風月庵だより

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粋に生きあう

2006-03-02 00:20:16 | Weblog
3月1日(水)雨 【粋に生きあう
朝の満員電車の中、電車が駅に止まってから、男性が人をかき分けてドアに向かって突進してきた。その男の肘が思い切り私の低い鼻にぶつかった。私は痛さで鼻を押さえたが、男はすでに電車から降りてしまっていて、一言の謝りもない。勿論降りることに夢中で私の鼻をしたたかに打ち付けたことなど気にも止めなかったであろう。一言「降ります」と声をかけてくれさえすれば、こちらも反射的に身構えるのであるが、急に肘が先に来られては満員電車のなかではかわしようもない。

男性と限らず女性でも、無言で人を押しのけて降りていく姿を度々に見かける。そんなとき私はいつも寂しい気がする。一言でいいから「おります」と声をかけられないものだろうか。お互いに生きあうということは、特別な事じゃなく、一言声をかけあうようなちょっとした事でも言えるのではなかろうか、と私は低い鼻がさらに低くなりはしなかったかと心配しながら、そんなことを思っていた。

その電車を降りて都営三田線に乗り換えたのだが、電車の中刷り広告に、まさに今朝の私の気持ちにピタリのことが書かれていた。「江戸仕草」と題されていて、その一つ、「傘かしげ」とある。傘をさしている人がすれ違う際は、お互いに傘を少しかしげあって道を行き交う、という仕草のことである。また「こぶし腰浮かせ」とあって、お互いに拳ほど譲り合って腰を浮かせれば、狭いところでもまだ坐ることができる、と言うような電車の中吊りに適した意味が書かれていた。江戸の頃には花火大会でも観るときの席取りの時にでも使われたのだろうか。そして次に「感謝の目つき」がある。急いでいるとき道を譲ってもらったら、すっと感謝の眼差しを、とコメントされていた。全くその通り。そしてさらに「束の間つき合い」というのがあった。「席に座るとき隣の人にちょっと一言」声をかけるというようなことが書かれてあった。まさにその通り。電車から降りるときにもちょっと一声、である。満員電車の中、本当に束の間のおつきあいである。「おりますから」とでも声をかけてくれれば、どんなにお互い気持ちが良いか。「江戸しぐさ」とは落語の世界にでも出てきそうな庶民の姿が偲ばれる粋な仕草のそれぞれである。洒落た広告に心が和んだ。これは公共広告機構の広告であった。(今日もう一度その広告を見たいと思って探したが、見つけられなかった。)

この広告を見たお陰で、日常的に、ほんのちょっと心を遣いあって、生きあっていただろう江戸の庶民の生活などを想像した。そして私がまだ若い頃、寄席の芸人の方と話す機会が度々あったことなどを道々思い出した。その方はよく黒門町の師匠(桂文楽師匠のこと〈1892~1971〉)のことや志ん生師匠(1890~1973)の話など、粋を地でゆく人たちのことを話してくれた。そして誰かが人知れずちょいと、こ憎い気の利いたことなどすると「いいね。粋だね。」とおっしゃったものだ。もしその人が満員電車から降りるとしたら、「ちょいと、ごめんなさいよ」と、今はあまり耳にしない、べらんめぇの江戸弁ともひと味違った芸人言葉とでもいうのだろうか、抑揚も小粋に一声かけて降りて行っただろうと、中吊り広告からそんなことまで思った昨日の朝の出来事であった。

声をかけあえるものなら声をかけあい、または目に気持ちを表すのもよいが、意志の疎通をはかりあって生きあいたいものである。束の間のお付き合い、満員電車から降りるときには、人の鼻にしたたか肘をぶつけていくよりも、ちょいと一言声かけあって、お互い粋に生きあおうではありませんか。

話はちょいと飛びますが、お上(おかみというのは国のことだそうです。)は一体いつまでメール一つに無駄な時間を使っているのでしょうか。庶民の血税からでている議員給与、有効に使っていただきたいものである。永田寿康議員も粋に生きてはどうですか。粋の意味は、自分だけ良ければいいというのじゃない、人の情を大切に、さっぱりと、自分の手柄はむしろ隠して、奥ゆかしく、欲を張らずに、などいろんな意味がありますが。

永田議員どころじゃない、この吾れこそ、粋に生きまほしけれ。