right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

おおらかであるのも悪いことではないけれども。

2013-12-04 09:10:36 | 日記


ぼくは、あまり怒りません。


電車で足を踏まれても、貸した本が返ってこなくても、無神経な選挙カーに愛すべき静寂を打ち破られたとしても。
いや、最後のは、ちょっと怒るかな。
でも、基本的には、怒ったりはせず、「ほとんどのことは、そういうものなのだ」と思って受け入れてしまうのがぼくです。


よく言えばおおらか、悪く言えば覇気がない。
本当のところは脳なしというのが、正確なところでしょう。



そんなぼくでも、脳なし(あるいは、おおらか)なままではダメなのかなと思って、気にかけているニュースがあります。
特定秘密保護法案のことです。
聞いている限りあまり穏やかな内容のものとは言えないようだし、
かの内田樹先生も反対の声を上げていらっしゃるし、
これはちょっと他人事を決め込んでいてはいけないかなと、思い始めているところであります。


とは言ってみたものの、なにせ浅学非才の身でありますゆえ、詳しいことはぜんぜんわかりません。
特定秘密ってどんな秘密のことを言うのかもわからないし、
情報管理の原則論を述べられてもお手上げです。
だから、ここで大見得を切って法案への反論を試みるつもりは、べつにありません。
やりたくっても、ぼくにはちょっとできない。



ただ、そんなぼくにもわかることがあります。


「なんか、ヤバそうだな」ということです。


この法律について考えるたび、ぼくは常にある種の「異常な危機感」に襲われます。
たぶん、それはぼくだけではないのでしょう。
国会での審議、国内外のメディアの報道、様々な形で表わされる「市民の声」。
それらのすべてに、金太郎あめみたいにして、ある一つの共通した「危惧」が含まれているように思うのです。


日本は、また戦争をする国になるんじゃないか。


みんなが心配しているのは、このことではないでしょうか。
ぼくが気になっているのも、このことです。
秘密情報のことは、正直言ってよくわからないし、あまり関心もありません。


けれど、それがどんなことに関してであれ、
国民の主権を制限して政府の権限を強くするという方向性それ自体に対して、
ぼくらは無条件のアレルギー反応を起こしている。
そのように、思えるのです。



この、「なんか、ヤバいんじゃないか」という空気感こそが、この法律を巡る議論の肝どころであるように思います。
海外の人たちだけでなく、ぼくら自身も、この法律に悪名高き「治安維持法」の蘇りを感じていて、
この法律の制定が再び日本を戦時中の国家総動員態勢に導くんじゃないかと、恐れを抱いている。


大げさかもしれませんが、それくらいの危機感が、支配的な空気として存在しているように思うんです。


冷静になってみると、ぼくらは怖がり過ぎているようにも思えます。
戦争が終わってもう70年近くが経とうとしているし、
グローバル化によって国家間の経済的な結びつきはかつてないほど強くなったわけで、
かつての国民国家を主体とした戦争なんて、白黒テレビみたいな前時代的存在と言えなくもありません。


いまいくら中国と仲が悪いからと言って、いざ戦争をとなったら、いろいろ困ることがあり過ぎます。
上海にお父さんが単身赴任しているご家庭は、どうしたらいいんでしょう。
全国津々浦々の中華料理店は、閉店を余儀なくされるのでしょうか。
ユニクロの社長だって怒るでしょう。
無理に決まってます。



だから、この「ヤバいんじゃないか」という危機感は、具体的な根拠に基いたものではないと思います。
ただなんとなく、でもとても、ヤバい感じがする。
そこには、諸外国の皆さんだけでなく、悲しいがなぼくたち自身もが持ってしまっている、
ぼくたちの国への、根っこの部分での拭いきれない不信感があるように思うのです。



いくらきれいな理屈を並べられても、どうも信用できない。
根拠の説得力は、ほとんどの場合、空気の疑わしさに勝ることはありません。



浮気を犯した夫は、妻の許しを得るまで、ひたすら誠意を見せ続けるしかない。
「もう許してくれたよね?今日は、ただの人数合わせだから」と言って合コンにでかける振る舞いは、
よほど寛容な奥様でない限り、許容されるものではないでしょう。


さらに言えば、「ごめん、今日は仕事で遅いから」と連日言い続けるような態度も、改められなければならないのでしょう。
そこに、「実は、仕事というのは方便で…」という疑惑が生じる余地を与えてしまったら、
それはやはり旦那さんの落ち度として糾弾されてしまうのが定めなのだと思います。


「いい加減、信じてくれよ」ということばは、思っていても口に出してはいけない種類のことばなのでしょう。
ほとんどの場合、赦しとは、それを乞いながら待ち続けるものであって、相手に強要できるものではないからです。



たまには、おおらかさを自重してみせるべきときがある。
いまがそうなのかはわかりませんけれども、
そういうときがあるということだけは、ちゃんと知っていたいと思っています。




「想像力というのは、現実に存在しないものを想像的に現前させるためだけに使うものではない。
 現実に存在してはならないものを決して現実化させないためにも用いるものなのである。」
 ~思想家・内田樹~

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