みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

「どれだけコントロールできるかより、・・・

2010-02-09 21:49:18 | みる
どれだけ自分が受け入れられるかが大事になってきた。」(内藤礼 言・東京新聞【土曜訪問】より)

先月1月、神奈川県立近代美術館 鎌倉館まで長距離お散歩をし、内藤礼作品展を観てきました。会場2階受付横の扉をあけると、暗闇が広がり一気に日常の時間とは異なる時空に引き込まれます。衝撃を受けたのは展示ガラスケース4か所のうち2つには、わたしたち観客が靴を脱いで入り中を歩くことができること。観客がガラスショーケースの中に入ると何が起きるか、直に見ることができる作品に対して好奇心と発見に満ちた人の動きをガラスケースの外側から観ることができる。その好奇心と発見の動きが実に各人各様でまさに1回性の作品となる。そしてガラスケースの内側からは、薄明かりの中ガラスケースの作品をを鑑賞する人々の流れを見ることができる。それは観客であった自分の視点が転換される経験。面白かったです。

わたしが今まで美術館で観てきた作品に共通するものを強いてあげるとすれば
〈強烈な自己主張〉
でも今回、内藤礼展で経験したことはそれとはまったく違うものでした。
たとえば、〈微かなもの〉とか〈気配〉とか
「わたしはこんなにもこんななんです」と強く言わなくとも、気付かないものに気づくこと、かすかな声が聞こえてくること、といったような人の感覚が実はつよい生命力につながるのではないか、ここ最近、急に思い立ちフェルデンクライスのレッスンを受けたりなどして、なんとなくこの展示会に思いをからめたりしてそんな方向が好きになっている気配。

モンゴルの至宝展

2010-02-08 23:01:23 | みる
【モンゴルの至宝展】

展示経路の終わりには琴、馬頭琴とモンゴルの楽器が展示されていました。
二つの束からなる馬頭琴の弦。楽器に施された文様の美しさにもはっとさせられましたが、なんとも頼りなげに見える束弦から、ふっくらとしたあの音が出るなんて不思議です。モンゴル琴も色が落ちていたとはいえ、甲の部分に二人の人物のそれぞれのストーリーが絵にして描かれていたものが展示されていて、絵はもうほとんど判明できませんでしたが甲に絵を描くという発想が興味深かったです。
展示は紀元前からのモンゴルの歴史を辿れるようになっています。なので、展示されている数々のものが、どのように使われていたのか自分なりに生き生きとイメージ出来るくらいの歴史の知識を持っていたら、もっと観ていて楽しいだろうと思うと、モンゴルについてほとんど何も知らない自分がちょっと残念でした。知識をベースにした想像力が、展示物に再度命を吹き込むような見方が出来たらもっと楽しいでしょうね。