<JR岐阜駅にて>
歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(4);加納宿から河渡宿へ
(五十三次洛遊会)
2012年6月22日(金)~24日(日)
2012年6月23日(金) (つづき)
<加納宿地図>
※再掲
<そろそろ昼食に>
■中山道から外れて岐阜駅へ
そろそろ何処で昼食を摂るか考えなければならない.全員が土地不案内なので,どこに繁華街があるのか,あるいは岐阜市内を通過してから果たして適当なレストランがあるかが分からない.ならば,一旦中山道から外れて,岐阜駅の方へ行って見ようかということになる.多分,駅周辺ならば食べるところがあるだろうという読みである.
地図を頼りに中山道から北の方向にある加納天満宮を目指す.
<加納天満宮の参道に沿って北へ向かう>
■加納天満宮
11時04分,加納天満宮に到着する.立派なお社が見えている.鳥居の前で左折,さらに境内に沿って住宅地の中の狭い道を北北西に向かう.
<加納天満宮>
■久運寺
加納天満宮の境内に沿って歩く.進行方向左手に曹洞宗久運寺の本堂が見えている.目に付く社寺を全部拝観していてはきりがなくなるので,ここは参道入口からのぞき見するだけで立ち去る.
<久運寺>
<岐阜駅構内で昼食>
■立派で大きな岐阜駅
道すがらどこか適当な食堂かレストランがないかなとキョロキョロしながら歩くが,結局,見付けられないまま,11時10分にJR岐阜駅に到着する.さすがに県庁所在地.大きな駅である.こんなに大きな駅なら,多分,食堂ぐらいはあるだろうと思う.
とにかく駅に入ってみる.駅の2階には,商店街や飲食店が沢山あって,びっくりするほどの大変な賑わいである.
<岐阜駅に到着>
<大きくて活気のある駅にビックリ>
■丼物で済ませる
ここで自由昼食.沢山の飲食店が並んでいる.日本ソバ,中華何でもありである.私は,何となく中華ソバが食べたくなり,男性2人と連れたって,中華ソバ屋に入る.そして,冷たいつけ麺とやらを注文する.
ソバは冷たかったが,付け汁が温かいのに面食らった.私は日本ソバのイメージから,何となく冷たい付け汁が出てくるものとばかり思っていた.
麺は,何時も食べ慣れている中華麺とちがって,随分と太くて,うどんに近い感じがする.これも一寸した驚きである.それに,ボリュームがやけに多くて,食べても食べてもちっとも減らない感じがする.味,ボリュームともに大満足である.
こうして,2日目の午前中は終わった.
<岐阜駅中のレストランで昼食>
<加納宿の西側>
■加納宿西側・河渡宿地図
■加納宿脇本陣跡
昼食を済ませてから,11時54分,再びJR岐阜駅から歩き出す.先ほどの中山道までは往路を戻る.中山道に戻ってすぐ,12時03分に加納宿脇本陣跡を通過する.脇本陣の遺構は全くなく,案内杭が1本立っているだけである.
<加納宿脇本陣跡>
■またまた秋葉神社
12時20分,またまた秋葉神社の前を通過する.火災,火除けの神様らしく,社殿は石造りである.神社の向こうには,岐阜駅近くに聳えるビルが見えている.
<秋葉神社>
■安賀多神社
12時20分,安賀多神社に到着する.石造りの立派な鳥居の奥に小さな社殿が建っている.安賀多神社の由来は手許の資料では不明.ただ,インターネットで調べると,同名の神社が宮崎県には沢山存在するようである.
<安賀多神社>
■忠魂碑
12時33分,忠魂碑の前を通過.緑深い参道の奥に立派な忠魂碑が立っている.
<忠魂碑>
<長良川の堤防を目指して>
■鏡島郵便局
12時36分,鏡島郵便局に到着する.立派な郵便局である.
手造りの地図の上で,鏡島郵便局の位置を確認する.そして,私たちは,これから先,約1キロメートルほどのところで,長良川の堤防に突き当たる位置にいることを確かめる.
資料4(p.54)によると,この辺り一帯は鏡島というところで,かつては岐阜縮緬(ちりめん)の産地だった.
<郵便局>
■天満神社
12時44分,天満神社に到着する.
参道入口の案内板によると,この神社には天満神社,八幡神社,および秋葉神社が合祀されている.
境内には三社が並んでいる.東から順に天満宮(祭神菅原道真),中央に八幡神社(祭神応神天皇),西に秋葉神社(祭神迦具土神)である.
<天満神社>
■古い道標
郵便局から少し西へ進んだところに三叉路がある.私たちは三叉路を左折して,西南の方向に向きを変える.三叉路には古い道標が立っている.
漢字らしい文字が幾つか見えるが,何て書いてあるのか,良く分からない.多分,「本莊村ヲ経テ加??」と書いてあるようだ,ただし,「?」のところは,私にはどうしても読めない.また,手許の資料には,この道標の記述はない.
<古い道標>
■乙津寺とその周辺
三叉路の路傍に案内板が立っている.この案内板の地図を見ると,今私たちが立っている場所は分かるが,この地図に記載されている乙津寺は通らずに,乙津寺より南約200メートルの地点を南西に向かって歩くことになるようだ.
案内板の説明によると,乙津寺(おつしんじ)は,地元では鏡島弘法と呼ばれ親しまれているという.毎月弘法大師の命日(21日)には賑わうらしい.
乙津寺の近くにある小紅(おべに)の渡しは,今でも運行されていて,毎月弘法大師の命日には,多くの参拝客に利用されているという.資料4(p.54)によれば,「お紅という名前の女船頭がいた」あるいは「対岸からお嫁入りするときに花嫁が川面に顔を写して紅をなおした」が小紅渡しという名の由来だそうである.なお,渡船費は無料で月曜日は休みとのこと.
再び案内板の説明から引用する.乙津寺の近くには,戦国時代の武将,石河氏の「居城鏡島城の石碑」があるという.また,この辺りの中山道には松の並木が終戦後もあったが,残念ながら枯れてしまったようだ.
昔,この辺りに茶店があって,名物「だらり餅」が売られていたようである.
資料4(p.54)によれば,「乙津寺は日本厄除け三弘法のひとつだという.
<案内板の地図>
■神明社
13時17分,神明社の鳥居を眺めながら通過する.ここの鳥居も石造りでとても立派である.この神社の由来については,私も全く調べていない.私たちは,ちょっと会釈して,そのまま通過する.
<神明社>
■北野神社
13時21分,北野神社に到着する.ここは湊村の村社であった.
<北野神社>
■長良川堤防に到着
13時25分,私たちは,漸く長良川左岸の堤防に到着する.
堤防の階段を登る.堤防の上は舗装道路になっていて,結構,自動車の往来が多い.
長良川を渡れば,いよいよ,54次の河渡宿である.
<長良川左岸堤防に到着>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a20230565e993f9456ad03c09d28248e
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5aad89785b14df0f27842801bd5bd47e
※この記事は白内障の手術前に書き置きしたものです.
誤字,転換ミスなどは,眼が十分使えるようになってから訂正します.
※お断り
当ブログは私の道楽.
企業のブログや市販本のように十分に手間暇を掛けているわけではありません.正確さは全く保証しません.記事の内容を鵜呑みにしたり,宛にしないでください.
当ブログの記事は,仲間,親しい知人,友人に見て頂くことだけを目的としています.引用箇所の誤り,誤字,脱字,転換ミスや,内容が異なることがあります.気になる方はアクセスをご遠慮ください.
最新の画像[もっと見る]
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前