3月30日(木)晴れ【道元禅師の和歌について(その1)】
曹洞宗の開祖である道元禅師(1200~1253)には『正法眼蔵』『永平清規』『永平広録』『学道用心集』『普勧坐禅儀』等の著述の他に『道元禅師和歌集』が編まれている。この和歌集については『傘松道詠』の呼称のほうが耳に親しいかも知れない。この『傘松道詠』という呼称は、江戸時代の宗学者、面山瑞方(1683~1769)が名付けたという説が、現代の研究では定説となっている。
この和歌集の成立は明確ではないが、道元禅師ご自身はご自詠の和歌を一冊にまとめたのではなく、後世の者が一冊としたようである。この和歌集についての最古の記述としては応永27年(1420)に宝慶寺の8世である喜舜和尚が「書写」して、当時首座(しゅそー禅の修行道場で修行僧中の首位に坐する者)であった機公(後に永平寺13世となる建綱禅師のこと)に附授した という記述が残されている。この「書写」の原本は何であったか、または喜舜和尚自身が、編集して書写したのか等、成立については定かではない。
その後の書写本も幾系統かあり、所載の和歌の数にも47首から65首の異同がある。時代が下がるほど所載数が増加している。成立の問題もあり、所載数の違いもあり、『道元禅師和歌集』に収められる全ての和歌が、ご真詠であるかは断定できないのである。
しかし『道元禅師和歌集』に収められる、ほとんどの和歌は、宗教的趣きの味わい深いものである。道元禅師ほどの境涯の方でないと、詠めないのではなかろうかと考えると、道元禅師のご真詠ではなかろうかと推察しうるお歌が多い。
道元禅師のお父さんは、最近の学説では源通親(みちちか)ではなく、その子の源通具(みちとも)といわれている。通具は和歌所寄人(よりうど)であり、『新古今和歌集』の筆頭撰者である。
道元禅師が和歌について造詣が深いのは当然ともいえる。三十一文字に宗教的境界を自在に詠みこなせることは想像に難くない。『道元禅師和歌集』に収められる和歌は、花鳥風月を愛でているような和歌であっても、単なる叙景歌ではなく、宗教の風光ともいえる世界を詠み上げている。「道歌」などと表現される由縁である。
私は「中秋夜のご詠歌」については、限りなくご真詠に近いであろうという論証を、某誌上で試みた。全てについての論証はできないが、一応、禅師のご真詠であろうと思われる数首を選んで解説を試みたい。(昨年『大法輪』誌上で書かせて頂いたものや、短波ラジオで放送させて頂いた和歌について当ブログにまとめてみた。本当はラジオの放送をインターネット上でお聞き頂けたのであるが、残念ながら最近配信が終了してしまったようなので、文章化を試みたい。)
春は花なつほととぎすあきは月 冬雪さえてすずしかりけり
この和歌は川端康成氏によって、ノーベル賞の受賞記念講演で紹介された。日本の美しい四季を詠った和歌、という解釈が一般的にはなされている。しかし私は多少違う解釈をしたい。
道元禅師の祖父といわれる源通親の和歌に「春は花 夏はうつせみ 秋は露 あはれはかなき冬の雪かな」という和歌がある。通親は若いときは権勢を誇ったが、晩年は不遇な状況におかれたようで、人の世の儚さを移ろいゆく四季に寄せて詠みこんでいる。これを孫の道元禅師は本歌となさったと思うが、禅師の和歌は全く違った次元で詠んでいるといえよう。
禅師の和歌には「本来の面目」という題が付けられている。美しい日本の四季ではないのである。春には花、夏にはほととぎす、秋には月、冬には雪、それぞれ本来の面目を現じてすずやかだというのである。
道元禅師はこの和歌の中に、花、ほととぎす、月、雪にことよせて優劣比較のない宗教の風光を展開しているのではなかろうか。花もほととぎすも月も雪も生命の真実相の現れであり、あなたも私もまた生命の真実相の現れである。(言葉をかえて言えば、無限のエネルギーの表れ。万物は無限のエネルギーを、有限の身で現じているといえまいか。この見方は私が本師から教えられた見方である。)
道元禅師の師匠は中国の如淨禅師(1163~1228)というかたであるが、この方の語に「春は梅花に在りて画図に入る」という語がある。春は梅の花が咲いてはじめて春を現しうる、というような意味であるが、道元禅師のこの和歌も同じ趣旨といえるだろう。春も夏も秋も冬も、花、ほととぎす、月、雪などの現象をもって初めて現しうるものである。
同様にあなたがいなければ、私もいなければ、今のこの世はない。而今(にこん、まさにいま)のこの世は花や月と共に、あなたや私がいて、この世を現じているとさえいえよう。そしてそれぞれがすずやかだと禅師は詠まれているのではなかろうか。一つ一つ、一人一人すずやかなのだよ、とおっしゃってくれていると、この和歌を私は読みとくのである。
人間の苦悩の原因を考えてみると、その一つに、常に他と比較して自分に落ち着けないということはなかろうか。本来天地は全く差別無し、一人一人すずやかなのですから、安心して生きていきましょう。*続く
曹洞宗の開祖である道元禅師(1200~1253)には『正法眼蔵』『永平清規』『永平広録』『学道用心集』『普勧坐禅儀』等の著述の他に『道元禅師和歌集』が編まれている。この和歌集については『傘松道詠』の呼称のほうが耳に親しいかも知れない。この『傘松道詠』という呼称は、江戸時代の宗学者、面山瑞方(1683~1769)が名付けたという説が、現代の研究では定説となっている。
この和歌集の成立は明確ではないが、道元禅師ご自身はご自詠の和歌を一冊にまとめたのではなく、後世の者が一冊としたようである。この和歌集についての最古の記述としては応永27年(1420)に宝慶寺の8世である喜舜和尚が「書写」して、当時首座(しゅそー禅の修行道場で修行僧中の首位に坐する者)であった機公(後に永平寺13世となる建綱禅師のこと)に附授した という記述が残されている。この「書写」の原本は何であったか、または喜舜和尚自身が、編集して書写したのか等、成立については定かではない。
その後の書写本も幾系統かあり、所載の和歌の数にも47首から65首の異同がある。時代が下がるほど所載数が増加している。成立の問題もあり、所載数の違いもあり、『道元禅師和歌集』に収められる全ての和歌が、ご真詠であるかは断定できないのである。
しかし『道元禅師和歌集』に収められる、ほとんどの和歌は、宗教的趣きの味わい深いものである。道元禅師ほどの境涯の方でないと、詠めないのではなかろうかと考えると、道元禅師のご真詠ではなかろうかと推察しうるお歌が多い。
道元禅師のお父さんは、最近の学説では源通親(みちちか)ではなく、その子の源通具(みちとも)といわれている。通具は和歌所寄人(よりうど)であり、『新古今和歌集』の筆頭撰者である。
道元禅師が和歌について造詣が深いのは当然ともいえる。三十一文字に宗教的境界を自在に詠みこなせることは想像に難くない。『道元禅師和歌集』に収められる和歌は、花鳥風月を愛でているような和歌であっても、単なる叙景歌ではなく、宗教の風光ともいえる世界を詠み上げている。「道歌」などと表現される由縁である。
私は「中秋夜のご詠歌」については、限りなくご真詠に近いであろうという論証を、某誌上で試みた。全てについての論証はできないが、一応、禅師のご真詠であろうと思われる数首を選んで解説を試みたい。(昨年『大法輪』誌上で書かせて頂いたものや、短波ラジオで放送させて頂いた和歌について当ブログにまとめてみた。本当はラジオの放送をインターネット上でお聞き頂けたのであるが、残念ながら最近配信が終了してしまったようなので、文章化を試みたい。)
春は花なつほととぎすあきは月 冬雪さえてすずしかりけり
この和歌は川端康成氏によって、ノーベル賞の受賞記念講演で紹介された。日本の美しい四季を詠った和歌、という解釈が一般的にはなされている。しかし私は多少違う解釈をしたい。
道元禅師の祖父といわれる源通親の和歌に「春は花 夏はうつせみ 秋は露 あはれはかなき冬の雪かな」という和歌がある。通親は若いときは権勢を誇ったが、晩年は不遇な状況におかれたようで、人の世の儚さを移ろいゆく四季に寄せて詠みこんでいる。これを孫の道元禅師は本歌となさったと思うが、禅師の和歌は全く違った次元で詠んでいるといえよう。
禅師の和歌には「本来の面目」という題が付けられている。美しい日本の四季ではないのである。春には花、夏にはほととぎす、秋には月、冬には雪、それぞれ本来の面目を現じてすずやかだというのである。
道元禅師はこの和歌の中に、花、ほととぎす、月、雪にことよせて優劣比較のない宗教の風光を展開しているのではなかろうか。花もほととぎすも月も雪も生命の真実相の現れであり、あなたも私もまた生命の真実相の現れである。(言葉をかえて言えば、無限のエネルギーの表れ。万物は無限のエネルギーを、有限の身で現じているといえまいか。この見方は私が本師から教えられた見方である。)
道元禅師の師匠は中国の如淨禅師(1163~1228)というかたであるが、この方の語に「春は梅花に在りて画図に入る」という語がある。春は梅の花が咲いてはじめて春を現しうる、というような意味であるが、道元禅師のこの和歌も同じ趣旨といえるだろう。春も夏も秋も冬も、花、ほととぎす、月、雪などの現象をもって初めて現しうるものである。
同様にあなたがいなければ、私もいなければ、今のこの世はない。而今(にこん、まさにいま)のこの世は花や月と共に、あなたや私がいて、この世を現じているとさえいえよう。そしてそれぞれがすずやかだと禅師は詠まれているのではなかろうか。一つ一つ、一人一人すずやかなのだよ、とおっしゃってくれていると、この和歌を私は読みとくのである。
人間の苦悩の原因を考えてみると、その一つに、常に他と比較して自分に落ち着けないということはなかろうか。本来天地は全く差別無し、一人一人すずやかなのですから、安心して生きていきましょう。*続く