いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(64)「悔い改めて」

2013年11月24日 | 聖書からのメッセージ
マルコによる福音書1章1節から5節までを朗読。

今朝は、15節に「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

今お読みいたしましたこの記事に、バプテスマのヨハネのことが記されています。彼は、イエス様がお生まれになるほぼ半年くらい前に生まれた、イエス様の遠縁に当たる人物です。よくクリスマスの物語でルカによる福音書を読みますと、祭司ザカリヤとエリサベツという老夫婦が出てまいります。彼らには子供がいませんで、長いことなんとか子どもが与えられたいと願っていました。でも、そのことがなかなか聞き入れられなくて、とうとう年老いてしまいました。しかし、その夫ザカリヤが、祭司の務めとして神殿で香をたく御用をしていたとき、神の御使ガブリエルが現れて、「あなたに一人の男の子が与えられる」と言いました。そのときにザカリヤは、心の中で笑った、と書いてあります。「そんなバカな、こんなに年取った者に子供が与えられるなんて、あり得ない」と思ったのです。そのとき御使は、彼の心を見抜いて「あなたは疑っている。だからこの事が実現するまでものが言えなくなる」と。とうとうザカリヤは、ものが言えなくなったことが記されています。やがて時が満ちて、エリサベツに子どもが生まれました。ものが言えなかったザカリヤの口が開けて、神様に感謝し、ほめたたえた記事がありますが、そのとき与えられた子供が、バプテスマのヨハネだったのです。ヨハネは、自分の身を神様にささげて伝道者となったのです。しかし、このときは、イエス様がこの地上にいましたが、神の子として、救い主の生涯を始めてはいなかった。バプテスマのヨハネは、「ヨルダン川でバプテスマを授けておった」というのです。洗礼を授けていた。この洗礼は、「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」と記されています。悔い改めるためのバプテスマであった。それは私どもが体験しますバプテスマ、これは命に至るバプテスマですが、イエス様が受けたバプテスマとは少し意味合い、内容が違ったものです。ヨハネによる悔い改めのバプテスマは、イスラエルの民が、それまで神様の前に罪を犯し、とがを犯したとき、何か間違ったことをしてしまったとき、悔い改めを承認するといいますか、受け入れる儀式としてのバプテスマだったのです。彼はこのときも水でバプテスマを授けていましたが、そこへイエス様が来られました。9節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」と記されています。丁度イエス様が、30歳くらいになられたとき、バプテスマのヨハネの所にやって来まして「洗礼を受けさせてもらいたい」と言ったのです。マタイによる福音書などを読みますと、同じ箇所の記事がもう少し詳しく記されていますが、そこには、バプテスマのヨハネが、イエス様を見たときに「あなたは、このバプテスマを受ける必要のない方です」と言っています。といいますのは、イエス様は神の位にい給うた御方で、私たちと全く同じ弱さを知り給う肉体をとった人間、人となってくださったのですが、罪を犯したことがない御方ですから、この悔い改めのバプテスマを受ける必要がなかったのです。そのことをヨハネは知っていたので、イエス様に「あなたは、このバプテスマを受ける必要はありません」と言ったのです。イエス様は「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。これは、イエス様が、私たちすべての者はどういう道筋によって神様に近づくことができるかを、実際に御自分が歩いて見せてくださるためなのです。確かに、イエス様は、罪の悔い改めをしなければならない罪人ではありませんでした。神の子であって全き人でした。だから悔い改めをするバプテスマを受けなくていいのですが、イエス様が人となってくださったことは、私たち人間が、どのようにすべきかを、御自分が実際に歩いて実例を見せるために「わたしも、受けさせてもらいたい」と言ったのです。そのとき、ヨハネはそれではということでバプテスマを授けました。

そこの10節に「水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった」。イエス様は、そのバプテスマを受けて水から上がられたときに、なんと天が開けて「聖霊がはとのように」--- どのような形であったか具体的なことは分かりません、ただ例えとして、それしか言いようのないから「はとのように」と --- まるではとが天からサッサッーと飛んできて、どこか木に止まるがごとく、イエス様の上に聖霊がとどまった。しかも11節に「すると天から声があった」、大きな声が響いて「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。イエス様に対して神様が、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」、イエス様を「我が愛する子どもだ。何も文句を言うことのない者である、人である」と、神様が保証をしてくださった。これは素晴しい恵みです。

これはイエス様だからではありません。今私たちもイエス様と同じように、神様から御霊を注がれて、神の子どもとされることを、イエス様が実体験して、わたしのようになるのですよ、と証詞してくださったのです。ともすると、神の位にいたイエス様だから、神様は特別こんなことを言われたに違いない、これはイエス様だけのためだと思いますが、そうではなく、イエス様がバプテスマをお受けになったこと自体が、模範となるためであり、またバプテスマによって罪を赦(ゆる)されたときに、神様からどういう祝福と恵みにあずかるかを、イエス様が体験して、このようになるのですよ、と証詞してくださいました。今私たちもイエス様の救いにあずかって洗礼を受けました。そして、今、神様は、私たちに聖霊を、神の霊を与えてくださった。これはキリストの霊と言ってもいいですが、よみがえってくださったイエス様が、目には見えませんが、私たちに語り掛け、思いを与え、願いを起こさせ、この道を歩めと、絶えず導いてくださる御方。そればかりでなく、この11節にありますように「わたしの愛する子」だとおっしゃってくださいます。私たちは、与えられた大きな祝福と恵みが何であるかをしっかりと心に受けたいと思います。神様が「あなたはわたしの愛する子」とおっしゃってくださっています。しかも「わたしの心にかなう者」と。どこひとつとっても、文句の付けようのない者だよとおっしゃるのです。「心にかなう」とは、神様の御心にかなっている者だと、神様は保証してくださる。それは私たち、一人一人がイエス様を信じて、バプテスマを受け、罪の悔い改めによって、新しい命に生きるものとなるのです。ともすると、自分はそうじゃない、私はこんなだから、ああだからと、いろんなことを並べ立てて、神の子、神様から愛されているなんて、どこにそんな所があるかしら、と思います。しかし、私たちが悔い改めて福音を信じて、イエス・キリストを信じるときに、良いから悪いからにかかわらず、与えられる祝福と恵みが、このようなものであることを、はっきりと保証して、約束してくださっているのです。

その後イエス様は、12節に「荒野に追いやった」と。あの有名な40日間の荒野での試みにお遭いになったのです。そのことは、マルコの福音書では一行で記されていますが、ほかの福音書では詳しく記されていますので、お読みいただいたらいい。その後4節に「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた」。その荒野での試みを終えた後、今度は、イエス様は、大工ヨセフの子、母マリヤの息子であったのですが、そこから今度は、公の神の子としての御生涯を始められました。救い主としての、神様から遣わされた本来の使命に立って歩みを始められました。そのイエス様がなさる使命は15節に「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という、ここなのです。イエス様がこの地上に遣わされた御目的は、多くの人々に悔い改めて福音を信じさせ、神の国に住む者、神の国の民として私たちをあがなってくださるためです。そのためにイエス様はこの世に来てくださいました。イエス様は、「悔い改めて福音を信ぜよ」といわれます。私たちが絶えず信ずべきものは福音をであると。福音とは、よきおとずれと言いますが、その内容は何でしょうか。ちょっと読んでおきたいと思います。

ローマ人への手紙1章1節から4節までを朗読。

この2節以下に「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、3 御子に関するものである」。福音は、「御子に関するもの」、主イエス・キリストのことであるとはっきりと記されています。そして、イエス様は、肉によればダビデの子孫、ヨセフとマリヤの子どもとして生まれました。しかし、聖なる霊により、あの十字架の御苦しみの後に、そこから引き揚げられてよみがえってくださったイエス様は、神の御子として、私たちの主イエス・キリストとなってくださった。これが福音なのです。福音という言葉は、世間でもよく使われます。難病のための新しい薬が開発されたとき、「福音」だという。そういう喜びのおとずれ、これで助かったという喜びのおとずれが、福音です。では、聖書が語っている福音とは何か。それは主イエス・キリストそのものなのです。神の位を捨てて、人となった神の御子が、私たちの罪のあがないの供え物となってくださいました。十字架に御自分をささげて、私たちのすべての罪を清めて、許すために神様が、あえて備えてくださったいけにえであり、犠牲であります。しかし、イエス様は、私たちの罪のために死んでくださって、それでおしまいではなくて、そこからよみがえって「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と。今も主イエス様は私達一人一人と共にいてくださると信じる、これが福音を信じることです。

ローマ人への手紙8章33,34節を朗読。

34節に、イエス様は、死んで私たちの罪のあがないとなってくださった。わたしたちの罪を赦してくださったというばかりでなくて、もう一度そこからよみがえって、天にお帰りになって、神様の右に座し、神様と共に御国にあって、 「わたしたちのためにとりなして下さるのである」とあります。とりなすというのは、どうぞこの者のために罪を赦してやってくださいと口添えをすると言いますか、仲保者、仲立ちとなることです。

人の社会でもそうですが、誰かに紹介をしてもらって、人に会うことがあります。この世の中で有力者、実力者と言われる人に会おうとすると、そう簡単には会えませんから、誰かの口添えによって、名刺か紹介状を書いてもらって、その人と面会する。これを執り成すというのです。あるいは親しい友だちとけんかをして、行き違ってしまい、もう金輪際口もきかんという関係になったときに、気まずいから、共通の友だちに頼んで、なんとかなだめてやってと、取り持ってほしいと言いますね。執り成すというのはそういうことです。私たちがこの地上にあって、イエス・キリストが今も私たちのために絶えず、神様の前に執り成してくださっている。だから、今日もあわれみにあずかり、神様の許しの中に生かされているのです。これが私たちの福音です。イエス・キリストを信じるとは、イエス様が、今日も私のために命を捨ててくださって、そればかりでなく、死んでよみがえって、「彼を許し給え、この者を許してください」と、御自分の十字架に流された血を携え、父なる神様にとりなしてくださっています。これが福音です。神様は、私たちをとことん許してくださっている。これを信じることが、「福音を信じよ」ということにほかなりません。

「マタイによる福音書」にあるように、弟子たちとピリポ・カイザリヤ地方に行かれて、イエス様が、「人々は人の子をだれと言っているか」と尋ねました。そのとき、弟子たちはそれぞれ自分が聞いてきたことを言いました。預言者の一人であるとか、バプテスマのヨハネの生き返りであるとか、いろんなことを言いました。イエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。みんなはちょっと躊躇したでしょう。一瞬何と言ったらいいだろうか? ところがペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しました。イエス様が、神の御子であって、救い主でいらっしゃる。罪のあがないとなって、十字架に命をささげてくださった。私の罪を赦し、清め、永遠のいのちに、イエス様が、体験したように、「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」としてくださるために、イエス様は来てくださった。ペテロはそのことを語ったのです。私たちも、イエス様を信じるというのは、主が、私のあがないとなってくださった。今日も私を許してくださっていると信じることです。

ですから、「マルコによる福音書」1章15節に「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。イエス様は、確かに永遠のあがないを全うして、ただ一度だけ十字架にかかってくださいました。私たちは、イエス様を信じて、救いにあずかったのです。バプテスマを受けました。今私たちは罪を赦されています。しかし、この地上にある生活には、失敗があり、また、神様を「天のお父様」と言いつつ、信頼していない自分がありますね。あるいは神様がいらっしゃると言いながら、己が神となって、自分を義として、私は正しいと言って歩んでいる。それではイエス様の十字架が消えてしまいます。自分が許されない人間であり、どんなに穢(けが)れた者であるか、また救い難い者であるかを、絶えず自分のうちなるものを探って、御言葉の光に自分自身を照らして、悔い改めては、主の許しを受けていくこと。これが「悔い改めよ」ということです。そこにはじめて私たちのすがる愛があり、命があるからです。私たちは、何十年か前にイエス様を信じて、悔い改めてバプテスマを受けて、救いにあずかって、神の子とされた。これで万々歳、ほかの人とは違うと。確かにそれはそのとおりであるに違いありませんが、私たちは実際にそうなっているか。まだまだ、主の御愛の深さ、十字架に私たちを許してくださったという、その許しの愛の深さを、どこまで自覚しているでしょうか。

地上の生涯は、まさに主の御愛を徹底して知り尽くすための生涯であると思います。その御愛を知るというのは、どうしたら知ることができるか。

それはヨハネの第一の手紙4章10,11節を朗読。

この10節に「神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。神様が愛でいらっしゃる。神様は愛なる方だ。私たちを愛してくださったというその愛は、どこにあるのか? よく申し上げますように、神様が、私たちを愛してくださるのなら、あれもしてくれたらいい。これもしてくれたらいい。私はこんな苦しみがある、こんなところがある、これをなんとか癒してほしい、これを変えてほしいが、神様はちっとも言うことをきいてくれない、何が愛だろうかと思います。神様の御愛はそこにはない。今読みましたように「罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」。イエス様が、私の罪のために十字架に死んで、赦してくださっている、そこにこそ愛があるのです。だから、神様の御愛を深く知るには、自分がどれ程の大きな罪が赦されているかを知らなければ、あるいは自分が本当に徹底して罪人であることを認めなければ、神様の御愛に触れることはできません。ただ事情や境遇や事柄がよくなって、お祈りしていたら、これが応えられた、あれがこうなった、うまいこといった、望みがかなったと言うだけで、それが神様の御愛だと言っているなら、それは間違いだとは言いませんが、しかしそれは付録であって、深い御愛は、「ここに愛がある」とあるように、私の罪のあがないとなってくださったことです。今日も主が神の右に座して、執り成してくださっている。主の御愛に絶えず潤され、私のような許されざる者が、許されて、今日もいのちをいただき、生かされていることを絶えず感謝していくところに、愛があるのです。それを抜きにしては、愛はない。だから11節に「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。

だから「互いに愛し合いなさい」と言われる。実にこれは単純なことですが、またこれが一番難しい。なぜなら、愛そうとしても愛せない自分にぶつかるのです。自分の中にあるどうにもならない自我性、自己中心の思い、己を義とする思いにぶつかるとき、そこでもう一度主の十字架を仰ぐことができる。これを繰り返し味わうところに、主の御愛が絶えず新しいいのちとなって流れてくる。どうぞ皆さん、私はもう救われたから大丈夫、私のことをみんなは、自己中心だと言うけれど、それは間違っている、私はもうキリストと共に死んだ者です、と言い張っているだけでは駄目です。そうじゃなくて、自分は本当に愛のある人間だろうか、神様が御言葉を通して、語りかけてくださるように、神を神として畏(おそ)れ、敬い、尊ぶ者であろうかと、自分自身が絶えず問いかける。すると、自分が、どうにもしょうのない者である、奥さんを愛すると言っても愛せない。ご主人を愛すると言っても、どうしても愛せない自分があることを認めるときに、それでもなお、許したよと、おっしゃってくださる主を信じる。これがイエス・キリストを信じる福音です。そのために私たちに必要なのは、悔い改めること。悔い改めとは自分の罪を認めること。私は、本当にどうにもしょうのない者ですと、神様の前に心をへりくだっていくこと。これが悔い改めることです。

自分の罪の大きさ、抜きがたい自分自身の心にあるものを、私たちは日毎の生活の中で、絶えず悔い改めて認めては、それで落ち込むんじゃなくて、認めると同時に、その下になお神様の大きな御愛によって許され、支えられている自分であることを、感謝していく生涯。これが、私たちが今生きる生き方です。

ある一人の姉妹は、80歳を越えていますが、息子さんとの問題で悩んで居られました。しかし、その悩みの中から、自分の自我がどれほど相手を苦しめているか、自分の罪に気づかされたのです。その結果、主のみ前に悔い改めました。姉妹は、そういう問題の中で悔い改めて、主の御愛に触れたのです。これが私たちのいのちに生きる生涯。神様の御愛の中に生かされていく生涯。ですから、自分を良しとせずに、絶えず御言葉の光に、「ヨハネの第一の手紙」にあるように、「光の中を歩くならば、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」と。イエス様は、今日も「父よ、彼らを許したまえ」と、私たちを執り成してくださっています。その許しをはっきりと確信していくには、私たちがまず、悔い改めて、本当に自分がどんな者であるか、イエス様は私のために何をしてくださっているか。主の十字架の大きな御愛と恵みを心に受けることができる歩みでありたいと思います。

ですから、マルコの福音書1章15節に「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言われています。私たちがイエス様の救いにあずかる、イエス様の御愛に触れる、主の許しをはっきりと味わって、喜びと御愛の中に立ち返るべき時は、今しかない。「見よ、今は恵みのとき、見よ、今は救いの日」。そこにありますように「神の国は近づいた」、この世が終ろうとして、私たちすべての者が、神様の前に立たなければならないその時が近づいている。このとき、いよいよ身を謹んで、自らの心と思いを、自分の中にある底知れない闇といいますか、罪の深みをはっきりと見据えて、そういう私をもなお許してくださっている、主の許しと御愛を絶えず確信してください。こんな者を主は、今日も許してくださっている。その主の御愛に潤されて、励まされて、望みを与えられていく地上の生涯でありたいと思います。これは、私たちが、主の御前に立つまで続く事です。だから、いつも絶えず主の前に自分を置いて、御言葉の光に照らされて、できない自分、足らない自分、かたくなな底岩のごとく、頑固に譲れない己を義とする思いから、こんな私ですと、素直に認めて、主の前にそれを持ち出して、悔い改めましょう。今日も死んで生きる者とされて、許された生涯を、主の御愛に応えて歩みたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。



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