中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第2日目(1);雨の中,武佐を出発

2012年12月15日 04時35分07秒 | 中山道六十九宿

                      <宝養寺の前で雨宿り>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第2日目(1);雨の中,武佐を出発
           (五十三次洛遊会)
    2012年11月16日(金)~19日(月)

第2日目;2012年11月17日(土)

<五個莊・武佐宿地図> 



<雨の朝>

■モーニングコーヒー
 第1日目の関ヶ原古戦場めぐりと彦根城見学を終えて,私はホテルサンルート彦根に宿泊している.私と同行したI川さんも同じホテルに宿泊してる.もう一人の同行者,キンギョさんはホテルサンルート彦根と道路を挟んで反対側にある某ビジネスホテルに宿泊している.
 今朝は,武佐駅に9時55分に集合することになっている.私達3人を除く8人の方とは,武佐駅で落ち合うはずである.
 蛇足だが私と私に同行した2人にとっては,今日は中山道六十九宿第15回の旅の2日目になるが,残りの8人にとっては,今日が第1日目である.
 例により早朝4時頃目が覚める.
 何故か分からないが,夜中に寝汗で体中がベトベトになっている.気持ちが悪いので,朝から風呂に入るのは水や燃料が勿体ないなとは思いながらも,どうにも気持ち悪いので,早朝から風呂に入る.
 6時40分頃,旅に出掛ける身支度を整える.
 天気予報で,今日一日は雨の中を歩き続けることが,もう100パーセント確実である.でも,山歩きと違って,傘をさして歩けるだけ,まだマシだと思うことにしよう.
 7時から朝食である.少し早めの6時55分に2階ロビーへ降りる.
 
<今日は雨だぞ> <食堂でモーニングコーヒー>

■デラックス朝食
 7時丁度にホテル内の秘本料理店に案内され,朝食を摂る.
 私達が宿泊しているホテルは,何時も私達が利用しているビジネスホテルに比較すると,ちょっと割高のホテルである.そのため,ホテルの部屋も少々デラックスだが,朝食もバイキング方式ではなく.チャンとしたお膳である.店員が一人ひとりに配膳してくれる.
 メニューは写真の通り純和風である.この所,バイキング方式の朝食しか摂っていないので,お膳が出てくると,何となく改まった感じがしてしまう. 

<ホテルサンルート彦根の朝食>

■天気予報は完全に雨
 朝食後,一旦部屋に戻る.
 どうせ今日は雨だろうと思いながらも,もしかして天気予報が好転しているかなと淡い期待をしてテレビの天気予報を見る.
  残念ながら,西の方から強くて大きな塊の雨雲が東へ移動している.従って今日一日は間違いなく雨が降り続くようである.

 
<今日の天気予報>

<集合場所の武佐駅へ>

■彦にゃんの見送られて
 身支度を調えて,8時30分頃,2階ロビーに降りる.
 ロビーには,ご当地で有名なユルキャラ「彦にゃん」が鎮座している.その脇のテーブルに彦にゃんのマークが入ったいろいろな土産物が陳列されている.
 程なく,道を挟んで隣のビジネスホテルに宿泊していたキンギョさんが現れる.3人揃ったところで,ホテルを出て,彦根駅に向かう.

<彦にゃん>

■彦根から武佐へ
 彦根8時54分発東海道本線新快速電車に乗車する.JR東日本の電車に比較すると随分デラックスな感じがする電車である.途中の1駅で停車しただけで,いくつかの駅を通過して,9時08分に近江八幡駅に到着する.
 近江八幡駅で跨線橋を渡って,隣にある近江鉄道のホームから,近江鉄道の電車に乗り換える.
 近江鉄道は黄色い電車,2両編成である.近江八幡9時43分発の電車に乗車する.私達と前後して,今朝東京横浜地区から出発した仲間達が,次々に同じ電車に乗ってくる.
 
<彦根駅>                                <近江鉄道近江八幡駅> 

■武佐駅に到着
 電車は8時49分に武佐駅に到着する.
 この電車はワンマンカーである.東京近郊の東海道本線や横須賀線以外の電車にはほとんど乗ったことのない私は,ワンマンカー方式に少々戸惑いを感じるが,無事,下車する.
 駅周辺には私達以外誰も居ない.

<武佐駅に到着>

<武佐宿から西南西へ>

■若宮神社
 武佐駅前でリーダーのI川さんの挨拶を拝聴した後,すぐに中山道六十九宿歩き第14回の続きを歩き出す.
 まずは駅の側の踏切を渡る.天気予報通りに本格的な雨が降り続いている.別に寒いわけではないが,何とも憂鬱な気分である.
 10時05分,若宮神社に到着する.
 神社の前は公園風の広場になっている. 

<若宮神社>

■伊庭貞剛邸
 若宮神社手前の広場は,伊庭(いば)貞剛邸の跡地だという.傍らに立っている案内板によると,伊庭氏は近江守護佐々木氏の流れを汲む名家である.中山道沿いにあった邸宅は近年解体された,上の写真の真ん中に生えている巨木の幹から,この邸宅の豪華さが偲ばれる.
 資料5によれば,「
伊庭 貞剛(いば ていごう,1847年(弘化4年) -1926年(大正15年)は,第2代住友総理事である.明治時代の実業家.「別子銅山中興の祖」といわれ,明治時代に「東の足尾,西の別子」と言われた.住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたり,環境復元にも心血を注ぎ,企業の社会的責任の先駆者と言われている.近江源氏佐々木氏支流で伊庭氏一族である」.

<伊庭貞剛邸跡>

■明浄寺
 10時06分,明浄寺入口に到着する.路地の突き当たりに本堂の屋根が見えているが,立ち寄るのは省略する.
 この寺の由来などは手許の資料では不明だが,インターネットで調べると,浄土真宗大谷派の寺院の様である.

<明浄寺入り口>

信号西宿
 10時10分,信号西宿に到着する.ここで国道8号線に合流する.
 ここから,500メートルほど,自動車の往来がうるさい国道に沿って,西南西の方向に歩き続ける.相変わらず本格的な雨が降り続いている.憂鬱.
 やがて信号六枚橋に到着する.この信号を一旦左折して,さらにその100メートルほど先で右折する.
  
<信号西宿>                                <雨の中トボトボと歩き続ける>

■住蓮坊首洗い池
 道は再び国道8号線と合流する. 
 10時24分,その合流点の直前にある住蓮坊首洗い池に到着する.井戸らしいところに囲いがしてある.
 傍らに立っている案内板の記事によると(以下は要約),「住蓮坊は鎌倉時代の僧侶.豊年房源空の弟子で美声の持ち主.安楽房とともに所々で別時念仏会を開き,僧侶の帰依を受けていた.その当時,法然上人の念仏教団は既成の教団から疎まれていた.建永元年(1206年),興福寺から法然上人を安楽とともに罪過に処すよう訴えられる.ところが後鳥羽上皇の女官が住連に帰依したことから,後鳥羽上皇の怒りを買う.これが切っ掛けとなり法然上人門下への弾圧が強まる.翌,建永2年(1207年),住蓮は処刑される.この住連の首を洗ったのがこの池である.」
 浅学の私には住蓮坊という人物については,何も知らなかったが,そんなことがあったのかと再認識しながら首洗い池を眺める.
 相変わらず雨は降り続いている.
 なお,妙蓮坊と安楽坊の墓は,手許の地図によると,ここから東南の方向に200メートルほど離れた田んぼの中にあるらしい.
 
<住蓮首洗い池>

■白鳥川を渡る
 住蓮坊首洗い池から,国道8号線を,さらに真っ直ぐ西南西に歩き続ける.
 10時33分,白鳥川に架かる千僧供橋を渡る.この辺りは馬淵村だったようである.


<白鳥川>

妙感寺
 白鳥川を渡ってすぐに妙感寺参道に到着する.
 地図で確かめると,妙感寺は,ここから白鳥川沿いに150メートルほど北にあるらしい.街道筋から離れているので参拝は省略する.
 手許にある資料類では,この寺の由来など詳しいことは分からない.


<妙感寺入口>

■馬淵八幡宮・高札場
 10時36分,馬淵八幡宮に到着する.立派な鳥居が建っている.
 資料4(p.64)には次のように紹介されている.「馬淵八幡宮の社伝によると源義家が奥州遠征の途次,応仁天皇の霊を勧請し武運長久を祈願して造営したが,織田信長の兵火によって焼失した.現在の本殿は文禄5年(1596年)に再建されたものである.」
 鳥居に向かって左側に高札場跡を示す杭が立っている.

<馬淵八幡宮と高札場跡>

■千僧供町をトボトボと南西に歩く
 馬淵八幡宮前の信号馬淵町で国葬8号線から右側の旧道に入る.途端に集落の中の閑静な道になる.相変わらず雨が降り続いている.私達は黙々と単調な道路を歩き続ける.
 ふと,何の脈絡もなく,昔,昔,見た映画の主題歌,“Just singing in the rain”を連想する.「派リーのアメリカ人」という映画だった.
 やがて集落は途絶えて,広々とした田んぼの中の道になる.地図を見るとこの辺りは千僧供町というらしい.何か謂われがありそうな地名である.
 
<千僧供町の集落を歩く>                         <やがて広々とした田んぼの中の道になる>

■宝養寺
 降りしきる雨の中,ずいぶんと長い時間,トボトボ歩きを続ける.こう長々と雨の中を,歩いていると,何となく情けない気分になってくる.
 10時50分頃,前方にようやく次の集落が見え始める.地図で確かめると見えているのは東横関町の集落である.
 10時54分,宝養寺の裏門らしい所に到着する.山門までの空間に屋根が取り付けられている.私だけでなく大多数の方々が,雨の中の行軍で嫌になっているのだろう.誰が言うともなく,この屋根の下で,成り行きの休憩を取る.
 雨のためか,気温はそれほど上がらず薄ら寒くすら感じる. 

<宝養寺裏口>

■石灯籠と横関川渡しの説明板
 10時58分,再び歩き出す.
 資料4(p.64)によると,ここ東横関村に一里塚があったとのことだが,私達には何処が一里塚跡なのか分からない.この一里塚は江戸日本橋から125里,京へは後11里である.
 11時丁度に道路は日野川の堤防に突き当たる.
 堤防の土手に安藤広重の浮世絵を紹介する案内板が立っている.この案内板の説明によると,平素旅人はこの川を舟で渡っていたが,水量が減ると2艘の舟を杭で売って止め,その上に板を渡して作った舟橋を渡っていたようである.
 明治19年(1875年)に,ようやく橋が架けられた.
 その後,中山道から国道8号線になり,昭和12年(1937年)に,中山道より上流の方に近代的な横関橋が架けられた.

<石灯籠と安藤広重の絵の説明板>

■宝養寺を見ながら堤防道を歩く
 堤防に突き当たってから堤防の上に登る.そして川の上流に向かって遡る.先ほど休憩を取った宝養寺の本堂が,すぐ左手に見えている.

<日野川の堤防を歩く>

■横関橋を渡る
 11時06分,日野川に架かる国道8号線の横関橋を渡る.車道と歩道が分離してある立派な橋である.
 それにしても,シツコイ雨はまだ降り続いている.
 橋を渡ると,いよいよ鏡の里である.

<日野川を渡る>
                                     (つづく)

[参考資料]


資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E8%B2%9E%E5%89%9B


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