かであります。しかし、モーセが元気でヨルダン川を渡ったら、恐らく多くの民は「モーセがこのことをしてくれた」と、全ての誉れがモーセに行ったでしょう。モーセの銅像の一つや二つは建てられたでしょう。だから神様はそれを壊されたのです。神様のわざであることを明らかになさるために、あえて天に引き上げなさいました。神様は、ご自分の義を、神様の神たることをあらわそうとしておられる、ということが一つであります。

 

それともう一つは、神様はモーセの労苦をねぎらうために「お前はそれでよろしい」と、天に召されたのだと。モーセがヨルダン川を渡って民の称賛や誉れを得ることは彼にとって幸いかというと、そうではなくて、むしろ御国に帰ってそこで神と共に生きる者となるほうが、はるかに願わしいことであると思います。パウロも「わたしがこの地上に残っているよりは、私は早く主の御許に帰りたい。そのほうがわたしにとって幸いなのだ。しかし、なおこの地上にわたしがいなければならないとするならば、どちらを優先させるべきか、わたしは分からない。しかし、神様がとどまれ、とおっしゃるならば、この地上に残らざるを得ない、でもわたしとしては早く神様の所へ帰りたい」(1:21~)と、そういう意味のことを「ピリピ人への手紙」に語っています。モーセも恐らくそうだったと思います。確かに「自分の大事業の総仕上げ、最終場面を見たい」と思ったに違いないが、しかし、神様の御許に携え上げられて、神と共に生きる、新しい永遠の御国の生涯に入れていただけることは幸いであります。

 

私たちもそうでしょう。恐らくそうだろうと思います。中には「いや、一日でも、一秒でも長くこの世におりたい。孫の行く末を見たい。ひ孫の一人も見たい」と思うかもしれませんが、そんなことをしていたら、私たちは神様の前に道を全うすることはできません。それよりも私たちは「早く御国に帰りたい」と、思わないですか? 思いますよね。私はそう思う。「神様の使命を果たし終えたら、いつでもこの地上の生涯を終わりたいものだ」と思います。

 

それでモーセは神様の御許に帰って行きました。その後に残ったのは、1節に「主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、2 『わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい』」。今度はヨシュアに対して、「あなたをモーセに代えて民の指導者とする。あなたがこれから民を率いて約束したカナンの地へヨルダン川を越えて入りなさい」と。このときヨシュアは「してやったり」と思ったはずはない。大変な使命を負わせられる。それまではモーセの従者として、モーセの指示に従えばよかった。ところが、今度はヨシュアが矢面に立つといいますか、先頭に立たなければならない。神様から与えられたこの民にヨルダン川を渡らせ、カナンの地へ導き入れよと。しかもそこは探ってきたように、沢山の先住民が既に住んでいる。それを戦い取っていかなければならない。様々な悩み、困難が、想像するどころか、目に見えているわけであります。そんな所に出掛けて行くこと、しかも付いて行けばいいのではなく、自分が先頭に立って、それらに立ち向かっていかなければならない。ヨシュアは怖じ気付くといいますか、なすすべがなかったと思います。

 

私たちもそういう事態によく会います。自分の思わない、願わないような事態に引き出されるといいますか、立たせられる。「お前がそれをせよ」と神様が私たちをそこに置かれる。いま皆さんが受けているいろいろな事柄は、神様があなたに「それを負え」と、重荷を与えてくださる。ヨシュアに対して神様が「この民を率いてヨルダン川を渡って、カナンの地へ導き入れよ」と、これがヨシュアに与えられた使命であります。「私はヨシュアじゃないから」と思うかもしれませんが、私たちはいま神様がこの世に命を与えて生きる者としてくださって、80年か90年の旅路を導いてくださる。それはただ単に「好き勝手をせよ」と生かしておられるのではない。私たちに使命を与えておられる。「私の使命は何だろうか? 」、皆さんがこの地上に生きて、日々出会う事を通して、神様の栄光をあらわす、神の神たることを証しする神の証人としての使命を与えられているのです。

 

神様はヨシュアに対して「この民を導き入れよ」とおっしゃいます。見えるところの条件は、イスラエルの民を、ヨルダン川を渡って導き入れて、カナンの地にそれぞれ土地を得させて、安住の地を作り出してやる。これが目的ですが、実はこの事業を通して神様が求めていることは、その事業の中で神の神たることを証ししようとするのです。ヨシュアが自分の力や知恵やいろいろな人々を集めて委員会を設け、組織を作って、それで民を動かし、神様の約束であるカナンの地を自分たちのものとし、安住の地に仕立て上げていくことが目的ではない。それはあくまでも神様のなさることです。その仕上げていくプロセス、経過の一つ一つの中で神様が生き働いていらっしゃることをあらわすのが使命だった。

 

私たちもそうです。みなさんが今引き受けている問題、解決しなければならない事柄、それを何とかやり遂げようと、親の世話であったり、子供たちの世話であったり、あるいは自分自身の病気や、老後の不都合な事態の中で、「ああしようか」、「こうしようか」としているその一つ一つ、それを解決することが目的ではない。神様が私たちを生かしていらっしゃるご目的は、問題を解決していく中で、あなたが神様とどう向き合って、神の神たることをどのように証ししていくか、それが求められているのです。だから、私たちがこの世のことを何とかうまくやり遂げて、見える形での結果を出そうとするのは、私たちの目的ではない。結果は神様が出してくださる。だから、私たちは一つ一つの事柄の中で、祈って神様の力を求め、神様が知恵を与え、神様に従うことを通して、「私ではなくて、神様がここに働いているのです」と、あらわすのが私たちの使命です。その結果がどういうふうに仕上がるのか、これは神様が出される。いうならば、付録であります。その使命が終わったら、神様は「人の子よ、帰れ」と私たちを御許に引き上げなさいます。だから、私たちのすべきことは常に問題や事柄に出会う中で、神様を信頼していくことです。

 

ヨシュアは突然、神様から与えられた大事業を受けざるを得なかったのですが、そのとき神様は5節に「あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と約束なさいます。これから入っていくカナンの地、そこで出会ういろいろな出来事、想像の付かないような事態や事柄、その中で「わたしは、あなたと共におる」と約束しているのです。「共にいる」とは、「わたしがするのだ」ということです。神様が「わたしがそのことを導くから、あなたはわたしに従ってきなさい」。「あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と。神様が先立って、このことを導かれる。だから、ヨシュアのすべきことは何か。共にいてくださる神様と共に歩もうと努めること、共にいてくださる神様の思いを実行する、御心に従うことを努める、これ以外にないのであります。事柄や事態をどういうふうにしていくのか、あるいは、どういう結果に導くのか、それは神様が決めなさる。時々刻々、一つ一つの事柄の中で、神様がここにいてくださるのだと認めて、神様を第一にしていく。これがヨシュアに求めていらっしゃることです。だから5節の終わりに、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」。エジプトの地からイスラエルの民を救い出して、40年の荒野の旅路も常に神様が導いてくださった。確かにモーセは指導者ではありますが、しかも目に見える形での指導者ではありますが、しかし、モーセもその旅路の全てにあって、神様に従ったのです。神様の求めるところ、神様の「よし」とおっしゃるところに、徹底して従った。イスラエルの民に「お前たち、今度はどうしたらいいのか? 」、「何がいいのか? 」と民のご意向を伺い、ご機嫌を伺いつつ、モーセが指導したのではない。モーセは徹底して、共にいてくださる神様に向かって語りました。神様に求めました。神様はそれに応えられました。神様の御思いを民に伝えました。これがモーセの40年間旅路を歩んできた歩みです。

 

この時のヨシュアに対しても、「わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」と。イエス様が「 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)と約束されました。イエス様が今日私たちと共にいてくださって、なすべきこと、私たちの知恵となり、力となり、神様の御心にかなうように、思いを導いておられるのです。私たちも今ヨシュアのように、共におられるイエス様の、主の御声に従うことがなすべき全てです。これから先どのようになるのか、あるいは事態や事柄、いま目の前の私がしなければならないこのことに付いてどうしたらいいのかと思い煩いますが、どうしたら、こうしたらもない。ただ「主よ、今この状態ですが、どうしましょうか? 」と、主に聞くことしかありません。主が教えてくださるところ、主が語ってくださる御思いに従う。神様はヨシュアにこのことを求められました。

 

 6節以下に、「強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」と語っています。ここに「ただ強く、また雄々しくあって」とあります。神様が「わたしがあなたと共に行くのだ。あなたを見放さない、捨てない。だからどんなことがあっても「強く、また雄々しくあれ」と。

 

 私たちはここがちょっと弱いのです。イエス様が「わたしはあなたと共におる」と言われるのに、私たちは見える状態、人の言葉、肉に付ける思いに引きずられて恐れを抱く。この「恐れ」が、私たちの一番の弱みであります。人は恐れると弱くなります。「箴言」にも「人を恐れると、わなに陥る」(29:25)と語られています。私たちは弱くなる。だから、神様は私たちに「強く、雄々しくあれ」とおっしゃる。これは「恐れるな」ということです。なぜなら、「私が共にいるのだから」と。

 

 7節に「ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない」と。「律法を守れ」といわれると、「十戒から始まった律法を一字一句、忠実に守らなければいけない」と思います。そして「律法は新約聖書で語られていることとちょっと違うではないか」と思われるかもしれませんが、実は「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない」と言う、この意味ははっきりしています。簡単に言えば、「イエス・キリストに従いなさい」ということです。イエス様はご自身が「わたしは律法の終わりであり、完成者である」とおっしゃいました。だから、イエス様が来られてから、旧約時代のモーセの律法の書は、もはやイエス・キリストによって全うされた。だから、私たちがイエス様を心に信じて、イエス様の語るお言葉に絶えず耳を傾けていくことが、実は律法を守ることです。だから、ここにいわれている「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い」というのは、「イエス・キリストの言葉に従って、イエス様から右にも左にも離れたり曲がったりしてはいけない」ということです。「それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」。「イエス様と共に歩め」とここで言っているのです。ヨシュアの時代はまだイエス様の到来以前の話ですから、律法のことについて神様はお命じになりました。しかし、いま私たちは、この律法はイエス・キリストによって全うされた、完成されたものです。イエス様のお言葉に従うこと、聖書の御言葉を通して主の御思いを絶えず求めて、そこで神様に従っていくこと、これが律法を守っていくことです。「それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである」。そうです、私たちがどんなときにも絶えずイエス様を第一にして、主の御声を求め、主の御思いを求めて、神様に信頼する。神様の導かれる所に従って行くとき、必ず勝利を得させてくださる。私たちに望みと安心と力を神様はあらわしてくださる。

 

 だから、8節に「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」と。ここに「この律法の書をあなたの口から離すことなく」と、言い換えると、イエス様を心に信じて、「昼も夜もそれを思い」、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)とパウロは語っています。「イエス・キリストを、いつも思うこと」、これが律法を守り行うことに他なりません。「そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう」と、私たちに神の神たることをあらわして、私たちを辱(はずか)めることなく、神の民として、神の栄光をあらわす者として、用いてくださるのです。

 

 9節に「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」と。私たちは何か事が起こると、ハラハラ、ドキドキと、「ああなるのではないだろうか」、「こうなったらどうしようか」と、人を恐れる、病気を恐れる。痛い所があると、「どうなったのだろうか」、こうなったら「いつ死ぬのだろうか」と、焦りうろたえます。私たちが徹底して主に信頼するのでなければ“恐れ”が湧いて来ます。本当に弱いですからね。私たちはすぐに恐れます。そのときにいつも御言葉に立ち返り、律法の完成者でいらっしゃる主を見上げて、「ここに共にいてくださる」と信じて、よみがえりの主と共に生きる者とされていることをもう一度確認することが大切です。

 

 「歴代志下」20章20節を朗読。

 

 これはヨシャパテ王の時代でありますが、彼は敬虔な信仰を持った王様でありました。ですから神様は彼の治世、大変恵んで幸せな時代を過ごしました。あるとき、アンモン、モアブ、セイル山の人たちが戦争を仕掛けてきました。大軍が攻めて来るということで、ヨシャパテ王様は怖じ気づくのです。自分たちに戦う力がなかったのです。それでどうしたかというと、彼はまずユダの人々に神様を求めることを命じました。

 

 「歴代志下」20章3,4節を朗読。

 

 大軍に攻められて滅びようとする瀬戸際に立っていた。それに対して戦う力も何にもないのです。だから、ヨシャパテ王様は国中にお触れを出しまして、「断食して神様を求めなさい、お祈りをしなさい」と言ったのです。すると人々が皆集まって神様を求めました。その時ヨシャパテ王様も自分の近くにある神様の宮に出掛けて行って、その前にイスラエルの会衆と共に神様に祈りました。その祈りが5節以下に記されています。

 

12節に「われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。このときヨシャパテは神様に自分の思いを投げ出します。恐れが生じる。弱いですから、恐れが必ず付きまとう。どんなに強くあろうと思っても、すぐ恐れます。恐れないでいたいのですが、どうしても恐れる。これはある意味で幸いなことです。恐れるとき、「主を求めなさい」という神様からの呼びかけだからです。私たちが神様にピタッと密着しているとき、恐れはありません。少しずれますと、その隙間に恐れが忍び込んできます。恐れるとき、大抵私たちの心が、神様でなくて他のものに向いている、いろいろなことに思いが乱れているときです。だから、恐れを覚えるとき、これは幸いな恵みの時で、そのときすぐに「神様……」と、神様を求めることが大切です。こんなに自分が弱くて、いつも戦々恐々と恐れてばかりで、「私はもう駄目です」と言う、それは間違いです。恐れてもそこですぐに神様を求めることです。このときヨシャパテ王様も神様に求めました。「われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。神様の前に今の自分の状態を全部さらけ出すのです。格好をつけない。「当る力がない!」、「いかになすべきかを知りません!」、「知恵もありません」。恐れるときここまで居直らなければなりません。神様の前に格好をつけて、「神様、ここまでやりますから、足らないところは助けてください」と、「この辺がまだですが、こちらは大丈夫ですから……」と、そんなことをぐじゃぐじゃ言っている間は駄目です。「私は何にもできませんから、神様、あなたに頼る以外に他にないのです」と、これが恐れを克服する秘けつです。ここでヨシャパテは「われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません」と。「神様、私は何にもできません」、「ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。心に恐れが湧(わ)いてきたとき、不安になったとき、神様をどこまで信頼しているのか、どれほど私は全てを神様に投げ出しているか。他につかんでいるものがあるか。ここをつかみ、あれを握り、「それだけでは不安」だから、「もう一つ神様、保険の代わりにお願いします」と。それでは駄目です。それだといつまでも恐れは消えません。「知恵もない、力もない、考えるところもない、人もない、何もない、私にあるのは、神様、あなただけです」と、心から主に信頼し、主を呼び求めてください。そうすると、神様は必ず応えてくださる。神様は神の人を通してヨシャパテに一つの答えを出してくださいました。

 

15節に「ヤハジエルは言った、『ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、「この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」』」。ここで神様は「この大軍が攻めてきたのもわたしのわざであり、これを打ち破るのもわたしがするのだ」。私たちが恐れを抱いて、「神様、私の望みはあなた以外にありません」と、徹底して自分をさらけ出し、神様にしがみつくと、そのとき初めて悟るのです。「そうでした、このことは全て神様のわざで、神様が戦う主の戦い。私が戦うのではない」。私たちが与えられている問題を乗り越えていくとき、いろいろなことを考えます。あれがない、これが足らない、こうなるかもしれない、ああなったらどうしようと、そういう不安のためにどんどん恐れが深まって行く。これは主が起こされたのだ、という思いが消えているからです。

 

ですから17節に「この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい」とおっしゃるのです。私たちの信仰をここに置いて行きたいと思います。神様の戦い、「恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである」と。負け戦と分かっていても、「そこで踏み出して行け」と。これが私たちには少ない。私たちは手の内を計算して、「これだけあるから、これくらいはできるかもしれない、これはちょっと……」と、そうであるかぎり信仰に立てない。「神様が『行け』とおっしゃるのだったら、はい、何もありませんが……」と、「持てる力を持って行け」とおっしゃる。

 

ギデオンに対しても神様はそうおっしゃったのです。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい」(士師記 6:14)と、ギデオンは「わたしには力がない」と言うとき、神様は「大丈夫、何もない力で行きなさい」と、有りのままで出なさいと。だから、恐れないで、どんなにでも私たちを支えてくださる神様が共にいてくださいます。お金であろうと、健康であろうと、時間であろうと、人であろうと、どんなことでも与え給う御方です。だから、いま与えられている問題を逃げないで、それをしっかりと見て、「戦いに出て行け」とおっしゃるのです。

 

「歴代志下」20章20節に、「彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、『ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる』」。私たちはいろいろなことで恐れを抱く。財布の中を見ても、ないわけではない。「こちらにはあるのだが、これを使うと後がどうなるか分からん」と言って、「目の前のこのことにはちょっと出せないし、どうしよう」と悩む。そのときないわけではないから、今あるものを持って出て行けばいいのです。「でも、後が困る」と思う。「後のことは神様がご存じだ」と、そこまで信仰に立てるかどうかです。神様が空っぽになれば、また備えてくださる。力がなければ、力を与えてくださる。「いま与えられたものを持って、主よ、出て行きます」と、決めればいいのです。ところが、失いたくないと、いつも握っているものがあるから、すっきりしない。信仰のだいご味といいますか、まさに神様の戦い、主のわざを目の当たりに見ようではありませんか。

 

「ヨシュア記」1章9節に、「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。何か恐れることがありますか、あるいは不安を覚えることがありますか、もう一度、そこでしっかりと見つめ直して、いま自分はどこに立っているのか? 神様の前に信仰に立って歩む道はどこにあるのか? ヨシャパテ王様のように、「主よ、あなたが私の全てです。あなた以外に他に何も頼るものはありません」と、しっかりと神様にすがり付いて、私たちが立って行くとき、力が与えられる。神様はご自身の力、神の勝利をあらわしてくださいます。神様の与えてくださる結論、結果を共に喜ぶ者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


聖書からのメッセージ(571)「あなたの神は誰か」

2017年07月27日 | 聖書からのメッセージ

 「出エジプト記」20章1節から10節までを朗読。

 

 3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。

 

 イスラエルの民はエジプトでの四百数十年にわたる長い奴隷の生活から、モーセという指導者を通して救い出されました。神様が約束の地カナンへと導き入れてくださったのです。そのことを語っているのが出エジプト記であります。カナンの地へ導かれる途中で、神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。イスラエルの民は信仰の人といわれているアブラハムを父祖として、その子孫が増え広がり、やがてエジプトの地に移住し、長い年月を過ごしたのです。神様はアブラハムに約束して「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする」(創世22:17)と約束してくださいました。その祝福は神様がイスラエルの神となり、彼らをご自分の愛する、特別に選んだ民とすること、これが約束された祝福です。全てのものの根源、造り主の神様がおられること、その神様はイスラエルを選んで、その民を通してご自分が今も生き働いている神であることを証ししようとされたのです。神様はどんなに大きなご愛をもって人を愛しておられるかを、イスラエルの民を通して語ろうとなさったのです。その歴史は私たちの時間とは違って、到底想像もつかない長いスパンといいますか、時間の流れの中で事を進めなさいます。今日の明日と、私たちはすぐにそう考えますが、神様は神様の時間の中で一つ一つ具体化しておられるのです。ですから、アブラハムにあらわれてくださった神様が、その約束を完成なさるのはまだまだで、神様の約束の祝福がやがて主イエス・キリストを通して、私たち、イスラエルの民族とは何の関係もない、血筋といいますか、血縁としては全く異邦人である私たちにまで及んでいます。神様の壮大なご計画の中にイスラエルは用いられ、道具として使われているのです。イスラエルの民に対して、神様はねんごろにご自分の思いを一つ一つ実現してくださる。彼らが長年の奴隷生活で苦しんでいるところから、モーセという指導者を立てて、パロ王様の過酷な手から救い出して、カナンの地へと導き入れてくださるのです。

 

 ところが、一筋縄ではいかない。イスラエルの民は我々と同じで、かたくなです。強情といいますか、神様を信頼しようとしない。というのも、神様は私たちの目で見ることができません。声で聞くことも手で触ることもできません。だから、人は手で触れないもの、見えないもの、自分の五感を通して感じることができないものは一切存在しない、と思いやすい。だから「神様は声も聞こえないし、見ることもできないし、いらっしゃらないのではないか」という、それに代えて見えるものを神としようとする。神様はイスラエルの民にいろいろなことを通してご自身がいらっしゃることをあらわしているのです。そのときは「これはなるほど、神様の御業だ」、「神様のなさったことだ」と言いながら、すぐに忘れてしまう。

 

 エジプトの強情なパロ王様の手からイスラエルの民を救い出すことは至難の業でありました。しかし、神様は数々の不思議な御業をもって神の力を現わしてくださった。とうとう最後にエジプトの全てのういご、最初に生まれたものを、人も動物も含めて全てのものの命を取るという(出エジプト11:4)、とてつもないわざを行いました。そのときさすがにパロ王様もお手上げになったのです。そしてついにエジプトの生活から彼らを解放しました。これとても神様のわざとしか言いようのない事態でした。そのときイスラエルの民は大喜びをしてエジプトを後にします。ところが、彼らが進んで行くさきには紅海が広がっている。後ろからはパロ王様が精鋭の軍隊を差し向け、押し迫って来る。といって、前には海しかない。そういう切羽詰まった状況の中にあって、神様は海に道を開く。海を分けてそこに渇いた地を現わし、イスラエルの民を救ってくださった。これは神様のわざとしか言いようがない。彼らはその瞬間は「なるほど、神様だ」と言って大喜びをし、神様を褒めたたえますが、それを通り過ぎると、すぐに神様を忘れる。

 

 イスラエルの民がカナンの地を目指して行く途中、神様を何度となく失望落胆させます。シナイ山の麓(ふもと)までイスラエルの民が来ましたとき、神様はもう一度イスラエルとはっきり契約を結ぼうとなさったのです。それでモーセを神様の御許に、臨在の下に呼び寄せなさいました。モーセは全ての民を麓に宿営させたまま、一人だけ山に登って行きます。それから40日間、神様とモーセが1対1の交わりの中で、神様は祝福を受ける道がどこにあるかを示して、律法といわれる神様の戒めを与えられたのです。「このことを守りなさい。そうすればあなたをわたしの民とし、あなたをわたしの祝福にあずかる者とする」と、アブラハムに与えてくださった約束を新しく、再び確認するといいますか、もっと細かくきちんとしてくださったのです。神様が人に求められること、律法の始まりがいま読みました十戒といわれるものです。

 

 3節に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と。これは第一の戒めです。さらに十の戒めが続きますが、それで終わりではありません。神様はその後、こうあるべきだ、こうすべきだ、こうしてはいけない、と細かい基準といいますか、人の生きる道筋を定められたのであります。しかし、何よりも大切なのは、この「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という戒めであります。どれが大切でどれがそうでないか、そんな比較をすることはできませんが、しかし、神様が最も求めている大切なものは、この3節のお言葉です。

 

 そして神様が求めている戒めが8節までに4つ語られています。これは人と神様との関係です。神様の前に人がどういうふうに歩み、神様を尊び、敬うにはどうすればよいのか。その後の12節からは、「あなたの父と母を敬え」から始まって、最後の「隣人の家をむさぼってはならない」までは人と人との交わり、在り方について神様が求められた基本であります。これに付随して後にいろいろな形で言葉を言い換え、敷衍(ふえん)して、内容を増やしたのが律法です。だから、「十戒」はある意味で律法の書の目次といいますか、律法の土台になるひとつの目録であります。その中でまず第一にいわれたのが、3節の「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」ということです。

 

 よく言われることですが、「キリスト教は心が狭い」、唯一神、神様はただおひとりであると、「そんなことを言うから嫌われる」と言います。しかし神様が複数いらっしゃること自体が考えられないことです。神様はオールマイティーであって、おひとりいればそれで全てです。ところが、人が作った神様はそうは言えないから、分業化する。交通安全、あるいは病気治癒、学業優秀、商売繁盛と、それぞれの神々を設けています。それは人が自分の不安や恐れや、様々な生活上の不都合なことを取り除いてくれる、自分の気持ちを映し出す神々を作ったからです。だから、いくらでも神様は出来てしまう。ところが、まことの神様、まことといいますか、この御方しかいらっしゃらないわけで、この神様はおひとりです。神様によって全てのものが創られ、今ここに存在しているのです。神様は万物の創造者であり、全能の神でいらっしゃる。神様のご性質として、全知、全能、偏在という言葉を使いますが、いつでもどんな所にでもいらっしゃる御方、そしてどんなことでも知っている方、全知、全てを知り給う方。そしてどんなことでもなし得る力、全能の力を持っていらっしゃる。そういう神様が、二人も三人もいてご覧なさい、当然勢力争いになるに違いない。だから、そんなことはあり得ないのです。神様という方はただおひとりです。「じゃ、他の神々はいったい何なのか? 」というと、「それはただ神と称(しょう)している別のものであって、神ではない」ということです。

 

 ところが、まことの神様がいらっしゃるのですが、なかなか認めることができない。その理由は、他に神を求めているからです。だから、神様は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と言われる。どんなものをも神としてはならない。4節に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない」とあります。まず「形あるものを神としてはならない」ということです。よく「偶像」といいますが、木や鉄やいろいろな物で像を造る。それを神だと拝む。まず神としてそういう形あるものを造ってはいけない、これは神様が求められることであります。神様を神様とする上で、別の神を造ってはならない。「形ある神を造ってはならない」、いうならば、人の五感を通して理解できる、あるいは、人の知識をもって納得できるような、そういう姿形あるもの、必ずしも木であるとか、鉄であるとか、銅であるとか、木造とか、そういう形あるものを含めてでありますが、私どもは別段そういうものを神とすることはもちろんしません。今の若い人もそうでしょうが、昔のように木で造ったものや石で造ったものを飾るとか、拝むことは最近はあまり見かけなくなりました。「じゃ、そういう刻んだ像を造らないから神様を信じているのか」というと、そうじゃないですね。

 

人は神様なくしては生きられないのです。本来私たちは神様によって造られた存在でありながら、まことの神様でない他のものを神としてしまう。神ならぬものを神として生きる。神なくして人が生きることは、不可能です。必ず神様を求めます。それは私たちが神様を求める存在として造られているのであります。「創世記」に人が創られた記事がありますが、神様は土のちりをもって人を形づくりました。そのとき神のかたちに似た者として私たちを創ってくださった。そこに命の息を吹き入れて、人は生きる者とされたのです。いうならば、神様とつながって、神様と同じ霊を持つ者として創られたのであります。ですから、それを絶えず求める心が人の中にあります。「伝道の書」には「人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と語られています。「永遠を思う思い」とは、神様を求める心を人の中に置いてくださった。だから、人が心に平安といいますか、安心を得るのは、自分の造り主でいらっしゃる神様につながるとき、その神様を信頼する者となるとき、人は本当に安定するのです。だから、まことの神様を求めるゆえに、人はいろいろなものを神とするのです。まことの神様に行き着けばいいのですが、その神様は目には見えないし、手で触ることもできないし、よく心で見なければ、霊で、御霊によって悟らなければ分からないのが、まことの神様のおすがたです。だから、人はなかなかそこに行き着かないから、つい手近なところで自分の心の安心を得るために、あれやこれや様々な物をもって、それを神とする。これが私たちの世の中の姿です。それで神でないものを神としてしまう。いちばん手近なのは“己”(おのれ)を神とすることです。聖書にいわれているように、「自分を神とする」(ピリピ3:19)、「絶対こうだ」と主張する。あるいはいろいろなことがあったとき、「どうして? 」と問う思いに変わる。「何でこうなったの? 」と、不安や恐れを感じるとき、そのとき、実は自分が神様になっている。「絶対こうでないと駄目だ」、「絶対、それは間違いよ」と言い切るとき、自分を神としているときです。まず、人は自分を神としてそこに安心を得ようとする。だから、どんなことでもまず自分が思うこと、自分が計画すること、これが絶対いちばん良いこと、と思います。これが己を神とすることです。ところが、そうやって自分を神として、自分の考えにしがみ付いても上手く行かない。「絶対、こうしかならない」と言いながら、別のことが起こってくる。すると、自分に自信が持てなくなる。その結果、今度はまた別のものを神とします。人の言葉や過去の経験など、そういうものを頼りとする。だから、人の心に幾つもの神が生まれてくる。その結果、人はきちんと真っすぐな道を歩めなくなる。右に左に揺れよろめきながらの人生を生きる他ないのです。

 

一つの神様に徹底して信頼して行く。だから、神様が3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とおっしゃるのは、私たちが幸いな人生を生きるにはこの道しかないからであります。まことの神様、万物の創造者、全てのものを創り、今も力ある御手をもって、目には見えないけれども全てのものを生かし、また、私たちをもいま御手に握っておられるということを信じる。そして日々の生活の小さなことも大きなこともどんなこともこの神様のご計画と御思いによって進められていると信じる。これが、人が人として生きる基本であります。

 

“神とする”とはそれを頼りにすることです。それを絶対譲られない大切なものと考える。だから、私どもは「いや、私はそんな、他に神様なんて拝みはしません」と言います。確かに偶像の神、祀(まつ)られた神を拝むようなことはしないけれども、しかし、心の中に「これは私の頼りとするもの」というものを持つ。私たちが「これはもう失うわけにはいかない」、「これが私の救いだ」と握っているもの、それはまさにその人にとっての神です。他人から見ると仕様のないものであっても、本人にとっては命といいますか、命に次いで大切なものと思える。そこが既に神にしている結果です。だから、子供を神にする人もいるでしょう。「神にはしませんよ、子供は子供ですから」と言いながら、「この子には頼ろう」と、あるいは、ある人にとってはお金が大切、「これさえあれば……」と握っている。あるいはそれが友人であったり、仕事であったり、自分の家柄であったり、学歴、様々なもの、人はいろいろなものをもって、「これがあるから大丈夫」、「これが私を支えてくれるに違いない」、「何かのときは、これがある」と思っている、それがあなたにとっての神なのです。

 

3節「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。どんなものをもです。ですから、そういう一切のものを神様としてはいけない。確かに健康も必要だし、お金も必要でしょう、生活をするには食べる物も、いろいろな物が必要です。しかし、それは神ではなくて、まことの神様が私たちに与えてくださっておられる恵みであります。しかし、それはあくまでも一瞬の間のこと、それは無くなるときもあります。どんなにでも変わっていくものです。そういうものを頼りとするかぎり、そこには平安がありません。どうぞ、今一度私たちは「あなたはいったい、誰を、何を神としているのか? 」と自問してみてください。この聖書を通して証しされている、目には見えないけれども、今も力ある御方が、実は私をも造り、この世に命を与え、生きる者として、ここまで持ち運んでくださったこと、そういう御方がいらっしゃる。この神を信じることです。この神様を神として生きることが私たちの最も大切なことです。

 

「伝道の書」12章13,14節を朗読。

 

13節に「事の帰する所は、すべて言われた」とあります。これはどういうことかと言いますと、今まで述べてきた全てのことの結論はこのことであると。「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ」。神様を恐れよと。ここで言う神様は、聖書を通して証しされている、万物の造り主、目には見えないけれども私たちを造り、命を与え、今日も私たちを生きる者としておられる御方、神がいますことを信じ恐れる。「恐れ」とは、恐怖の「恐れ」という文字が使われていますが、もう少し広く深い意味で、神様を尊び敬い大切にせよ、ということです。確かに神様は怖い御方であり、力ある御方ですから、神様の意に沿わないことがあれば、どんなにでもそれを変えることができます。だから、怖いことではありますが、同時に神様は私たちを愛してくださる御方、ひとり子を賜うほどに限りないご愛をもって愛してくださる方です。その神様をまず第一にする、大切にする。その御方を尊んで、敬って生きる者となること、「これはすべての人の本分である」とあります。全て人としての不可欠な条件、「本分」とは、それを失ったら値打ちがなくなるようなものです。ですから、人が自分の造り主、目に見えない万物の創造者でいらっしゃる神様を畏(おそ)れなくなる。神様をないがしろにし、軽んじるようになったら、人としての値打ちはなくなる。そういう御方として、私たちがまず神様を尊ぶ、敬うことです。それは私たちが常に神のいますことを信じて行くことにほかなりません。だから、日々の生活の中でも、いろいろなことが起こるたびに「ここにも主が、神様が働いておられる」、「神様が今このことを導いていらっしゃるのです」と、認めること、そしてどんなことにも、そこに神様が働いていらっしゃることを信じるのです。

 

だから、イエス様が十字架におかかりになられたとき、両脇に罪を犯した犯罪人が同じく処刑されました。そのとき、一人の人はイエス様に向かって「お前が救い主なら、こんな十字架にかかっていなくて、降りて、自分を救い、そして俺たちも救え」と悪口を言います。ところがその時、もう一方の人は「お前は神を恐れないのか」、「自分たちはしたことの報いを受けているのだ。しかし、この方は何も悪いことをしたのではない」(ルカ23:41)と、それをたしなめます。その人は、自分たちのしたことの報いとして今十字架の処刑を受けようとしていることを認めたのです。それは神様を恐れる思いがそこにあるからです。

 

日々の生活のどんな小さなことも大きなことも含めて、そこに神様を認めること、これが神を畏れることの第一歩です。「このことも神様がご計画をもって導いていらっしゃることです」と。これからどうなっていくか分からないけれども、自分ではああなってほしい、こうなってほしいという思いはあるけれども、それを捨てて神を畏れる。神様を第一にする。これが「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」ということです。

 

ダビデがそうです。ダビデはまさに神様を畏れることを努めた人であります。彼は王の位に就いたとき、しばらくして国中が安定しました。ところが、そのとき息子アブサロムが謀反(むほん)を起こした。ダビデ王はそんなこととはつゆ知らず。突然アブサロムが兵を集めてエルサレムを攻めて来た。彼は大慌てで逃げ出して行きます。シメイというかつてのサウル王様の遠縁に当たる人物が、世が世なら自分たちが王宮に住むような身分であったのですが、ダビデによって自分たちは王の位を奪われたと思っておったのです。だから、ダビデが大慌てで逃げ出して行く姿を見て、悪口を言う。「ざま見たことか」と、そのときダビデの家来が憤慨して、「たたき殺してやる」と言いました。それに対してダビデは「彼を許してのろわしておきなさい」と言ったのです。「神様がダビデを呪えと彼にさせておられるなら、それを甘んじて受けるべきではないか」(サムエル下16:11)と。ダビデはそのように自分に不幸が起こっても、「このことも神様が許して起こしていらっしゃるのだったら、私は何も文句を言うことはできない」と、「また時を経て、神様はこの呪いを変えて私を救ってくださるかもしれない」と彼は語っています。息子から謀反を起こされて、悔しくて死にきれん、というような憤りや怒りがあるわけではない。「それは神様がなさったことです」と、神を第一にする。

 

私たちがそこを外れてしまったとき、他のものを神としているときです。他のものに心を移して、「こうでなければ嫌だ」とか、「私のメンツが潰(つぶ)れる」とか、そんなことにしがみ付いている。その人にとって名誉が神様になっている。私たちは、こんなことをしたら損をするとか、得をするとか、そればかりを大切にしている人は、その損得というそろばんずくで生きることが神様になっている。財布の中のことも、一日のスケジュールであっても、そこに神様がいますことを信じて、「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。常に神様を第一に、この御方を大切に尊び敬うこと、これが私たちに求められていること、神様が願っていらっしゃることに他なりません。

 

「出エジプト記」20章3節に、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。「なにものをも」です、どんなものをも。「ピリピ人への手紙」には「おのが腹を神となし」(3:19文語訳)とあります。自分の腹を神とする。いうならば、自分の情欲といいますか、そういうものを大切にする。ですから、「コロサイ人への手紙」には「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(3:5)と語られています。「貪欲」とはむさぼる欲です。それを満たそうとすること、自分の感情といいますか、情欲を優先する。全てに勝って、そのことを求めようとする、これはむさぼることです。「貪欲は偶像礼拝に等しい」と語られています。形あるものを拝んでいるわけではないけれども、その人にとって「これがなければ嫌だ」と握っているもの、それが神となっている。

 

 「いま自分は何を神としているのか? 」「まことの万物の創造者でいらっしゃる神様が今このことの中にも働いてくださる。ご計画をもって臨んでくださるのだ」と、恐れおののいて神様の御手を認めること、これが私たちのなすべきまず第一の事です。

 

 神という名は付いていないけれども、気が付かないうちに、私たちは心の中にいろいろなものを神としているのです。「これだけは……」と、「この事だけは……」と、それは有形無形、形のあるなしを問わず、私たちはいろいろなものを自分の神としやすい。神様は「自分の杖とするものを砕く」とおっしゃる。神様はそれを取られることがあります。ですから、神様をまず第一にし、神様を大切なものとして尊び敬って、目に見えない御方を絶えず信じて、その御方の前にへりくだって、謙遜になって、主に仕えていく者になりたいと思う。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


聖書からのメッセージ(570)「あなたを照らす光」

2017年07月17日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書」1章1節から13節までを朗読。

 

 9節「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。

 

 1節には「初めに言(ことば)があった」という表現で始まります。ここで思い出されるのが、「創世記」1章1節のお言葉です。「はじめに神は天と地を創造された」と、「はじめに」から始まって、まず全ての根本はどこにあるかが語られます。「『創世記』の1章1節のお言葉を信じることができたら、その人の人生は完全に変わってしまう」と、よく言われます。確かにそうです。天も地もなにもなかった。神様だけがおられたのです。だから「全てのものの根源は神である」と告白している。ですから、それを信じることは、私たちも神様によって造られた者であることにつながってきます。そして私たち造られた者は、神様の御心にかなうものとして、ご自分のかたちにかたどって尊く大切なものとして造ってくださった。創造されたとき、神様はお独りではなかった。

 

 そのことが今お読みいたしました記事にも語られています。それを受けて1節に「初めに言(ことば)があった」と始まっています。この「言(ことば)」というのは、もちろんイエス・キリストをあらわすものですが、しかし、同時に「神様の言葉」という意味でもあります。ですから、「言(ことば)」とは、いわゆる私たちが「言葉」と書き、言の葉、葉という字を付けますが、ここでは「言」という一字で「ことば」と読ませています。その「言の葉」と「言(ことば)」に違いがあるのは、そこに大切な意味があるからです。人の日常会話として、普段しゃべり合う言葉、これは言の葉です。それに対して「言」とは、ロゴス、いわゆる「真理」と結びついた内容を持つものです。しかも、その「言(ことば)」とは、“神の言葉”ということです。これは人の言葉としてではなく、神様が語ってくださる霊の言葉、これが「言(ことば)」であります。

 

 「創世記」の天地万物を創造なさったとき、神様は言葉を発して全てのものをお創りになられた。「神は『光りあれ』と言われた。すると光があった」。そして全ての生きとし生けるもの、森羅万象あらゆるものを神様は手をわずらわすことなく、言葉をもって創り出される。言葉がひとつの力、神様の分身という意味合いであります。ですから、その「言(ことば)」は神と共にあって、「言(ことば)」によって私たちも造られた者であります。私たちの内に神の霊が宿り、魂が私たちの内に造り出される。神のかたちである、神の似姿として私たちが造られたことは、神様の力ある言葉によって私たちもここに在らしめらているのです。その言葉は、またイエス・キリストでもある。

 

 イエス様は神様の約束の成就であります。旧約聖書の多くの預言者たちを通して、神様が「後の世に救い主をあなたがたの所へ遣わす」と、約束してくださいました。イザヤ書にも語られています。その預言の言葉、神様の言葉でありますが、それは神様の御心でもあります。それが時を経て、「時が満ちて」とあるように、やがて神様の定められた時が来て、その言葉が具体化し、約束が成就したこと、これがイエス様の地上にお生まれになられたことです。神様のご計画に従って、神様の約束の言葉が成就する。そして、今も私たちの住んでいるこの世の中の全てのものを、神様が言葉によって約束したように、真実にそれを実行してくださっておられる。神様は私たちに一つ一つの約束の言葉を与えてくださっておられる。これが聖書、神の言葉であります。神の言葉は、人が日常で語る言葉、単語といいますか、言葉は同じでありますが、構成といいますか、文章として聖書という形で神様が語ってくださった事態が記され、その一つ一つの言葉に神の霊が宿っている。だから「 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(Ⅱテモテ 3:16)と語られています。聖書の言葉に神の霊が宿ってくださる。そして、神様の霊は、神の言葉を信じる者たちの心、魂にいのちを吹きこむものです。これが神の言葉の力です。ですから、「マタイによる福音書」を読みますと、しばしば「預言の成就である」と語っています。例えば、イエス様のなさったことは、神様がきちんと定められたごとくに、預言に基づいて実現しておられる、と証ししています。ヨセフさんに御使いが現れて、マリヤと結婚するようにと勧めたときも、「インマヌエル、神、われらと共にいます」という、神様の約束の成就であると語っています。だから、神様は言葉をもって力をあらわしてくださる。その証しとしてひとり子イエス様がこの世に生まれてくださいました。だから、イエス様がこの世に来てくださったのは、神様の言葉の成就である。

 

 1節に「初めに言(ことば)があった」という、その「言(ことば)」は、やがて後にイエス・キリストというかたちで救い主として実現する神様の「言葉」、またそれはイエス・キリストご自身でもあるのです。その後に「言は神と共にあった」、「イエス・キリストは神と共にあった」とあります。創世の初め、天地万物が創られるとき、イエス様もまた神様と共におられた。全てに先立って神様がいらっしゃって、神様ご自身こそが言(ことば)なる御方、キリストなる御方です。その後に「(ことば)は神であった」と語られています。その言(ことば)なるキリストこそが神でもある。

 

 皆さんもご存じのように「三位一体の神」とキリスト教の場合よくいわれます。聖書のどこにもそんなことは書かれておりません。「三位一体の神って、聖書のどこにありますか? 」、「そんな言葉はありませんよ」、「じゃ、どうしてそんなふうに言うのですか」、「それは聖書を読めば、はっきりと『子なるキリスト』『父なる神』『聖霊なる神』が、一つであること、一体であると分かるように語られているじゃありませんか。言葉によるそういう表現がなくても、神様はそのように語っているではありませんか」。ここの個所もその一つであります。ここに「言(ことば)は神であった」、神様の言葉の成就としてのキリストは、またそれは神ご自身であったと。

 

 私どもはともすると神様とイエス様を分けて考えようとします。もちろん難しい神学的な議論、学者に言わせれば、「これは一つずつ意味が違う」と言いますが、そんなものはあまり役に立たない。イエス・キリストを信じることは、神様を信じること、神様を信じることはイエス・キリストを信じることであり、聖霊なる神、御霊を信じることでもあります。これは三つで一つです。

 

 老人ホームにお話をしに行くとき、イエス様と言われ、神様と聞き、聖霊と聞く。頭がこんがらがって、特に高齢者で記憶も定かでない方にそんなことを言ってもよく分からない。「分からん」と言う。私はお祈りしていたときに教えられたことは、イエス・キリストという神様、神様の名前はイエス・キリスト。「神様って、天照大神の神でしょうか」、「そうではない。イエス・キリストの神です」と。「そうですか」と言われる。これが分かりやすい。「イエス様」と言ってみたり、「神様」と言たりする。「どっちにしようかしら? 」、「今日のお祈りはどちらから始めようかしら……」。どちらでも同じことです。だから、イエス・キリストという神様、神様が人となってイエス・キリストと呼ばれる。そしていま私たちの目には見えないけれども、御霊なる神、神様は聖霊なる神であって、霊なる御方で、その方が私たちと共にいてくださる。神が私たちと共におられる。だから、よみがえった主が私と共におられるというのも、神様が私と一緒におられるというのも、同じことです。ときどきそういうことを聞かれる。「イエス様がいてくださる。神様はどこにおられるのでしょうか? 」、「一緒におられるのです」と。「あなたは何年教会に来ていらっしゃる? 」「長年来ていますが」、「今まで聞いていたでしょう」、「聞いてはいたけれども、どうしてかな? どうしてかな? と思いながら、これを尋ねたら恥ずかしいし……」と、気になさる方もいます。この際皆さんに知っておいていただきたい。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神は一つです。

 

 そのことが1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と。2節に「この言は初めに神と共にあった」と、その言(ことば)なるキリストは「神と共にあった」。だから、神様が天地万物を創造されたとき、イエス様は「神と共におられた」。なぜなら「神の言(ことば)」ですから、神様の言葉の力として、そこで見ておられた。そのことは旧約聖書にも語られています。3節に「すべてのものは、これによってできた」とあります。「すべてのもの」、一切が「これによってできた」。神と言葉とによって出来たと。「イエス様も神様の御業を共に見て喜んでおられた」(箴言8:22-31参照)とあります。「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」。全てのものが神様の、またイエス様も共にいて、その出来上がったものを見てくださった。

 

 4節に「この言(ことば)に命があった」、その言(ことば)は命に満ちたものであった。神様の言葉、それは主イエス・キリストに代表されるひとつの力でもありますが、その言(ことば)には命がある。「そしてこの命は人の光であった」とあります。「命」と「光」という言葉、これは神様のご性質を伝えるものです。神様は、命の源であり、また光でもある。5節に「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。光は、闇(やみ)の中に輝くのです。光の中にあって光は見えません。

 

 オリンピックのとき、聖火リレーをやります。小さなトーチ、最近は精巧になって、少々のことでは消えなくなっていますが、あれを持って走ります。先っぽに火が付いているのですが、あまり炎が見えない。さんさんと輝く太陽の下でそれを掲げて走っていますが、よく見ると炎がほやほやと陽炎のようになる。「消えているのではないか? 」と思うけれども、ついている。いよいよ大会が始まるときに、スタジアムで、炎天下のさんさんと輝く所で大きな聖火台に火をつけます。最近は燃料がいいのか、煙ひとつ出ない。なんだかうっすらともやのようなものが漂うから、「火が付いたのか」と思う。ところ夜になって来ると、聖火台の火が「あんなに大きな炎をあげて燃えていたのか」と思うぐらいにはっきりと見えます。まさに闇の中に輝くのです。

 

まさに5節「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」のです。どんなに漆黒の闇であっても光がそれを払いのけます。線香のような小さな光でも、昼間見たらついているのかいないのか分からない。ところが、マッチの火ですら闇の中で見ると、一瞬周囲の闇を取り除きます。マッチをつけたが、闇のほうが深くて火が見えなかったとはなりません。必ず光は闇の中に輝く。だから「光」と「命」は、ある意味では一つの事柄であります。なぜなら、光の差す所に力が湧いてくるのです。だから、太陽の光を受けていると、私たちは暖かくなります。太陽の光を受けて発電する太陽光発電というのがあります。まだ太陽の光を100パーセント電力に変える技術がありませんから、17%ぐらいが電力に変わる。これが80%ぐらい変わると膨大なエネルギーになります。光はエネルギー、力です。

 

だから、4節に「この命は人の光であった」と、「命」と「光」とが一つであることを語っています。暗いのと明るいのではどちらが好きかと問われると、やはり明るい方がいいですね。冬になってくると、だんだんと日の沈むのが早くなってきます。五時とか五時半とかで薄暗くなってきます。たそがれ症候群なんて言って、だんだん薄暗くなるとさびしくなって、認知症の人は「家に帰りたい」などと言い始めます。家にいながらそう言います。不安が湧いてくるのです。闇に対して人の心が落ち着かなくなる。それは光を求める心が人の中にあるからです。

 

ある老夫妻が二人でマンションに住んでおられました。ご主人はお医者さんでもあったのですが、奥様が認知症になって夕暮れになると、「帰りたい」、「帰りたい」と言う。「私は帰りますから」と言われて、ご主人は困り果てて、電話がありました。「先生、家内が帰りたがっているけれども、どうしましょうか? 」と、私は夜11時ぐらいにお伺いして奥様に「家族に連絡したら、今晩はここに泊って明日帰ってきなさい、という話だから、今日は取りあえずここに泊りましょう」と言うと、「ああ、そうですか。家族の者がそう言いましたか」と、家族の者ってご主人しかいないのですが、忘れているのです。それでやすむのです。すると、ご主人は大変喜んで、「先生は牧師なのに、家内のような症状を……、どうしてですか? 」と。ご自分は内科医だったものですからそう言う。「いや、これは認知症という病気で、もう奥様ぐらいの年齢になると血管性と言って脳の血管の細かい所が詰まって、だんだんと記憶力がおかしくなってくるのです」と言った。「はぁ、そういう病気があるのですか」と。「私は医学生の頃、そんなことは聞いたことがない。牧師先生はどこで医学を勉強されたのですか」と。勉強なんかしてはいませんが、年を取って夜になると何か不安になります。そうでしょう。病院なんかにいてもそうです。家内が母の看病のために施設にしばらく泊まりましたが、施設の方が「夜になるとびっくりしますから、前もって言っておきます」と。なぜかというと「昼間は皆寝ているので静かです。夜になると不安になるのか、奇声を発するのです」、まるで動物園のようになると言う。それは人の心に闇が大きな不安を引き起こすのです。光がない。それは部屋が暗くなるだけでも不安感が増す。私たちには想像が付きませんが、そういう不安が必ずあります。そのような闇の中にいるのは、極めて不幸な出来事です。しかし、闇を追い払うのはただ一つ、光です。光がなければ闇を追い払うことができません。

 

9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」と。「すべての人を照す」、実は私たちの闇を取り除くまことの光です。私たちが見ている太陽にしろ、照明灯にしろ、あくまでも仮のといいますか、まことの光ではない。それは私たちの外側を照らします、またそれを見てひと時は華やかになります。今はクリスマスに向かっていろいろなイルミネーションが飾られています。そんなのを見ると心ウキウキして楽しくなります。パーティーでもそうですが、いろいろな色合いの光を照らすと楽しくなって喜びます。あれを真っ暗にしてご覧なさい。お通夜のときあんな照明はしません。しずむとおのずから暗くなります。だから、外側のそういう光はひと時心を弾ませたり、暗くしたりしますが、いちばんの暗闇は私たちの心、魂です。不安だとか、思い煩いだとか、憤り、怒り、悔やむ思い、そういう心に掛る事が重くのしかかってくると、まるで雨雲に覆われたように心は暗くなります。そのとき、何とかしてその心を晴れやかにしたいと思い、いわゆる、歓楽街に出掛けて行って、色とりどりの提灯の下でお酒を飲んで大騒ぎをしたり、カラオケを歌ってひと時憂さをはらしても、肝心の心は晴れやかになりません。まことの光、私たちの心の、魂に光を投げかけてくれるもの、それがないからです。9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。本当に大きな福音です。「すべての人」、どんな人にでも、若い人も、年取った人も、男も女も人種に関わらず、全ての人を照らしてくれる。それは外側からではなく、私たちの内なるものを照らしてくださる神様の光があった。その光は何であったか? キリストです。1節以下にあるように、神様が神の光で私たちを照らしてくださる。「世にきた」とあります。この世に来るとは、私たち一人一人のことです。「ヨハネによる福音書」3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。「この世」とは、私たち一人一人のことでしょう。「ヨハネによる福音書」では、繰り返し「この世」と使われていますが、それは私たち一人一人のことです。だから、「まことの光があって、私の所に、皆さん一人一人の所に来てくださったのです」。光が差している。その光に私たちが心を開いて照らしていただくこと。これしかないのです。「光がきた」とおっしゃる。その光は神様ご自身です。なぜならば、神様は光なる御方だからです。

 

「ヨハネの第一の手紙」1章5節から7節までを朗読。

 

5節「神は光であって、神には少しの暗いところもない」。神様は光なる御方で少しの暗いところもない。曇りも陰も一切ないというのです。だから、私たちもその光に包まれて神と一つになる。神の光の中に私たちが同化してしまう。溶け込んでしまうことを神様は願っておられる。まことの光は私たちの内に来て、私たちと共に住んでくださって、私たちの内を照らしてくださる。まことの光が私たちの内を隅々照らしてくださるとき、見えなかったものが見えます。様々な汚れなどが明らかになります。

 

よく言われますが、白内障が進んでくると、だんだん世間が薄暗くなってくる。たそがれのように見えると。ところが白内障の手術をした後は、途端に何もかもが輝いて見えて、汚れが目立つと言われる。「私はどうしてこんな汚い所に住んでいたのか」と思う。鏡を見ると、自分の顔が「なんとしわだらけ、しみだらけ」と思う。「今までは真っ白な顔だ、と思っていたが、見えすぎる」と言う。

 

光が照らすと、今まで見えなかった物がはっきり見えるようになる。汚れていたものがはっきり分かる。これが大きな力です。そして光が私たちの内を照らしてくださるとき、力を与えてくれる。光は、植物が成長していくときに何よりも必要なものです。光が注がれることによって、小さな葉っぱを通して光合成を行って、植物は太陽のエネルギーを吸収しながら成長します。あの巨大な大木も、鬱そうと茂る原生林も、熱帯雨林も、もちろん水も必要ですが、さんさんと輝く光に照らされて、全てのものは命に輝くのです。まことの光が私たちの内に来てくださった。イエス様がその光です。

 

6節に「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない」と。ここに「神様を信じています」と言いながら、「やみの中を歩いている」、まだ神様の光を拒んでいる。扉を閉ざしているならば「偽っている」と。神様が私たちの光となってくださっている。心の扉を開いて、イエス様のお言葉を信じて、その光に照らされ、悔い改むべきは改め、また神様のいのちを頂いて力を受け、喜びと望みを頂く者となる。これが光の中に生きることです。なぜならば、イエス様もそのように語っていらっしゃる。

 

「ヨハネによる福音書」8章12節を朗読。

 

ここにイエス様はご自身で「わたしは世の光である」と語っている。「世の光」、私たちの光、私の光であり、皆さんの光であります。そして「わたしに従って来る者は」、イエス様に従って行く。光なる御方と共に生きる。光が照らしているところに常に付いて行く。ですから、イエス様といつも共にいることが、光に照らされ、光と一つとなって光の中に生きること。先ほどの「ヨハネの第一の手紙」で「神と交わりをもち、光の中を歩くならば」といわれます。それはイエス様を私たちの内に宿し、イエス様と共に生きることです。そのとき私たちの内に光を照らし、内なるものを清めてくださる。

 

その前の1節以下に何があったかというと、一人の罪を犯した女の人がイエス様の所へ連れて来られました。そして「この人は石打ちの刑、死刑だ」と糾弾(きゅうだん)する人々が言う。そのときイエス様は何もお答えにならないで、地面に何かを書いておられた。あまり彼らが問い続けるので「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。そしてまた地面に物を書き続けておられた。すると年寄りから初めてだんだんといなくなった。やがてイエス様が女の人に「あなたを罰する者はいないのか」と尋ねると、「はい、もう誰もいません」と。イエス様は光を照らしてくださった。そのとき集まった人々のどこに罪があるかを鮮やかに照らし出す。光に照らされたとき、罪なる者はその光に来ようとしないで、むしろそこから去っていきました。光です、イエス様は。だから、イエス様がそのことを語ったときに罪人たちは出て行きました。しかし、自らの罪を認めていたこの女の人はそこから去ることはできない。イエス様は「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と。この女の人はイエス様の光の中に立ち返ることができた。

 

それを受けて12節に「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言われた。

 

「ヨハネによる福音書」9章4,5節を朗読。

 

イエス様はご自身のことを「世の光だ」とおっしゃいました。「今は恵みのとき、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)です。言い換えると、イエス様が光となってくださっている今、救いのときです。「この世にいる間は」とイエス様はおっしゃいました。では、いなくなったらどうなるのか? この世にいる間とは、私たちがこの恵みにあずかる時が残されているこの時です。やがてその時が終わるときが来ます。世の終わりのとき全てのものが失われて行くときには、もはや誰も働くことができなくなる。闇が来る。光の届かない闇が押し寄せてくるとおっしゃいます。そして「わたし(イエス様)が光である」ことを証しするために、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにするわざをなさいました。目が見えないとは闇の中にいるのです。その闇を取り除く御方がどなたでいらっしゃるかを具体的に一人の人の目を開いて、光を照らしてくださった。ヨハネは格別イエス様の光なるご性質であることを繰り返し、繰り返し語り続けています。「ヨハネによる福音書」を読んだら、このことを深く味わうことができると思います。生まれつきの目の見えなかった者とは罪の中にいる者です。この人の罪をイエス様は光をもって取り除いて、光にあずかる者と変えてくださった。私たちも罪のゆえに盲目であり、闇にいます。しかし、神様は私たちに光となって来てくださった。

 

初めに戻りまして、「ヨハネによる福音書」1章9節に「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。「まことの光」、イエス様を内に常に持っておく。毎日の生活の中でいろいろな不安や恐れや心配があって、心を闇が覆ってきます。そのとき何とかしてこの闇を追い払って明るい心に変わりたい、いのちに輝く者になりたいといろいろな手を打つ。それはあくまでもまことの光ではありません。私たちの闇を取り除くには、主によらなければ不可能です。いま私たちの所に光なる御方が来てくださって、イエス様のお言葉を私たちの内にしっかりと握って、主と共に一つとなる。「詩篇」にも歌われているように、「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」(119:130文語訳)とあります。イエス様が私たちの内に光となって宿ってくださるとき、全ての理(ことわり)、全てのものが見えるのです。だからいろいろなことがよく理解できるようになります。世間のことであっても、聖書をよく読んで御言葉をしっかりと信じるならば、商売であれ、教育であれ、あらゆることの真理、様々なことを悟ることができます。ですから、光は全てのものを明らかにして、はっきりと見せてくださる。目を開いてくださるのです。「み言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇 119:105)とあるように、私たちの行く道を照らしてくださる。だから光なるイエス様を絶えず内に持ち続ける。

 

 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。「まことの光」なる御方が私のところに来てくださった。だから、いま抱えている問題や悩み、心配なこと、不安なこと、失望すること、また、納得できない、苛立つようなこと、怒りを覚えるようなこともあるでしょうが、しかし、そこからイエス様に私たちが心を開く。そうしますと一切の闇は消えます。そして私たちに何をどうすればいいか、何が真理であり、間違っていることであるか、白黒をはっきりと見せてくださる。神様の力がそこに届きます。またいのちが輝いて私たちを力にあふれる者と変えてくださる。いのちに満ちてきますと、どんなことにも負けない、全てのものを変える力が私たちの内に働きます。これは確かです。

 

ですから、9節「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」。私たちの所に来てくださった。しかし、私たちはイエス様のことを知らないで過ごしてきた。いま私たちはこの御方を信じる者と変えられているのですから、イエス様を信じて、御言葉の光を受けて、いのちに輝いて行こうではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。