風月庵だより

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なぜ功徳を積むのだろうか

2006-08-26 08:21:26 | Weblog
8月26日(土)曇り【なぜ功徳を積むのだろうか】

功徳を積むということについて昨日は考えてみたが、なぜ功徳を積むのであろうかと考えてみたい。

例えば人のお役に立つという功徳を積んだとき、それは人の為であろうか。勿論助けて貰った人も有り難いと思うだろうが、(思わない人もいるかもしれない)その時、自身の心底(魂という表現が分かりやすいかもしれないが)が喜んでいるのではなかろうか。顕在的でないとしても。自分さえよければよい、として生きている時には心底からの喜びを感じられないだろう。

英語の表現は実に端的にそれを表している。人から"Thank you."有り難うと言われたとき、どういたしましてというのに"Pleasure is mine."直訳すれば喜びは私のものです、又は"It's my pleasure." それは私の喜びです、という表現がある。自分の喜びであるのだから、そこには人に恩を売るというようなことも、見返りを求めるということも当然無いことになる。

また「情けは人の為ならず」という言葉もあるが、これを『広辞苑』で引くと「情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いがくる。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。」と書かれている。これは随分直截な表現である。

しかし人に親切にしても必ずしもこの世的なよい報いがあるとは限らない。功徳を積めば必ず功徳がある、という言葉に反するようだが、それは解釈の違いに過ぎない。人に情けを掛けたとき、その時、自身の心底が喜ぶこと、これを功徳と呼びたい。だから人の為なのではなく、自身の為なのだ、と解釈したい。

社会やお寺や教会やらに対して、金銭的な寄付をするという功徳を積んだときはどうであろう。人間にとってお金に対しての執着は、愛憎に対する執着と同じく、又はそれ以上に強いものだろう。この執着を救って貰うには一度自分の物というように手に入れた物を手放してみることではなかろか。

自身の執着心を解き放つための徳積みとしての寄付ならば、当然この世的な見返りはいらないことになる。自身の執着心を放つという浄化がなによりの功徳になるのだから。しかし僧侶である立場から、寺への寄付を募るとき、これを言うことは抵抗がある。聞く方にもあるだろう。しかし本来はそういうことなのである。

社会に対して、また仏教でもキリスト教でも宗教者に対して徳積みをするのは、自身の解き放ちであり、浄化作用である。功徳を積んで浄化作用をさせてもらっているのである。これが最たる功徳果ではなかろうか。自身を浄化し浄化し清々と生きていければ、天に生じることもできよう。これが功徳と言えるのであろう。つまり世俗的な果報については功徳があるとは言えないのである。

しかし周りを喜ばせ、功徳を積んで生きている人を見ると、世俗的にも幸せそうに見えるのは、ご承知の通りである。

昨日ある物を探しに浅草の近くの田原町にある仏具屋通りに出かけた。ある一軒の仏具屋さんでは私の望み通りの品がなかった。「もう少し探してみます」と私が言ったら、「全部の店を探してみればいいですよ」そんなものはない、とでも言うように嫌みに言われてしまった。しかし翠雲堂というお店に行ったら、店員さんみんなで在庫も調べてくれ、私の思い通りの品が見つかった。店員さんがみな親切で気持ちよかった。これも徳積みの一つだと思った。徳積みを別な表現にすれば、誠意を尽くす、ということだろう。



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