中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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善光寺西街道;第2回;第2日目(5);坂の青柳宿

2015年06月16日 04時07分04秒 | 善光寺街道・善光寺西街道

                              <坂の青柳宿>

         善光寺西街道;第2回;第2日目(5);坂の青柳宿        
           (五十三次洛遊会)
        2015年5月29日(金)~31日(日)
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第2日目;2015年5月30日(土)(つづき) 

<ルート地図>


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※再掲

青柳宿の案内図

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<道の駅から坂北駅へ>

■道の駅「さかきた」から歩き出す
 11時55分,昼食を終えた私達は,道の駅「さかきた」から歩き出す.いよいよ午後の部の始まりである.
 まずは篠ノ井線の踏切を渡って,もとの善光寺西街道まで戻る.
 
<道の駅から歩き出す>                          <篠ノ井線の踏切>

■山崎良子氏宅跡の祠
 12時02分,街道に戻ってすぐの所に山崎良子宅跡という木杭が立っている所に到着する.傍らに小さな祠が安置されている.
 浅学の私は山崎良子氏がどのような方なのか全く見当も付かない.帰宅後,インターネットで調べたが,同姓同名と思われる方が何人かヒットするが,どうもここの山崎良子氏とは違うようである.何となく引っかかるが,
 ”まあ,いいか…”
という琴にしておこう.
 12時06分,半ば風化した善光寺西街道の石柱の前を通過する.
 
<山崎良子氏宅の祠>                           <古い道標>

■路傍の石塔2基
 12時08分,長閑な雰囲気の広場に石塔2基が安置されているところに到着する.
 向かって左側の石塔には道祖神という刻字が梵なりながら見えるので,道祖神に違いないが,右側の石像のようなものは一体何だろう.馬だろうか,それとも犬だろうか.気になるなあ~…

<路傍の石塔2基>

■城北小学校と案内図
 12時13分,城北小学校に到着する.耐震補強工事済みの立派な校舎である.小学校の敷地の脇に「青柳城趾・碩水寺」という案内杭が立っている.
 近くには青柳宿の案内図が立っている.
 改めて地図を開いて,青柳城趾や碩水寺が何処にあるかを調べる.残念ながら街道筋からは,かなり離れた所にある.残念ながら,これらの場所を見て回るのは諦める.
 
<城北小学校>                               <青柳城趾・碩水寺>

■碩水寺
 資料3には,「龍沢山碩水寺 天明2年と文化10年の火災にあい,寺の由緒は確かでないが,裏山に覚応阿闍梨法印の塔があったことから,もとは真言宗の寺であったことが知られます.現在の曹洞宗に改められたのは,享禄元年(1528)のことで,当地の領主青柳近江守清長が開基となり,南安曇郡有明村清原寺二世天如桂樹和尚を開山となし,天文元年(1533)寺が創立されました.末寺としては、青柳清長寺,花顔寺,関昌寺,上田市宗賀前松寺,松本市端松寺があります.周囲は赤松におおわれて,老杉の林立する幽玄そのもののたたずまいは昭和53年県より環境保全地域に指定されています.」という説明がある.

<碩水寺> 資料3から引用

■青柳城趾
 青柳城趾については,資料4に「坂北駅より東,旧善光寺街道,青柳宿を経て標高900メートル,尾根の末端が山城で南,北,西の三斜面は急峻であり,東に大小八つの郭と7条の空堀があります.西端を本丸とし要害嶮岨で,麻績,坂北地方の山城が一望できる位置です.天文22年(1532)武田氏と上杉氏が,また天正11年(1584)〜12年には小笠原氏と上杉氏が,攻防戦をして,天正15年(1587)に落城しました.現在は青柳城址公園として櫓門や遊歩道が整備されていて,往時の面影を偲びながら林の中を散策できる自然公園となっています.鳥や虫の声に迎えられて林の中を通り抜けると,青柳城本丸跡に達します.何といってもここからの眺めは圧巻です.眼下に坂北が一望でき,北に聖高原,天気のいい日はアルプスまで広く見渡すことができます.本丸跡で坂北からの絶景を眺めれば,青柳のお殿様が考えたことが,なんとなくわかるような気がします.昭和49年3月22日 県の史跡に指定されました.」という説明がある.
 この説明文を読んで,私は,
 ”しまった…!”
と後悔している.もし,事前調査で,青柳城趾のことがもう少し分かっていたら,青柳城趾公園を散策する時間を取っておいたのに…実に残念!

■坂北駅入口
 12時16分,坂北駅入口に到着する.もしトイレ休憩を取る必要があれば,坂北駅に立ち寄ろうかと思ったが,一同特にトイレ休憩を取る必要はないとのことなので,坂北駅はパス.
 12時18分,前方に見えている「青柳」の案内板を通過する.どうやらここからが青柳宿のようである.
 
<坂北駅入口>                               <いよいよ青柳に入る>

<いよいよ青柳宿だ>

■二十三夜塔
 12時20分,大きな石塔が立ち並ぶところに到着する.一際大きな石塔には二十三夜塔という文字が刻まれている.その左隣の石塔は何だろう? うっすらと刻字が見えるがハッキリとは読めないが,無理矢理判読すれば,多分,「南無阿弥陀仏」と書いてあるように思える.
 二十三夜塔から,ほんの少しは馴れたところに案内杭が立っている.この杭には「坂北駅 青長寺 切通し 青柳城趾」などと書いてある.
 私達は「切通し」に向けて歩く予定である.
 
<二十三夜塔など>                            <案内杭>

■立派な案内板
 12時23分,立派な案内板が立っている場所に到着する.
 案内板には青柳宿の詳しい説明と分かりやすい地図が書いてある.坂北村が観光に大変力を入れていることが,この案内板からも垣間見ることができる.私は一見の旅人に過ぎないが,村の努力に頭が下がる. 

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 ■青柳宿の概要
 この案内板の記事によると,「戦国時代に青柳氏が長田地籍から居館をこの地に移してから後にできた宿である.慶長年間(1598~1615年)松本城主小笠原秀正の時代に整備された.元禄11年(1698年)には東西5丁28間(約600メートル)で,家数は89軒を数えた.慶長12年(1607年)の「金伝馬割」には,佐渡の金を運ぶ伝馬の割当が記載されている.宿継ぎの荷物は善光寺平からたばこが,松本町方面からは茶荷が多く送られたとされ,当時の要害であった.」と記されている.


※現地で入手した案内図 

<旧屋号を掲げる街並み>

■桜清水
 12時22分,進行方向右手にある桜清水に到着する.大きな石塔が立っている.
 地図で確かめると,この桜清水から青柳宿の上り坂が始まるようである.いわば桜清水が青柳宿の入口または出口のような位置にある.
 私達は,これから先,青柳宿の上り坂に差し掛かることになる.

<桜清水>

■家ごとに旧屋号
 坂道に差し掛かる.道路の両側には民家が建ち並ぶ.各戸の軒先には,旧屋号が掲げられている.
 
<もとや>                                  <茶乃木屋>

■市の神と碩水寺分岐
 12時26分市の神の前を通過する.市の神が何かは手許の資料では不明.
 ついで,12時27分,碩水寺・中村方面分岐を通過する.
 地元で入手した案内図(次回のブログに掲示)には,碩水寺までの途中に右近桜,お地蔵様廻り場なそがあり,碩水寺には青柳清永,頼長の墓があるようだ.ただ,資料2(p.416 )によると,これらの墓は崖崩れによって,今は何処にあるか分からないようである.
 ちょっと立ち寄って見たいなという誘惑に駆られるが,今回は立ち寄らずに通過する.
 
<市の神>                                 <碩水寺分岐>

<石垣用水路に沿って>

■石垣用水路終点

 12時28分,「青柳宿町通り石組み用水路」という案内板を見付ける,どうやら,ここが石垣用水路の終点のようである.
 ここから先,やや急な坂道が連続する.その坂道の右側に石垣用水路が設置されている.石垣用水路の始点は,この坂を登ったところにあるようだ.石垣用水路は下の写真の向かって右側の石垣の下に続いている.
 先ほどの案内板には,石組み水路について,「青柳の屋敷は敷地が狭く,急傾斜のため石垣の上に建てられた家が多く,その石垣の下を水路が通っているのは,他の宿場では見られないきわだった特徴である.朝の洗面を始め生活用水,牛馬の飼育,かんがい用水などに幅広く用いられた.」という説明文が書かれている.

<石垣用水路のある上り坂>

■本陣跡
 坂道を登り続ける.
 12時32分,本陣跡に到着する.ここには立派な黒門が残っている.御本陣問屋青柳八郎右衛門.残念なことに門の前に自動車が無粋に停車しているので,黒門の全景を写真に収めることができない.
 黒門の向こうには入母屋造りの大きな屋根が見えている.

<青柳宿本陣跡>

■馬の水飲み場跡と用水路入口
 12時33分,馬の水飲み場を通過する.ただ,水飲み場らしい痕跡は一寸目には見当たらない.ただ馬の水飲み場と書いた小さな木食いが立っているだけである.その横に古タイヤが1本.捨てられているのか,何かの目的で置いてあるのか良く分からないが,無粋な感じがする.
 この辺りで家並みは途絶える.さらに坂道を登って,12時35分,用水路入口に到着する.ここが石垣用水路の始点である.ただ,現在はコンクリートでシッカリと作られているので,勿論当時の面影は残っていない.ちょっと残念な気もするが,いくら宿場跡とはいえ,現在も住み続けている人たちが居るのだから当然設備も近代化されるだろう.それはやむを得ないことだ…私は古都鎌倉の住民の1人として,胸の中だけで,こんな妙な感想を持つ.
 
<馬の水飲み場跡>                            <用水路入口>

<青柳城趾公園を横目に眺めながら…>

■青柳城趾公園分岐

 12時36分,「切通し 青柳城趾公園」と書いてある分岐に到着する.ここを直進すれば切通へ,右折すれば青柳城趾公園である.傍らに「史跡青山城趾」という案内板が立っている.
 先ほど宿場入口にあった案内板には,以下のような説明がある.「中世青柳氏累代居城跡,居館跡とともに長野県の史跡,通称「城山」(標高904メートル)と呼ばれる山頂に築かれ,難攻不落の要害であった.大小八つの廓跡と東に七条の空掘がある.」
 「天文22年(1553年)には小笠原氏と上杉氏が攻防戦をおこなうなど,数多い実戦のあった山城で,今も各所に石垣や空堀の跡が残っている.その支城として竹場城趾(城山城趾)ち仁熊城趾(隠城)があった,山頂に立てば眺望が素晴らしく,北アルプスの山脈が一望できる.」
 
<青山城趾公園分岐>                           <青山城案内>

■青山城趾周辺地図
 次の鳥瞰図は,分岐の傍らに掲示されている青山城趾舜編図である.
 旅の途中で立ち寄るには如何にも遠すぎるので,残念ながら立ち寄らずに通過するしか選択肢はない.でも,城趾のあるあの山の頂まで行ってみたいなと強く思う.
 ”いつの日か,私はきっとあの山に登っているだろうな…”


清長寺と里坊稲荷神社・陣屋敷跡
 12時39分,清長寺と里坊稲荷屋敷の案内杭の前を通過する.
 残念ながら清長寺にも立ち寄る時間はないが,資料1によると,この寺は青柳氏の菩提寺である.
 12時41分,陣屋敷跡を通過する.
 
<清長寺分岐>                             <陣屋敷跡>

■素晴らしい眺望
 12時42分,後ろを振り返る.
 そこには北アルプスの素晴らしい眺望があった.

<北アルプスの素晴らしい眺望>

[参考資料]

資料1;完全踏査海道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;http://www.vill.chikuhoku.lg.jp/villager-sightseeing/events/history/post-6.php
資料4;http://www.vill.chikuhoku.lg.jp/villager-sightseeing/events/sightseeing-area/post.php

                                         (つづく)
続きの記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0efd6d611347295b42281c7e0403c8f2

善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f71644979892cd488cd56360b380d188

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