中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(74):第9回(14):魁塚と旧渡辺家住宅

2011年01月07日 00時05分00秒 | 中山道六十九宿

                                          <魁塚にて>

   中山道六十九宿巡り(74):第9回(14):魁塚と旧渡辺家住宅
             (五十三次洛遊会)
       2010年9月11日(土)~13日(月)

第3日目:2010年9月13日(月)

<第3日目のルート地図>



<第3日目のプロフィールマップ>


        水平歩行距離   13.5km
        累積登攀高度   303m
         累積下降高度   352m


<グリーンサンホテルから歩き出す>

■第3日目の朝
 昨夜は随分と早く就寝.でも,何となく寝付きが悪かった.そんなこともあって,真夜中に眼が覚めてしまう.0時30分である.そういえば,ホテルに到着後,風呂には入ったが,すぐに夕食のために外へ出掛けてしまった.アルコールには弱いのに,雰囲気でビールを飲んだので,何となく身体にネチャネチャ感が残っている.どうせ眼が覚めたのだから,もう一度風呂に入り直そうと思う.
 幸いなことに,夕食前に入った風呂の残り湯がまだかなり温かい.熱い湯を少し足して,風呂に入り直す.すると何となく気分がリラックスして,やっともう一度寝ようという気になる.
 その後熟睡して5時10分に眼が覚める.またまた熱いお湯を足して,朝風呂を楽しむ.
 7時からの朝食に合わせて,6時55分,ホテル1階のレストランへ降りる.まだ時間前だが,もうレストランは開いている.
 朝食は和食.シャケの切り身の他に沢山のネーベン.実に豊かな食事である.満足.朝食後,コーヒーでリラックス.


■雨の中を出発
 昨夜来,天気は下り坂で,今朝は朝から小雨が降っている.
 8時16分,私達はホテルを出発,第9回目,3日目の行程が始まる.私達が宿泊したホテルは下諏訪駅近くにある.まずは,駅前の道を北に数分歩いて,昨日の終点,中山道に出る.左折して,中山道沿いに西へ歩く.

<魁塚>


<魁塚と赤報隊>

■魁塚
 8時23分,進行方向左側にある魁(サキガケ)塚に到着する.
 傍らにある説明文には次のようなことが書かれている.
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 ここは赤報隊長相楽総三以下患部八士そのたの墓である.慶應4年正月江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒嚮導の赤報隊は,租税半減の旗印をたてて進んだが,朝議一変その他によって賊視され明治3年同士によって墓がつくられた.名を「魁塚」として祭られた.爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴した草莽として維新史の上に大きく輝く人々である(昭和49年6月24日指定 下諏訪町教育委員会)
     *************************
 この文章の中には,浅学の私には読めない漢字が2カ所に出て来る.読めないから意味も分からない.説明文を読みながら,なんでこんなに難しい漢字を使うの・・と下諏訪町教育委員会に文句を言いたくなる.
 まず「嚮」である.音は「キョウ,ゴウ」.訓は「むかう」と読むらしい.“嚮導”なんていう語句は手許の小さな漢和辞典には載っていないが,多分“先導されて向かう”という意味だろう.
 次に“草莽”.辞書で調べると,どうやら「 ソウモウ」と読むらしい.意味は,(1)草原・草むら,(2)在野(民間)のことのようだ.ここでは,多分“在野(民間)”という意味だろうか.

■赤報隊
 赤報隊に興味があったので,帰宅後,インターネットで調べてみた.すると,資料1に以下のような記事が掲載されている.この記事の中にも,“草莽”ということばが出て来る.“やっぱり読めないのは私だけか”とガッカリした次第である.
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 赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で,王政復古により官軍となった薩摩藩,長州藩を中心とする新政府の東海道鎮撫総督指揮下の一部隊である.薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視の支援を得て,1868年(慶応4年)1月8日に近江国松尾山の金剛輪寺において結成される.隊長は相楽総三で,公家の綾小路俊実,滋野井公寿らを盟主として擁立する.隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられた.一番隊、二番隊、三番隊で構成されていた.相楽総三は,薩摩藩邸の浪士隊の総裁として,江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為として工作活動などを行い,これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけにもなった.
 赤報隊は新政府の許可を得て,「年貢半減」を宣伝しながら信州へ進み,世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た.しかし,新政府は「官軍之御印」を出さず,文書で証拠を残さないようにした.そして,新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し,年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして,公家の高松実村を盟主としていた高松軍とともに偽官軍の烙印(同年2月10日付け「回章」)を押した.
  3月3日,新政府軍によって,下諏訪宿の外れで相楽らは処刑された.しかし,赤報隊に加わっていた公家は処刑から外された.赤報隊は,新政府によって使い捨てにされたといえる.なお,二番隊は新政府に従い,京都へ戻り,のちの徴兵七番隊に編入され,三番隊は各地域での略奪行為が多く,桑名近辺で多くの隊士が処刑された.相楽の孫である木村亀太郎は,赤報隊の関係者と共に名誉回復に奔走した.その結果,1928年(昭和3年),相楽総三に正五位,渋谷総司に従五位の位階が追贈され,全員ではないが,名誉回復は果たされた.
 第二次世界大戦後,下諏訪では赤報隊を顕彰する相楽会が結成された.今なお,処刑場跡(張付田)に位置する「相良塚(別名=魁塚)」では,毎年4月3日(命日である旧暦3月3日の1ヶ月後に合わせたものと思われる)に遺族を招いて相楽祭を行い,供養している.また,2008年4月には,岐阜県不破郡垂井町岩出の菁莪記念館の駐車場に,住民の手による赤報隊の顕彰碑が建立されている.
 赤報隊は旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり,伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど,必ずしも正義の軍であったとは言えない一面があった.因みに同じ「偽官軍」と称された高松軍の小沢一仙(逸仙とも,1830年 - 1868年)は祀られないまま名誉も回復されずに今に至っている.

<路地のような中山道>

■道祖神
 魁塚で記述が手間取った.
 魁塚を通過して,8時28分,道祖神の前を通過する.そして西へ向かう.すぐに弥生町の広い道路と交差する.


■裏路地から富士見橋へ
 地図を頼りに,道路を横切り,民家の裏庭に挟まれた路地に入る.迷い込むように入った路地は.間口1メートル足らず.こんな所,通って良いのかなと気を揉むようなところである.
 この路地を飛び出すように抜けると,砥川に架かる富士見橋の袂に出る.
 

■道に迷う 
 8時32分,富士見橋を渡る.
 地図を見ると,橋を渡ってすぐに左折して,旧中山道に入るようになっている.少し変だなと思いながらも川の堤防の上を南向かうが,一向に旧中山道への入口が分からない.
 「おかしいな~ぁ・・・」
 それらしいところを,2~3回往復するが,一向に入口は見付からない.堤防下の民家の庭に不法侵入して横切れば行けそうだが,まさかそんなことはできない.
 もう一度,自動車の往来が多い中山道の橋の袂に戻る.おかしいなと思いながら,中山道を10メートルほど進む.行きすぎたかなと思いながら,最初の路地で左折する.路地をほんの少し進むと生け垣のフェンスに「中山道」と書いた木製の案内板があるのを見つける.ホッとする.
 

<渡辺家;華麗なる一族>

■旧渡辺家住宅
 再び心細い裏路地が続く.地図を見ると,どうやら東堀という聚落の中を歩いているようである.ちなみにこの辺りの標高は約770メートルである.
 8時52分,旧渡辺家住宅への路地角に到着する.曲がり角に旧渡辺家住宅入口」と書いた案内杭が立っている.
 旧渡辺家住宅の前まで行ってみる.近くに岡谷市教育委員会の案内板がある.この案内板によると,渡辺家は諏訪高島藩の散居武士(城下町でなく在郷の村に住む藩士).住宅の規模は間口7間半(約13.5メートル),奥行5間(約)9メートル).茅葺寄棟造.土間,炉の間,居間に中床がる.多分18世紀中頃の建築物.この一家から,渡辺千秋宮内大臣,国武大蔵大臣,千冬司法大臣の3人の大臣を輩出したという.
 残念ながら,旧渡辺家住宅を見学するには,事前にNPO法人郷土学習館(電話0266-26-7545)に立ち寄らなければならない.それに,月,木,金曜日は休館日である.今日はあいにく月曜日.これはダメだ.スゴスゴと立ち去るしかない.こういう所にまで目が回らないのが,素人集団の旅の欠点であり,長所でもある.ちなみに観覧料は大人(高校生以上)300円/人.10名以上団体は200円/人.
 



■渡辺家群像
 資料2によれば,渡辺千秋は「信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に諏訪高島藩士政徳の子として生まれる.楓関と号する. 生家は,長野県岡谷市長地芝宮に旧渡辺家住宅として保存されている.明治維新後鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任.大久保利通の計らいで宮内省に奉職し,内蔵頭・宮内次官の後,1910年4月宮内大臣に就任する.伯爵.」
 資料3によれば,渡辺国武士は「渡辺 国武(渡邊 國武、わたなべ くにたけ,1846年3月29日(弘化3年3月3日) - 1919年(大正8年)5月11日)は,日本の官僚,政治家.子爵.旧姓は小池.第2次伊藤内閣の大蔵大臣,逓信大臣,第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した.兄は伯爵 渡辺千秋.」
 資料4によれば,渡辺千冬は「長野県松本市生まれ.渡辺国武子爵の養子で,実父は帝国林野管理局長官渡辺千秋子爵.幼少時は慶應義塾などで学び,帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法学部)卒業.日本興業銀行を経て,日本製鋼所に入り取締役.1908年(明治41年)長野から衆議院議員に当選.1920年(大正9年),襲爵後,貴族院議員となり研究会に所属,浜口内閣,第2次若槻内閣にて司法大臣を務める.大阪毎日新聞社取締役,1939年(昭和14年)枢密顧問官となり,他に関東國粹会総裁となる.子に渡辺武,渡辺慧がいる.」
                                 (つづく)

資料1;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A0%B1%E9%9A%8A
資料2;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%8D%83%E7%A7%8B
資料3:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%9B%BD%E6%AD%A6
資料4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%8D%83%E5%86%AC
    
「中山道六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c8863ad306ae651e3d4c2d8469bbdd68
「中山道六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/247701148f53c143175fbcf6dfed1c99



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