文や写真のブログ

思いつくまま書いた文やローカルな写真を載せています。

思い出ランキング

2023年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

人は死ぬ前、印象に残った思い出が走馬灯の様に現れるそうです。
痴呆になってボケていたら何も現れずに死んでいくでしょう。
ボケかけなら、このブログを読んで少しは思い出すかもしれません。
その日のために、私の個人的思い出ランキングを書くことにしました。
ただし親兄弟妻子供など近親者の思い出ははぶきました。
「感動した思い出」
1、1978年12月タンザニアのキリマンジャロに登頂しました。すぐ日本に帰りたかったのですが、航空運賃を安くするため、タンザニアでサファリが目的のグループと出国便と帰国便を同じになっていました。
キリマンジェロ登山には10人ほど、タンザニアサファリにも10人ほどしか応募がなかったのです。会わせて20人にすると航空運賃が安くなったのです。
登山は1週間で終わったのですが、サファリはまだ続いていたのです。
登山グループはやむなく帰国便まで時間つぶしでサファリをすることになったのです。
登山を終えた次の日セレンゲッティ国立公園に天井に穴の開いたサファリカーで向かいました。
荒れた道を70km/h以上のスピードで大きな砂塵をまき散らしながら走りました。
前も後ろも右も左も1面の草原が地平線まで続き地球が丸いことを実感しました。
夕焼けになり、空も草原も全てが赤く染まった時、右の地平線から左の地平線まで何万頭のヌ~が列を作り大移動をしていました。
サファリカーはスピードを下げずにヌ~の大移動に突込みましたがヌ~は走るのを止め立ち止まり、サファリカーをやり過ごしてから走り始めました。
2、次の日サファリに参加しました。地元ガイドの運転手は群れから離れた1頭のヌ~に近ずきエンジンを止めたのです。
訳も分からず5分程するとヌ~が子供を産んだのです。
母親ヌ~が胎盤を食べて子供のヌ~が現れると子供のヌ~は必死に立ち上がろうとするのです。
何度も転んで10分程でやっと立ち上がると、親子のヌ~が並んで群れに帰って行きました。
人間なら歩けるようになるまでに1年はかかるのに、ヌ~の子供は10分で歩けないと肉食動物に食われるのです。
3、サファリに参加して分かった事は町の動物園の動物と違い、草食動物も肉食動物もビロードの様につやがあり光り輝いているのです。
人間でいうと20代までしか生き残っていない様です。
草食動物が30代になって少しスピードが落ちると肉食動物に追いつかれ食べられます。
肉食動物が30代になって少しスピードが落ちると草食動物に追いつけず餓死します。
セレンゲッティ国立公園には町の動物園と違い、ビロードの様につやがあり光り輝いた若い動物しかいないのです。
「怖かった思い出」
1、8月マッターホルンに登る為成田空港に集まると現地の情報ではマッターホルンに雪が降り岸壁が凍り付き、固定ザイルも氷の中に閉じ込められたので1週間は登れないとのことでした。
パリ経由でジュネーヴへ行くので、私一人パリで降りて観光してからツェルマットに行くことにしました。
登山のトレーニングの為に、ルーブル美術館も凱旋門もノートルダム寺院もエッフェル塔もその他の観光地も徒歩で移動しました。
パリ最終日は経費削減のためリヨン駅近くの飲み屋街にある星なしの安ホテルに泊まりました。
次の日の朝はツェルマットまでの移動なので暗いうちにホテルを出ました。
私が見たことのある日本のドブネズミの5倍はある特大ネズミが何百匹も飲み屋街の残飯を漁っていたのです。
私は素足にビーチサンダルを履いていたので何十匹の特大ネズミが素足に食いつき殺されるかと思いました。
2、タンザニアからインドのニューデリーに飛行しているとアナウンスで間もなく着陸するので着席しシートベルトを締める様にとの指示でした。
私の座席は前方の通路側の席でした。
いきなり操縦室のドアが開き、機長と副操縦士と機関士が飛び出してきて私の座席の真横のじゅうたんを無理やりはがし、隠された小さな戸を開けて、1人ずつ順番に3人とも床下に降りていきました。
操縦室のドアは空きっぱなしで、飛行機の揺れで空いたり閉まったりしていて、乗客の誰でも操縦出来る状態でした。
床下の3人は手動で前輪を出そうとしている様でした。
しばらくして笑顔はなく悲壮な顔の3人が戻ってきて操縦室に消えました。
着陸するとのアナウンスの後、燃料を減らすためかニューデリー空港の周りを3時間も飛び続けました。
私は隣の山男にどうも前輪は出ず胴体着陸で大炎上で終わるかもね、と言うと隣の山男はキリマンジャロに登った後で良かった、登る前に飛行機が落ちてたら最悪だ。
日本に帰っても今までと変わらず、日々の生活が続くのも嫌なので、いい死に時かもと言うのです。
私は車輪の出ないぼろ飛行機に怒って、この飛行機は空飛ぶ棺桶だと言いました。
隣の山男はいい表現だと褒めてくれました。
3、フランスのモンブラン登山の基地にあたるシャモニーでパラグライダーをしていました。
離陸地点でパラグライダーを広げていると、頭上に雲がかかり雨が降ってきました。
雨が降るなら上昇気流はなくなっていると判断し飛びました。
ところが飛んだとたんに高度計は機体の上昇を示すけたたましい上昇アラーム音を鳴らしました。
積乱雲に吸い込まれると雲の中は台風の様な暴風雨でパラグライダーのラインが絡まって墜落したり、キャノピーの中に人間が入って茶巾寿司の様になって墜落したり、人間が核となり凍り付き人間を中心に2m四方の氷となり墜落したりします。
アラーム音を聞いてすぐにキャノピーの翼端を潰しキャノピーの面積を小さくしました。
上昇アラーム音は消えましたが、目の前にロープウェイのロープが近づいており体重移動で右にまわりました。
ロープウェイは左の低地から右の高地に張られていたので右の高いロープの下
と右の崖の横をギリギリすり抜けられたのです。
「驚いた思い出」
1、シャモニーのホテルでフランス語は全く理解できないのに何となくテレビをつけました。
夜の8時からのゴールデンタイムなのに、日本映画の「利休と織部」が放映されていました。
音声は日本語のままで、画面下にフランス語のテロップが書かれてました。
利休が豊臣秀吉に切腹されたのは知っていましたが、織部が徳川家康に切腹させられたのは知りませんでした。
フランスでこの事実を知るとは思いませんでした。
2、スイスのホテルでテレビをつけると、小泉純一郎首相が出て日本語で追悼の言葉を使っていました。
何事かとテレビを見続けると、アメリカのツインタワーに航空機がテロ攻撃したことが解りました。
スイスのテレビはテロ攻撃についてよりも、タワー崩壊の土木建築的原因を主に解説していました。
イスラエルと一緒で国民100%が入れる核シェルターの強度を心配しての解説だと思っています。
3、シャモニーからエギュデミディを経由してイタリアのトリノで氷河スキーをしました。
レンタルスキーを借りようと素足にビーチサンダルで雪の上を歩いていると、レンタルスキー店のイタリア人にお前はべトコンかと言われました。
南ベトナム民族解放戦線はジャングルの中、サンダル履きでアメリカ軍と戦い勝利しました。
イタリア人にとってサンダル履きは強い戦士と同意語であり憧れと思われます。
レンタルスキーは欧米製ではなく、憧れのベトナムと同じアジアの国の日本製で、全て長野県飯山市のスワロースキーでした。
4シャモニーのホテルで寝ようとしたが豪雨がうるさく寝つけずにいると、いきなり花火が鳴り響き、自動車のクラクションは鳴り響き、雨の中人々は道にあふれて大騒ぎになりました。
サッカーワールドカップでフランスが優勝したそうです。
次の日ジダンの髪形を真似た、丸刈りの子供や大人が沢山いました。
5、タンザニアの町で公営大型バスに乗っていると、マサイ族が乗ってきました。
腰には剣をぶら下げ、手には槍を持っていました。
乗客の誰一人として文句を言う人はいませんでした。
文句を言えば間違いなく槍で刺され、剣で斬られると思ったからです。

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る