中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る日光道中二十一宿(第4回):第2日目(3):間々田宿

2009年11月02日 05時06分03秒 | 日光街道二十一宿
                   <友沼八幡神社のご神木>

   歩いて巡る日光街道二十一宿(第4回):第2日目(3):間々田宿
          (小田急トラベル)
      2009年9月27日(日) 
つづき

<乙女>

■将軍御休憩所跡
 わたし達が休憩している友沼八幡神社は将軍御休憩所であった.
 その事情を説明した案内文が境内に掲示されている.


■乙女一里塚
 休憩を終えた私たちは,14時05分,友沼八幡神社を出発する.再び北北東に向かって歩き続ける.自動車の往来が多い国道である.
 沿道は,広々とした田園地帯である.畑や森,民家などが,ゆったりとした雰囲気を醸し出している.平素,鎌倉のこせこせとした谷戸ばかり見ている私には,この延び延びとした田園風景に,強い憧れを持っている.
 乙女という地名の場所に到着する.この辺りに,江戸日本橋から18番目の乙女一里塚がある筈だが,今は,それらしいものが何も残っていない.仕方なく確認できないまま通過する.

              <乙女一里塚跡付近で見かけた美しいススキ>

■乙女河岸跡
 今,私たちが歩いている場所から,西北西に1.5キロメートルほど進むと,思川に突き当たる.そこに乙女河岸跡がある筈である.しかし,私たちの旅は枝道に入ることはしないので,乙女河岸跡には立ち寄らずに先を急ぐ.
 旅行社の資料によれば,渇水期になると,思川の東岸に船着き場らしい遺構が見えるという.1600年(慶長5年),徳川家康が上杉景勝征伐のときに,ここで武器や兵糧を陸揚げしたのが,船着き場の始まりである.後に,日光東照宮造営のときにも,ここで資材の陸揚げが行われた.以来,ここは河岸交通(水運)の拠点となっていた.辺り一帯には,さまざまな商店が建ち並んでいた.ここから,江戸深川を結ぶ航路が賑わっていた.

<間々田宿>

■中間点で万歳

 14時11分,小山市に入る.そして,14時47分,逢いの榎に到着する.ここは,日光街道の中間点でもある.14時49分,全員が集まったところで,無事,中間点に到着したことを祝って,万歳を三唱する.


■逢いの榎
 旅行社の資料によると,1617年(元和3年)に徳川家康が日光に祀られた.その後,日光道中は東照宮参拝の道として整備され,二十一の宿場が設けられた.
 日光道中は,江戸日本橋から宇都宮までは,奥州道中と重なっていたので,諸大名の参勤交代,物流,旅人の往来に利用されてきた.
 逢いの榎は,当初,「間の榎」と呼ばれ,間々田宿の入口に植えられた.この榎は,旅人の目印になっていたという.そして,何時の頃からか,縁結びの木として,庶民が信仰するようになり,祖師堂が建てられた.




■間々田宿
 私たちは,JR間々田駅近くの繁華街に到着する.この辺りが,江戸から11番目の宿場である間々田宿の中心部である.
 旅行社の資料によると,間々田宿には本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠50軒があった.宿内戸数は175戸,宿内人口は947人(年代不詳).

■問屋場跡・本陣・脇本陣
 14時58分,間々田宿の問屋場跡と,本陣と脇本陣の跡を通過する.



 
■間々田八幡宮
 本陣跡から北に向かう枝道に入ると,2キロメートルほどのところに,間々田八幡宮がある.枝道にあるので,私たちは,当然のように,間々田八幡宮には立ち寄らない.
 旅行社の資料によれば,939年(天慶2年),平将門を征伐した藤原秀郷が,戦勝記念として,この神社に采田を寄進した.そこで,この辺りは「飯田(ままだ)の里」と呼ばれるようになった.
 境内は起伏に富んでいて,市民の憩いの場になっているらしい.
 松尾芭蕉が有名な句,
 “古池や
    蛙飛び込む
      水の音“
を詠んだ場所は間々田八万群境内にある池だったという.
                                (つづく)
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