中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(3);加納宿

2012年07月08日 04時28分46秒 | 中山道六十九宿

                          <加納宿大手門跡>

   歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(3);加納宿
             (五十三次洛遊会)
        2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月23日(金)

<加納宿地図>


                 ↓
            破線に囲まれた部分の詳細図
■加納宿詳細図


<加納宿の概要>

■加納宿の概要
 私たちはいよいよ加納宿に入る.ここで加納宿の概要を纏めておこう.
 江戸日本橋から第53次が加納宿である.
 資料3(p.285)によると,ここは鵜沼宿から4里半,次の河渡宿まで1里半の位置にある.美濃国渥美郡.宿内人口2728人,内,男1296人,御名1432人.宿内惣家数805軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠35軒の規模であった.資料3(p.286)によれば,加納宿は美濃16宿の内,唯一の城下町であり,東西に番所を設けて宿の出入りを取り締まっていた.

中山道の要衝
 資料11によれば,「
付近一帯は古くより東海道に並ぶ主要街道である中山道の要衝として栄えてきた。慶長6年(1601年)に徳川家康の命により岐阜城が廃城となり、代わりに加納城が築城さた.中山道の中では、本庄宿高宮宿熊谷宿高崎宿 に次ぐ大宿である。」

<加納宿の核心部を行く>

■鏡岩の碑
 東海道本線のガードを潜り,名鉄名古屋本線の踏切を越える.
 10時30分,鏡岩の碑に到着する.ここは伊勢道の分岐点でもある.の辺りから,中山道は岐阜市内を複雑の曲がりくねっている.果たして,昔の中山道を,正確にトレースできるかどうか不安である.
 資料を基に,予め詳細な地図を作ってはいたが,この地図も果たして正確かどうか分からない.
 鏡岩の碑近くの団子屋さんの店先に「加納宿の地図あります」という趣旨の張り紙を発見する.早速,お店にお邪魔して,地図を分けて貰う.

<鏡岩の碑>

■中山道ウォーキング案内
 以下の地図は,団子屋で頂戴した中山道加納宿文化保存会作成「中山道ウォーキング案内」の地図である.この地図を頼りに,岐阜駅付近まで歩くが,大変重宝する.
 ただ,岐阜駅から西は,道路などがかなり省略されているので,初めてこの地図を頼りに歩くと,どこを歩いているのか分からなくなり困惑する.駅から西は,結局,自家製の地図に頼ることになる.


■御鮨街道
 鏡岩の碑のすぐ側に中山道加納宿と刻字された案内杭が立っている.ここは御鮨街道(別名伊勢路)の分岐点でもある.
 資料6によると,御鮨街道は別名鮎鮨街道とも呼ばれ,「
鮎鮓街道(あゆすしかいどう)とは徳川家康への鮎鮨の献上ルートのことである。 岐阜から熱田を結ぶ尾張街道の別名のことで「鮎鮨街道」、「御鮨街道」と呼ばれていた。慶長8年(1603年)に 美濃国奉行であった大久保長安が徳川家康、秀忠に鮎鮨を献上。元和元年(1615年)からは毎年5月から9月ころまでの間に10~20回、岐阜町のおすし元から、加納(岐阜市)問屋場を経て、笠松問屋場で受け継ぎ、一宮(愛知県)問屋場へそして江戸へと送られた。1回に鮎鮨4桶(1桶に鮎大10尾、小20尾)を1荷として3~5荷を江戸城に向けて輸送ようである。江戸に着くころに発酵して食べごろになるように作られていたため、予定の期日に遅れないように岐阜から江戸までの46の宿場を通過する時間を指定しており、当時の宿場帳によるれば、岐阜から江戸まで5日間で運んでいたようである。碑の歌 「鮎鮓の桶かつぎ受けわたし 人びとは江戸への道をひたに走りき」・・・「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定されている。」という

<御鮨街道分岐点>

■八幡神社

 10時32分,街道沿いにある八幡神社の脇を通過する.
 手持ちのどの資料にも,この神社の説明はない.
 10時33分,加納橋を渡る.


<八幡神社>

■自然石の道標
 10時34分,自然石の道標が置かれている交差点に到着する.私たちは自然石道標の前を右折して西へ向かう.どうやら「右岐阜 谷汲」と書いてあるようだ.資料4(p.53)によると,この道標は1885年(明治18年)に作られたもののようである.

<自然石の道標>

■秋葉神宮
 10時26分,秋葉神宮の前を通過する.それにしても,随分あちこちに秋葉神宮があるので
驚く.
 気になるので調べる.資料7によると
葉神社(あきばじんじゃ。地方によってはあきじんじゃ」とも読まれる。)は日本全国に点在する神社である。神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。」とのこと
 なるほど,これまでにも多くの石造りの秋葉神社があったことが納得できる.

<秋葉神社>

■加納宿東番所跡
 自然石の道標から西に向かって歩いている.道幅が広い道路を横切ってから,10時38分,東番所跡に到着する.繊細で焼けたのか遺構らしい物は何ひとつないが,「中山道加納宿東番所跡」と書いた案内杭が1本立っている.その向こうの賑やかな通りをバスが通過する.

<東番所跡>

■善徳寺
 東番所跡で左へ曲がり南へ向かう.
 10時38分,道路が突き当たったところにある善徳寺に到着する.
 資料8には.「善徳寺の創建は不詳ですが嘉禎元年(1235)に親鸞上人の教化を受けて浄土真宗に改宗したと云われています。当初は美濃国厚見郡革手村にあり法性坊と称していましたが、元和元年(1615)、加納城築城に際して城下町も整備され現在地に境内を移し、寛文13年(1673)に現在の寺号である善徳寺に改称しています。」という解説記事がある.善徳寺

<善徳寺>

■専福寺
 10時41分,専福寺の前を通過する.
 資料9には「専福寺には様々な古文書が伝わっていますが、中でも織田信長の朱印状と豊臣秀吉の朱印状、池田輝政制札状の3通が岐阜市指定文化財に指定されています。特に織田信長の朱印状は元亀3年(1572)に行われた石山合戦の際、専福寺が石山寺本願寺に加担するのを防ぐ為に発行したものとされ歴史的にも重要なものとされています。」と記されている.

<専福寺>

■またもや秋葉神社

 10時43分,またもや秋葉神社がある.かるく拝んで通過する.

<秋葉神社>

■中山道道標・岐阜道との分岐
 10時45分,岐阜道との分岐に立つ中山道道標に到着する.傍らに案内板がある.この記事によると,この案内標識は江戸中期(1750年頃)建てられた.最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標だったが,明治初年に「左西京道」「右東京道」の標識が追加されたという.

<道標>

■高札場跡
 中山道道標で左に直角に曲がり南へ向かう.
 清水川に架かる橋を渡ると進行方向左手に加納宿高札場跡がある.遺構は何もないが「加納宿高札場跡」の案内板が立っている.
 この案内板の記事によると,この近くに大手門があったようである.

<高札場跡>

■加納城大手門跡
 10時47分,大きな交差点を横切る.この交差点に加納城大手門跡がある.


■旧加納役場
 大手門跡で直角に右折する.すぐ左手に旧加納役場がある.中々シックな建物で,古い時代のロマンを感じる.
 資料12には,「(加納町が岐阜市に)合併当初は岐阜市役所加納支所として、また昭和60年以降は(財)岐阜市学校給食会の事務所として利用されていましたが、2005(平成17)には国の登録有形文化財の認定をうけ、保存修復の機運もぐっと盛り上がりました。がしかしながら現在は耐震基準を満たしていないということで、(財)岐阜市学校給食会は他に移転、耐震改修費や保存修復の予算もつかずで、廃墟同然となりつつあります。
 この建物の設計は戦前日本を代表する建築家の一人である武田五一であり、鉄骨鉄筋コンクリート造の町村役場としては全国の先駆けとなった武田作品です。彼は関西を中心に200以上もの建築設計を手がけ、アールヌーボーをいち早く日本にとり入れた人物としても知られており、同じく岐阜にある名和昆虫博物館(1919年、大正8)、名和昆虫研究所記念昆虫館(1907年、明治40)、名古屋の春田邸(1921年、大正10年)、春田文化集合住宅(1928年、昭和3年)等々、この地方でも多くの現存する建物を見ることができます。 」 という説明がある.

<旧加納役場>

■二文字屋
 10時50分,二文字屋に到着する.
 資料1(P.159)によると,本陣に泊まった和宮の本膳を再現.求めに応じて献立してくれるとのこと.
 詳しいことは資料10参照.

<二文字屋>

■加納宿当分本陣跡
 10時51分,二文字屋のすぐ近くにある加納宿当分本陣跡を通過する.
 私には「当分」の意味が良く分からなかったが,資料13によれば,「加納宿当分本陣跡・・・・・加納本町2丁目.現宮田邸は広いお屋敷の家で、ここに当分本陣がありました。幕末の1863年(文久3)に当分本陣を仰付られたそうです。ここに建っている標柱には、「明治天皇御小休所跡」とも書いてありました。」とのことである.

<当分本陣跡>

■加納宿本陣跡と西問屋跡
 10時51分,加納宿本陣跡に到着.付近には何の遺構もない.ただ「中山道加納宿本陣跡」と書いてある案内杭が立っているだけ.
 つづいて,すぐ隣の西問屋跡.ここも案内杭だけ.
 
<本陣跡>                        <西問屋跡>

■加納宿脇本陣跡
 11時04分,脇本陣跡を通過する.

<脇本陣跡>

                                         (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;各務原歴史研究会(編),「中山道新加納立場」各務原市・各務原市観光協会

資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%8E%E9%AE%93%E8%A1%97%E9%81%93
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE
資料8;http://niikai.ganriki.net/gifu/nakasen/kanou/zentoku.html
資料9;http://niikai.ganriki.net/gifu/nakasen/kanou/senpuku.html
資料10;http://blogs.yahoo.co.jp/chosichiro/41454424.html
資料11;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%AE%BF
資料12;http://www.jia-tokai.org/sibu/architect/2007/09/hozon.htm
資料13;http://homepage1.nifty.com/fuufuyuuyuu/sub24/kanoujyuku.htm

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/da466c4bdc6140268eb0ac93069ad9f9
「中山道六十九宿」の次回の記事
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