みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

朝、泳ぐ。

2007-05-21 22:27:04 | ぼぉっとしたり
思いの外、泳ぐと調子が良い。
週一回、日曜日くらいしかプールに行けないと思っていたけれど、昨日の日曜日は一歩も外に出ず部屋の片づけをしながらのんびり体調を整えていたので、泳がなかった。そのせいか今日は月曜日だというのに、とっても泳ぎたくなって朝一にプールに行ってしまった。やりたいことはちょっとお預けくらいのほうが良いのかな。午後からだるくなったらどうしようとか眠くなっちゃうかななどと心配だったけど、これがなかなか調子が良い。クロールも背泳ぎもきちんと習得できていないのでこの辺はちゃんと教えてもらって身につけたいという思いがあるけど、なんせ目標は「楽ちん泳ぎ」。スピードは求めない。泳いでいるのが快適であればそれで良い。楽ちん泳ぎをマスターすれば、自ずとフォームは綺麗になる(なってほしい)というのが持論なんだけど、果たしてクロールでもこれが通用するのかな、なんて疑問を追いながらまだまだ、ばっしゃ、ばっしゃしている。
水着がほしいな。

たたかいくれて夜が明けて

2007-05-19 07:13:41 | ぼぉっとしたり
頭痛に見舞われると激しい。
執拗な嘔吐と急激に襲う下痢を伴う。立っていてもムリ、座っていてもムリ、右向いてもムリ、下向いてもムリ、上向いても、左向いても、まっすぐ見てても寝てても起きててもどうにもこうにもムリな頭の置き場所にほとほと困る頭痛。吐き気に襲われるから、頭痛薬を飲んでもムダ。というようなひどいのはめったになくなったが、忘れた頃にやって来た。身体全体が目一杯不適応状態を起こしている体調のおかげで、半日、じっとしていた。嘔吐が済むと、やがて頭痛も和らぎだるさと眠気が来るので、おかげでよく眠れた。目覚めは、どうやったら身体って動くんだっけ?と思うくらい重くだるかったが、日課は待った無しなので、マッサージを受け、出かける。夜は食事会。さすがにおそるおそる胃に納めた感じ。美味しそうなメニューがいっぱいあったから、またの楽しみにしよう。
今回の体調で、緊張状態もここらがピークだったかな、という気がする。
だんだんと楽になってきた。

疲れていた。

2007-05-14 00:01:48 | ぼぉっとしたり
土曜日の朝は身体の痛みで目が覚めた。いつもの通りに日課をこなそうとするが、頭が朦朧としていた。一晩ぐっすり眠ると回復するかしら、と思ったが今朝も全身の痛みで目が覚めてしまった。身体に負荷のかかる日々ではなかったし気持ちも自覚はなかったけれど、こうして痛みが出ると、全身の筋肉が強張るほどの緊張状態が続いた一週間だったのだと改めて気づく。今日一日は一歩も外に出ないで過ごしたいが、これはマッサージを受けなければ回復の見込みはなさそうだと思ったり、費用対効果の点でもマッサージは一時しのぎに過ぎないかもと迷ったりしながら、ゆっくりと心身共に目覚めるのを待っていたら、夕方近い午後になってしまったけれど久しぶりに思い切ってプールで泳いできた。水に入った瞬間、もう20年も前にわたしに泳ぎ方を教えてくれた先生に感謝する。すうっと水と一体になれるような感覚は何年たっても、ブランクがあっても、いつも消えないでいてくれるから。
今日のプールはとても空いていてプライベートプールのような空間と静けさは精神的にはとても良さそう。筋肉の強張りをほぐすには、さて泳ぎは効き目があるのかしら?結果は明日の朝にならないとわからない。

『赤と黒』里中真智子

2007-05-12 14:27:34 | よむ
「原作は長大で、登場人物はいつも人生の道を”らせん状”に登っていく。整理するためにその”らせん”の階段をはずして、直線のはしごに置き換えて描いた。」(里中真智子)
世界文化社から「マンガ世界の文学」がシリーズで出ている。その第1巻が里中真智子さんが描く『赤と黒』。大人になってからの里中さんは、ジュリアンの心の動きを「けっこう”かわいい”」と思ったのだそう。この一言で、わたしなどは「うわっ!さすがだな。」とわが身の未成熟さを思い知る。

映画『カポーティ』

2007-05-07 22:53:37 | よむ
正規分布をなしてきれいな山形を描く知能指数曲線は左右両方に裾野が広がる。その両裾野をある分野ではアブノーマルと位置づけることがあるという。
『カポーティ』を観ながら、この曲線が浮かんでいた。
社交界でのカポーティの言動はうんざりするくらい見事に世俗に調和している。人々の好奇心を惹きつけ満たす過剰なおしゃべり。反面、個的な関係においてのカポーティは奇妙な印象を受ける声音で、変化の乏しい表情で、初対面の相手にもするりと自ら衣服を脱ぐように自分を語る、少ない言葉で。それは一見、清らかな無知と見紛うほどの無垢を感じさせる。カポーティの相反するように見える二つの顔は、他者の気持ちを掴み取る飛び抜けた才能において共通している。他人が無意識に求めているものを鋭敏に感知し、それを的確に差し出せる才能。そのような才能が、恐怖しかないような場所に投げ出されたあまりに孤独な魂と出会ってしまったら?

映画『マーラー』

2007-05-04 03:07:28 | みる
納まりきらない得体の知れなさ、をマーラーの演奏を聴くと感じる。この音が、果たして、人間の持ち得る神経から生み出されることが可能なのだろうかと不思議になる。破綻しつつ統合されていくような特異な心地良さをつくり出したグスタフ・マーラーという人はどのような生涯を送ったのだろう。世に広く名を知られた人への関心と好奇心がある以上、作品とその作者のエピソードとが安易に結び付けられるようなある種のずさんさの上に評伝は成立せざる得ないと思いながらも、評伝本を数冊と映画『マーラー』を借りてきた。

監督ケン・ラッセル、決して軽やかな映像ではないのに、マーラーという人物像を借りて、作り手が映像表現を楽しんでいるのが伝わってくる楽しめる映画だった。芸術家としての繊細さはそれを支える妻に対してはいかに自己中心的な無神経さとして現れるか、といった芸術家映画にはありがちの少々陳腐さを感じる演出が多いものの、自己を表現することに尋常ならざる執念を持つ芸術家とその傍にいては自己を抑圧することから逃れられない苦悩を持つ妻の関係性が深くもなく浅くもなく描かれているところが一つの見どころ。でも、やっぱりこの映画はマーラーという、アルマというキャラクターを使った大いなる遊び、として見るのが楽しい。