クラシック 名盤探訪

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一国一州の都、佐渡の史跡を巡る

2011年09月02日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 7月26日~28日
本間家能舞台 → 牛尾神社 → 根本寺 → 長谷寺 → 真禅寺 → 妙宣寺 → 国分寺 → 佐渡国分寺跡 → 下国府遺跡 → 真野宮 → 真野御陵 → 二ツ亀 → 大野亀 → 石名清水寺 → 尖閣湾 → 相川郷土博物館 → 佐渡奉行所跡 → 大安寺 → 史跡佐渡金山 → 弾誓寺 → 蓮華峯寺 → 度津神社 → 大膳神社 → 世尊寺 → 順徳上皇第一皇女の墓 → 慶宮寺

佐渡は一国一州の都と大きな表現をしたが、佐渡に行ってみるとこれが嘘では無いことがよく分かる。
漁業はもちろんだが、田んぼ、そして山もある、今は廃れてしまったが、金と言えば佐渡と無条件に答えるほど「佐渡金山」は有名だったし、とにかく一国一州として十分に成り立つ背景を持っている。
佐渡に流された都の人々がもたらした文化の名残にも素晴らしいものがある。
そんなことをつくづくと感じた佐度の旅を回想してみよう。

33の能舞台が残っているという佐渡でも、一番知られている本間家能舞台を訪れる。
佐渡本間氏は鎌倉時代初期に守護代として佐渡に入った本間能久に始まるとあり、その本間氏の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来し、武蔵横山党海老名氏の流れをくむという。
末裔の本間秀信が奈良で能楽を修めて佐渡へ戻り、享保5年(1711)に佐渡奉行所より能太夫を委嘱されて佐渡における宝生流能楽の中心的存在になったらしい。
すぐ近くの道の駅の駐車場の脇に、「羽衣」の像が置かれているのも佐渡ならではの風景に違いない。
神社というだけで、何気なしにすぐ先の牛尾神社を訪れてみると、立派な彫刻に飾られた何とも旧い雰囲気に包まれたそのたたずまいには、本当に驚かされる。
  

彫刻のことはそんない詳しくはないが、その手の込んだ精緻な造りを見ただけでも、島の匠たちの技の素晴らしさが見る者の心に伝わってくる。
能舞台も本格的な造りだし、佐渡へ来たらここは絶対に訪れて欲しい隠れた名所の一つだと思う。
 

文永8年(1271)に佐渡に流された日蓮上人は、2年半の流人生活をおくったが、当時死人の捨て場とされていた塚原の根本寺・三昧堂に入られたという。
次に訪れた長谷寺は、本当に古刹そのものという昔の雰囲気を漂わせた寺で、山門からの階段を上っただけで心が洗い流される思いがしたのは私だけではないだろう。
大和の長谷寺を模した造りと、花も5月のぼたんが有名なのも面白い。
 

説明板には佐渡に配流された世阿弥がこの寺に立ち寄って長谷観音を参詣したことが書かれている・・・しぐるるや世阿弥の越えし峠みち(山本修之助)。
こちらも佐渡に流された文覚上人の開基という真禅寺を訪ねる。
少し長くなるが、文覚上人の有名な説話を載せないわけにはいかない、「・・・彼は俗名を遠藤盛遠と言い、佐藤義清(後の西行)とともに、鳥羽天皇の皇女上西門院に仕える北面の武士でした。架裟御前と恋に落ちましたが、彼女は同僚の源渡のもとへ嫁いでしまいました。架裟と添い遂げようと思った盛遠は源渡の家に忍び込み、寝ている渡を刀で突き刺しましたが、夜具をはいで見ると、そこには血まみれの架裟が横たわっていました。夫を死なせるに忍びないと、架裟が身代わりになったのでした。愛する人を失い、また罪の深さを懺悔した盛遠は、発心し出家しました・・・」
 

新潟県内で唯一の五重塔がある妙宣寺を訪れて、まずは高さ約24mの塔を仰ぎ眺める。
後醍醐天皇の重臣・日野資朝は、鎌倉幕府転覆を計画した首謀者として佐渡のこの地に幽閉され、元弘2年(1332)に北条高時の命によって処刑されている。
有名な仇討の話が残されている、「・・・資朝を預かった本間入道は、処刑の前に一目父に会いたいと京から訪ねて来た十三歳の息子・阿新丸(くまわかまる)を丁重にもてなしたものの父との面会は許さなかった。逆恨み­した阿新は復讐心に燃えて本間入道を狙ったが果たせず、代わりにその息子を斬り逃走したという・・・」。
今回の旅で佐渡国分寺跡は一番に訪れたかったところで、まず最初に訪れた国分寺の額がかかった横長の建物をじっと見やる。
  

国の安泰を願った聖武天皇は奈良時代の天平13年(741)に、68の国ごとに国分寺を建てる様、命を発したが、そのひとつ佐渡国分寺は、743年~775年までの間に建てられたと考えられている。
敷地を見渡すと、当時の建物の礎石が残っていて、建物の配置のようすをよく示している。
 

下国府遺跡(しもこういせき)について調べてみると、「・・・この遺跡の所在地は元禄検地帳(17世紀末)に下国府の名で呼ばれていること、南に佐渡国分寺があることなどから、佐渡国府に関係する建物の一つと考えられています・・・」とある。
どの諸国でも国分寺の近くに国府が設けられるので、この遺跡の場合もまず間違いはないと思われる。
 

順徳天皇は承久の乱にあたり位を懐成親王(仲恭天皇)に譲り、父後鳥羽上皇と北条義時追討の兵を挙げたが敗れ、24歳の若さで佐渡に配流となってしまう。
在島22年、ついに帰京の願いはかなわず、46歳の時絶食して真輪寺(現在の真野宮)「阿弥陀堂」で崩御されたと伝えられている。
真野御陵は正式には順徳天皇火葬塚で、崩御の翌日に火葬され、その跡に松と桜を植え目印とした場所で、静かな緑に包まれている。
 

この日泊まったホテルは加茂湖の畔にあって、部屋から見る夕日が湖上に映えて生えて美しい。
翌日は佐渡の北端にある二ツ亀まで車を飛ばす。
海水の透明度は佐渡随一を誇ると聞いていたが、期待を裏切らないものだった。
霊験あらたかな霊水が湧き出ることで有名な石名清水寺、本堂の脇の道路沿いに清水が湧き出ていて、朝夕には多くの人々が水をもらいに來るという。
  

尖閣湾が「君の名は~佐田啓二・岸恵子」の撮影舞台であったことを、現地に行ってみて初めて知る。
海中透視船から覗く海の世界はなかなか楽しく、海中を悠々と泳ぐクロダイの群れはなかなかのものだった。
1601年の佐渡金山の開山に伴い、佐渡は幕府直轄の天領となり、相川に奉行所が置かれたが、これを復元した奉行所跡が一般公開されている。
ガイドさんの話によると、佐渡奉行所は本来の罪人を裁く業務よりも、金山の管理業務の色彩が大変強かったとのこと。
 

大安寺にある大久保長安逆修塔、逆修(ぎゃくしゅ)とは逆(あらかじ)め冥福を修(おさ)める意味とされ、生前に自分の墓や位牌を建立し、自分のために仏事を修めて死後の冥福を祈るもので、平安時代から盛んに行われたという。
長安の死後に起きた疑獄事件は悲惨なものだった。
徳川幕府の転覆を図る目的で金銀を隠し持ったとして長安の7人の男子は処刑となり、家康の命令で長安の遺体は墓から掘り返され、河原で磔にされている。
しかし、金銀を隠し持っていたのはデッチ上げであり、家康側近の文治派・本多佐渡守正信親子が武断派・大久保忠隣を葬るために仕組んだという陰謀説が有力視されている。
泊まった宿から眺める七浦海岸の荒涼とした感じが印象的だ。
 

朝一番に史跡佐渡金山を訪れ、国指定史跡の江戸時代の金採掘跡「宗太夫坑コース」を見学する。
坑道の奥では排水作業が一番大変で、佐渡に送られた無宿人のほとんどは水替人足としてこの作業に当てられたという。
弾誓寺で本尊の阿弥陀如来座像を拝観、木仏で高さは1丈5尺もあり、佐渡で随一の大きさと言われている。
  

佐渡は本当にお寺の宝庫とも言ってよい位、古刹の趣がある寺が多いが、蓮華峯寺もその一つで、境内の広さはもちろん苔むした建物は歴史の重みを十分に訪れる者に伝えてくれる。
金剛寺、室生寺とともに真言の三大聖地の一つとされるのも、たしかに頷けるし、佐渡に来たら絶対に見逃せない寺ではある。
  

全国一ノ宮めぐりを目指すものとして、絶対に見逃すことのできない佐渡一ノ宮、渡津神社を厳かな思いを持って訪れる。
お参りしたこの神社の祭神は五十猛命で、素盞嗚尊の第2子にあたり、植樹・造船の神とされるが、海に囲まれるこの島では航海の神となっている。
次に訪れた大膳神社は、妙宣寺で述べた阿新丸の逃走と島からの脱出を助けた山伏・大膳坊を祭神として祀っている。
阿新丸の父、日野資朝卿も当然ながら合祀されているのも興味深いものがある。
 

大膳神社の脇にある茅葺き屋根の能舞台は、今となってはなかなか見られない貴重な造りの建物だと思う。
佐渡へ配流となった順徳上皇は、46才で亡くなるまでの22年間を佐渡で過ごしているが、その間に何人かの御子をもうけている。
昔は早死にが多かったらしく、上皇の第一皇女、慶子もまた夭逝してしまう。
順徳上皇第一皇女の墓は、宮内庁が管轄しているだけあってとても綺麗に整備されている事に驚く。
   

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