風まかせ~

自分で歩いて得た季節のきまぐれ情報です。気が向いたときに写真付きで時々出します。

鎌倉街道と思われる道を自転車で(8)

2020-04-24 | 歴史散策

桶川市川田谷地区の続きです。

 

①泉福寺

 氷川神社の少し先にこんもりとした森が見えてきます。泉福寺の境内林です。泉福寺は東叡山泉福寺といい天長6年(829)淳和天皇の勅願によって天台宗第3代座主慈覚大師円仁が開山したといわれています。平安末期の源平の乱により焼失したが文暦元年(1234)比叡山の信尊上人が中興、その弟子の尊海上人が川越喜多院や中院を中興したことから関東天台宗の祖山と称され東の比叡山東叡寺と号されたといわれています。

戦国時代の騒乱の中度重なる火難を受け堂塔伽藍を焼失しましたが江戸時代に入り堂塔も次第に整備され、宝暦2年(1752)には山門、鐘楼を除きほとんどの建物は完成し現在の建物は大体この時期のものです。所蔵の阿弥陀如来像は弘安2年(1262)の造像で国重要指定文化財に指定されています。この他に石の仁王像、雨乞いの龍など貴重な文化財が伝えられています。徳川家康が関東入国の際には寺領5石のご朱印状を拝領しています。

 

          

 

②本田飛行場が良く見える土手

 泉福寺山門の前の道を左方向に進むと荒川の土手になっています。土手上は自転車も通れる遊歩道になっていて対岸の本田飛行場が良く見えます。休日には飛行訓練の回数が多く、ひっきりなし小型飛行機が離着陸しているのを目にすることが出来ます。またパラシュートのクラブがあるので条件の良い日には飛行機から次々と色鮮やかなパラシュートが飛び出し大空を舞う姿も見られます。

 

③松原八幡神社

 八幡神社は鎌倉の三崎(さんざき)が落ち武者となって川田谷の各所に土着し背負ってきた八幡様の御神体を祀ったのが始まりとか。三崎とは山崎、岡崎、田崎の三家を指します。このうち田崎家がご神体を背負ってきた縁で近年まで鍵元と称して当社の扉の鍵を所持していたほか正月飾りなどをする役を担っていました。正殿には御神体とされている騎乗の八幡大明神と「八幡宮御奉前下川田谷村」と墨書された奉納されています。また元禄11年(1968)に領主牧野氏から奉納された「神鏡」や享和2年(1802)竜泉谷實顕により揮毫された「八幡宮」の社号額があり何れも当社の歴史を語る貴重な資料として大切に保管されています。

 

松原のササラ獅子舞

 松原のササラ獅子舞は例年9月15日の八幡神社の祭礼で奉納されます。戦時中から昭和40年代まで一時中断されておりましたが地元の若者有志により復活しました。本来は8月15日に演じられ12の場に構成されていましたが現在はすべては演じられていない様です。祭礼では「万作踊り」や「はやし」「げんた踊り」も上演されます。万作踊りは戦前までは獅子舞と同じく男性がその担い手でしたが戦後は女性が中心となっています。

 

④樋詰氷川神社

 氷川神社が祀ってある樋詰の地は川田谷村の支郷で荒川左岸の低地に位置し古くから度重なる水害を被ってきたところでした。創建は川田谷村からの分村の過程で祀られたと推測されます。化政期(1804~1840)「風土記稿」に川田谷村支郷樋詰村の項に「氷川社 村の鎮守なり・・・」と記されています。参道入り口の鳥居に掲げる「氷川大明神」の額には裏に「元文4未(1739)天11月吉日武州足立郡石戸領樋詰村氏子中」と刻まれており当社の最も古い資料となっています。

 

樋詰の道標

 この道標は高さ40㎝ほどの小さな道標で明和8年(1711)に建てられ、正面には「あきは道」「大宮道」とあります。「あきは」とは火災、盗難除けの神様として信仰された指扇村の秋葉神社、「大宮」は武蔵一之宮氷川神社のことです。正面向かって右面は「かうのす道」左面は「太郎右衛門渡」と刻まれています。

 

もう一つの道標は上の部分は解読できませんが下は 石戸宿 吉見 松山 と読めます。

氷川神社の前の通りは古くからの主要道であったことがうかがえます。江戸時代には中山道の脇往還として、また荒川の舟運や渡河のために多くの人の往来がありこの道標も通行する人たちの案内役として重要な役割を担っていたことが判ります。

他にも境内には力石や庚申塔(青面金剛)も有ります。

 

 

今回はここ迄です。

 


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