right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

緊張とウソ。

2013-12-06 13:37:05 | 日記


最近、いつ緊張しましたか?


ぼくはね、思い出せます。
少し前の金曜日のこと。
「はじめまして」な人とたくさん会う機会があったんです。


「はじめまして」は、人見知りなところがあるぼくにとっては苦手な分野です。
だから、やはりというか、緊張します。
朝起きるなりそのことで頭がいっぱいになり、無意味なシュミレーションにない知恵をしぼり、それなりの覚悟をもって臨んだわけですが、
案の定というか、背中に嫌な汗をかき、口からは不自然なことばがあふれ、笑顔はひきつり、
なんともパッとしない感じで時間だけが過ぎていくような感じになってしまいました。



さように、多くの場合、緊張はあまりうれしくない影響をぼくらに及ぼします。
普段できていることができなくなる、
思ってもいないようなことを口走ってしまう、
ひどいものだと、お腹のあたりが痛くなったりといった身体の不調さえ招いてしまう。


そんなわけなので、ぼくらはなんとかこの緊張を遠ざけんとします。
個人的な願掛けをする(お守りを何個も付けて試合に臨むというサッカーの監督がいました)、
手のひらに「人」の字を書いて飲み込む(今の子たちにもやるのかな、これ)、
じぶんを励ましたり、勇気づけたりする(ぼくは、わりとよくやります)などなど、あの手この手。


しかし、この緊張を追い払おうとする努力そのものがかえって緊張の栄養になってしまい、
「緊張しているじぶん」そのものが新たな緊張の種になってしまうという、
ウロボロスの蛇みたいな無限ループにはまってしまうこともしばしばで、
やはりこれはやっかいな存在であることにちがいないのです。



それでは、緊張なんてものはなくなった方がいいのかと言うと、話はそんなに簡単ではないですね。
「緊張感のない」という修飾語は普通あまりいい意味では使われませんし、
緊張を欠いた人生というのは、いつまでもサビが始まらない歌謡曲みたいで、
どうにも決まりの悪い、唐辛子の入っていない麻婆豆腐のようなものであるように思われます。



かといって、「適度な緊張感を持って人生を楽しもう」なんてお茶を濁すような言い方も、したくはありません。
「適度な」とか「ほどほどに」ということばを使ったアドバイスや提言の類を、ぼくはあまり信用できないんです。


ぼくらが抱えている問題や悩みのほとんどは、この「適度」や「ほどほど」が達成できないが故に生じているのではありませんか。
ぼくらはわかっていても「ほどほど」の安全地帯から足を踏み外してしまい、「適度」の白線の内側に留まることができず、
その結果として因果応報的に生じる面倒を抱え込むことになるのです。


であるからして、「適度に」ということばを含む言明は、「交通事故ゼロを目指そう」とか、「核兵器廃絶宣言都市」の看板みたいに、
その主張の中身こそ正当なものであるものの、その実何ら現実変容能力を持つことのない、一種の空言としてぼくらに現前することになります。
ぼくたちが欲しいのは絵に描いた餅ではなくて、餅を実際につくための米や臼なのです。



なんだか、ひとりでに怒り出してしまいました。
どうしたのでしょうか。



おそらく、ぼくらが緊張するのは、ぼくらがウソをついているときなのだと思います。
「ウソ」にはいくつかの種類が存在すると思いますが、ここでは二つに分けてみます。

(1)誰かを欺くために着く悪意に満ちたウソ
(2)じぶんを実像以上に見せるためにつく過大広告のようなウソ

(1)の種類には縁がないというような善良的な方であっても、(2)の類を経験していないという方はいないのではないでしょうか。
多かれ少なかれ、ぼくらはこの種のウソをつきながら、あるいはそのウソをじぶんでも信じながら、この人生を生きているのだと思います。



じぶんのことを優しい心持ちのにんげんだと思ってみる。
じぶんの人生を無限の可能性に満ちた航路と捉えてみる。
じぶんの過去の挫折や失敗を来るべき成功の過程と解釈する。



これらは、裏付けとなる根拠をほとんど持たないという点においては、ウソに基づく妄言と選ぶところがありません。
むしろ、多くの事実はこれらを否定する方向にぼくらを導くかもしれません。


ぼくらは誰かを傷つけることなしに大人にはなれないし、
ぼくらの日々の実相は限りなく有限な(ん、矛盾してる?)ものに思えるし、
挫折は失敗は紹介制のメンバーズクラブみたいにして次の挫折や失敗を連れてきたりします。



それでも。
それでも、ぼくらがそうした現実の実相を変えることを望むとき、
ぼくらが今目の前にあるものとはちがった現実を手に入れんとするとき、
ぼくらは「嘘つき」のレッテルを貼られようとも、ウソのひとつやふたつ、ついてみせる必要に迫られるのです。


緊張は、そうしたときに生じる心の震えなのかもしれません。
それは、ぼくらが目の前の現実を変容させるべく踏み出す一歩がもたらす地面の震えと言ってもいいのかもしれません。
ぼくらはときに背伸びでは足らず、垂直跳びをしなければ届かないような目標を掲げてしまいます。
緊張は、そうしたやや高すぎるところに咲く花をなんとか捕らえんとするぼくらのあがきの地響きなのかもしれません。



ぼくらが緊張を忘れたとき、それはぼくらが垂直跳びを、もしくは背伸びまでをも忘れたことの証でありえます。
それはそれで、生きるのが楽になるでしょうし、悪いことではないのかもしれません。
けれども、ぼくはまだもう少し、背中にかく冷や汗を楽しみたいなと思っているところです。





「ラクもいいけど、ラクばっかり求めてると楽しくないんですよね。
 楽しいことをやってるとき、ラクじゃないこともある。」
 ~ミュージシャン・甲本ヒロト~

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