クラシック 名盤探訪

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震災復興を願って、みちのくの春を行く!

2013年06月13日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 4月23日~24日
青葉城 → 陸奥国分寺跡 → 秋保温泉 → 多賀城跡 → 東北歴史博物館 → 塩竈神社
4月23日と24日の二日間、所属している史跡ガイドの会の研修旅行「震災復興を願って、みちのくの春を行く!」に参加し、とても楽しく有意義な時を過ごす。

  
仙台城(青葉山に位置することから青葉城とも呼ばれる)は、初代仙台藩主伊達政宗が慶長15年(1610)に築城し、徳川家康の江戸城に次ぐ約2万坪の大きさを誇る。
伊達氏代々の居城を示す長い歴史が刻まれた石垣と、復元された大手門の脇櫓が往時の城を偲ばせている。
本丸跡には「伊達政宗騎馬像」があり、仙台の街を見下ろしているのが印象的だし、土井晩翠の「荒城の月」の作詩を記念する碑も置かれている。

  
陸奥国分寺跡史跡、仁王門、薬師寺
陸奥国分寺は聖武天皇の詔により、鎮護国家のため全国に建てられた国分寺の一つ。
借用させていただいた説明文によると、「・・・昭和30年からの5年問の発掘調査によって、一辺が242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明かになりました。
また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられています。
いったん荒廃しますが、その後に藤原秀衡が一部を修復、文治5年(1189)に源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失、そして伊達政宗が薬師堂を中心に大規模な造営を行い、現在に至っています・・・」とある。
聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された陸奥国分尼寺は、国分寺の東600mにあるが、市街化が著しく寺域や伽藍配置などは良くわかっていない。

 
金堂跡、七重塔跡
昭和39年に実施された発掘調査では、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂跡が発見されている。
金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。

  
松尾芭蕉句碑には、奥の細道に詠われた「あやめ草足に結ん草鞋の緒」が刻まれている。
何気なく置かれている石仏、その如意輪観音像の表情がなんとも美しい。
薬師堂の東側に隣接している白山神社は、天平13年に陸奥国分寺が創建されたとき、その鎮守として建てられたといわれてる。

 
奈良の平城宮跡、九州の太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられている多賀城跡を訪れる。
説明文には「・・・陸奥国府「多賀城」が大野東人によって創建されたのは神亀元年(724)で、奈良・平安時代は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、東北地方の行政・軍事・文化の中心地でした。
多賀城に赴任した官人には、日本初の産金を進め聖武天皇に献上した百済王敬福、万葉歌人であり多賀城で没したとされる大伴家持、征夷大将軍の坂上田村麻呂、平安の宮廷文学に名を残す藤原実方、能の「融」で知られる源融など、そうそうたる名前が見られます」とある。

  
訪れた時期は桜が満開の季節で、その美しさは例えようのないものだった。
史跡内には奈良時代に建てられた2mほどの石碑、多賀城碑「壷の碑(いしぶみ)」がある。
多賀城の創健や修造についても記されているこの碑は、栃木県の那須国造碑、群馬県の多胡碑と並ぶ三古碑の一つとされている。
松尾芭蕉も訪れたという壷の碑は歌枕であり、西行も歌を残している。
「陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑 外の浜風」(山家集 西行)

  
史跡多賀城跡に隣接する東北歴史博物館では、多賀城跡や多賀城廃寺跡の伽藍配置を示す展示パネルがとても分かりやすく勉強になる。

  
有名な鹽竃桜はまだだったが、境内を鮮やかに彩っている桜が素晴らしい鹽竈神社を訪れる。
多賀城の近くの千賀ノ浦(鹽鹽浦)と呼ばれた海が見渡せる山上にある鹽竈神社は、古くから東北鎮護・陸奥国一宮として存在し、その塩釜の地は陸奥国府の港、すなわち国府津としての機能を持っていた。
塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が主祭神であり、権力者に崇められた武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)も祀られている。
塩土老翁神は人々の生存に不可欠な塩の生産方法を初めて伝えた神とされており、神武天皇や山幸彦を導いたことから、交通安全の神ともされている。

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