right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

ウソ。嘘。うそ。

2013-11-30 09:34:12 | 日記


ウソをつくのは、いけないこととされています。
特に大人になってからつくウソは、ときに思いもよらぬ困った事態を引き起こしたりします。
子どもも大人も、なるべくなら、ウソはつかないで生きていた方がいいようです。


ところで「うそ」って、その表記のし方によって印象ががらりと変わりますね。
「うそ」と「ウソ」と「嘘」では、なにやらことの深刻さにえらいちがいがあるように感じられます。
だからといって、「嘘」は許されないけど「うそ」ならいいとか、そういうわけでもないんでしょうけれど。



ぼく自身、ウソはわりと苦手です。
たぶん、嘘発見機とかを使うまでもなく、ばれてしまうタイプ。
よく言えば正直、悪く言えば愚鈍なにんげんなのだと思います。



ぼくがついたウソの中で覚えているものを挙げると、まず高校生だったか中学生だったかのころ、
体育でやるマット運動が嫌で嫌でし方がなく(身体が固いし、後ろ向きに回るなんてできない)、
1時間目にその体育がある日に、ずる休みを敢行しようとした覚えがあります。


朝起きるなり、体調不良を訴える演技で家族の目を欺き、
床に伏すふりをして時間の経過を待ち、1時間目が終わる頃合いに回復し、
2時間目から何もなかったような顔をして登校する、そういう予定でした。


結果から話すと、この作戦は失敗。
家族の目を欺くところまではうまく行ったのですが、
床に伏せて時をやり過ごそうとしているうちになんとも収まりの悪い気持ちに襲われ、
それ以上ベッドの上で時間を過ごすことができなくなり、しげしげと学校に向かい、
結局1時間目の途中から授業に参加。
ちょっとした遅刻を記録しただけに終わったのでした。



なんとも、情けない話です。
このときぼくは、じぶんには「ワル」を気取る才能が著しく欠如していることを自覚するに至りました。
中高生の男子とは、多かれ少なかれ、そうした存在のし方に憧れを抱くものです。
けれども結局、ぼくは制服のズボンを腰ばきしそこね、学ランの中に色つきのTシャツを着る勇気を出せず、
先生に悪態をついて職員室に呼び出されることも経験しないままに、人生に二度とない思春期を過ぎてしまいました。



その煮え切らない思春期を過ぎてからも、
ぼくはワルを気取る気概にも、ウソを通す図太さにも欠けた、
かと言って高潔な人格者として敬われるには何かが決定的に足りないという、
これまた煮え切らない中途半端なにんげんとして、ここまで生きてきてしまいました。



しかし、いまになってぼくは、この生来の苦手科目を克服せんともくろんでいるところです。
ぼくは、上手にウソをつき通せる技術を身につけてみようと思っているんです。
べつに、思春期の満たされなさの充足とか、いたずら心の遅すぎる芽生えとか、そういうのではありません。


思うに、正直さというのが人間的美徳でいられるのは、ある一定の程度と期間に限られるのではないでしょうか。
節度のない正直さは、腰履きのスラックスがそうであるように、
人生のある時期を過ぎた大人が身にまとうのには、あまりふさわしくないもののように思えるのです。



少し前のこと、ぼくにはお付き合いをしていた女性がいました。
正直であることを誠実さの証と自任していたぼくは、「あなたを幸せにします」という旨のひと言が、どうしても言えませんでした。
多くの男性がほぼ無根拠に言い放っているこの言い方が、ぼくには著しく傲慢なものに思えていたからです。


けれども、考えてみると、そうでもないのかなという気がしてきます。
言霊とはよく言ったもので、にんげんは、不思議なほど、じぶんで言ったことばに忠実に生きる生物です。
何ら根拠はなくたって、「幸せにします」と言い放ち、ある種の覚悟を決める。
その構えが、結果的に、ある種の幸せを運んでくる。
そういうふうになっているんじゃないかなと、思うようになったんです。


ほどなくして、彼女はぼくのもとを去っていきました。
ぼくにそのひと言が言えていたら、ちがった結果があったかどうかは、もちろんわかりません。
けれども、その体験は一つの学びと言うか教訓として、ぼくにこの文章を書かせているような気がします。



むき出しの正直さを自重して、上手にウソをついて見せること。
それは、シャツの第一ボタンをしめることに準じた、大人のたしなみであるように思います。
少々息苦しいし、ネクタイを締めてしまえば人の目にはほとんど触れない。
けれども、神様というのは、そうした細部にこそ宿っているものなのだと言われているし、ぼくも思います。



ハッピーの兆しが見えなくたって、「ハッピーニューイヤー」って言い合うとかね。





「誰からの反論も予期しないで語られるメッセージというは、要するに誰にも向けられていないメッセージである。
 『百パーセント正しいメッセージ』はしばしば『どこにも聞き手のいないメッセージ』である。」
 ~思想家・内田樹~

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