「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

ザッツ・エンターテイメント!―《天地明察》、『天地明察』

2012年10月05日 | Arts
☆《天地明察》(滝田洋二郎・監督、角川映画/松竹・共同配給)、『天地明察』(冲方丁・著、角川文庫)☆

  去る5月21日の朝、多くの人たちが一目金環日食を見ようと天を仰いだ。この日この時刻に、ひょっとしたら金環日食は起こらないのではないか、と思った人はまずいなかったはずである。もちろん予報どおりに日食ははじまり、通勤の途中に足を止めて、日食グラスを片手にいっせいに太陽の方角を見る多くの男女の姿がニュースで報じられていた。日本国内で見られる次の金環食は2030年6月6日で、北海道で見ることができるという。その予報を受けて、いまから北海道旅行を計画している日食ファンもいるのではないかと思う。それくらい、われわれは暦というものに信頼をおいている。
  暦に従っているように見えるのは、なにも稀有な天体ショーだけではない。今年の秋分はめずらしく9月22日(※)だったが、これも為政者かだれかが勝手に決めているのではなく、天体の運行をもとにした暦によって決められているのである。しかし、実は秋分は2日前に終わっていた、などと突然いわれたらどうだろうか。墓参りや秋分にちなんだ行事は意味をなさなくなり、それよりも何よりも、われわれを支えている大きな何かが揺らいでいるように思えて、少なからず不安をおぼえるのではないだろうか。われわれは知らず知らずのうちに、暦は不動なものとして受け入れているように思える。
  暦をつくる上で基礎となる学問を暦法や暦学という。暦法や暦学は、天文現象に規則性を見出し、それをもとにして将来を予測することに存在意義がある。たとえば日食や月食を正確に予測できる暦が求められることになるが、どんな暦も天文現象を正確に予測することは不可能であり、暦はつねに改良や修正(たとえば閏年)が必要とされる。暦は進歩しているともいえるが、改暦の必要性もまたそこに生じる。さらに、改暦は権力の正統性を示す証とされるなど、時の政治体制とも密接に関連するため、たんなる自然現象の解釈を超えたものとなる。
  江戸時代前期、中国から導入され、すでに800年も使われてきた宣明暦はズレが目立ちはじめ、実際の冬至よりも暦の上の冬至が二日も遅れるまでになっていた。クルマで北へ走っているつもりが、何百キロ何千キロも走っているうちに方角が大きくずれてしまうようなものである(中山茂『日本の天文学』でも似たような説明がなされていた)。そのズレに気づき改暦を行ったのが『天地明察』の主人公・渋川春海(安井算哲)である。
  改暦の必要性に気づいていたのは渋川春海だけではなかったようだが、彼にはいくつかの強みがあった。改暦を考えるには数理の術にたけていなければならないが、この点では明らかに関孝和のほうがすぐれていた。しかし、孝和は机上の学者であったのに対して、春海は実地に観測を行っていた。現在からみれば観測の精度は相当劣っていたと思われるが、実地による観測は大きな説得力をもつ。春海はまた、安井算哲の名で碁打ちとして徳川幕府に仕える身であった。碁をつうじて幕閣の要人たち―たとえば保科正之や徳川光圀など―とも親交を結び、そのことが新たな貞亨暦へと改暦を断行する上で大きな力となったのは疑いない。この二つが『天地明察』を楽しむうえで大きなキモではないかと思う。
  今年は天文現象の当たり年だったので、その流れで映画もかなりの客を集めているのではないかと思う。天文ファンも天文現象や天文学者としての渋川春海がどのように描かれているのか、興味をもってスクリーンを注視したのではないだろうか。個人的には、北斗七星が何度も出てくるが、その七つ星の光度がみな同じに見るのが気になった。実際は見てみるとすぐにわかるのだが、真ん中の4番目のδ星だけが3等星(他はすべて2等星)なので、やや暗く見えるはずである。春海の妻えんが見ていた望遠鏡は、ちょっとちがうのではないか、という指摘もある。しかし、観客それぞれが注意を向けるところはちがうはずで、碁の好きな人は画面に出てくる棋譜が気になるだろうし、和算に興味をもつ人ならば算額の問題に注目するかもしれない。
  人それぞれ突っ込みどころはちがってよいと思う。しかし、その反面、あまり細かなことばかり突っ込んでいると、この映画のおもしろみが半減するようにも思える。原作の小説もまた然りである。『江戸の天文学者 星空を翔ける』(中村士・著、技術評論社)や『日本の天文学』(中山茂・著、岩波新書)を併せて読んでみると、もちろん史実を無視しているわけではないだろうが、フィクションとして膨らませた部分も多いような気がしてくる。だからといって、作品自体の価値が下がったとはまったく思わない。史実をどのように料理し、読者の目を引きつけるかは、それこそ作家の腕の見せ所である。
  映画のほうは、この原作をうまくデフォルメして、とてもわかりやすく見せてくれている。原作を読んだ人からすれば、やや物足りなく思ったり、たとえば算哲の初婚が省略されているところが気になったりするかもしれない。逆からいえば、原作についていけなかった人でも、映画は映画として独立して楽しむことができると思う。刀がうまくさせず困惑している算哲や、北極出地の歩測の様子などは、映画ならではの笑いを誘うシーンだろう。
  配役についていえば、松本幸四郎演じる保科正之は当たり前すぎておもしろみに欠けるが、中井貴一演じる若き日(?)の徳川光圀は悪くない。光圀といえば旅姿の黄門様ばかりが思い浮かぶからか、新しもの好きで骨太な光圀自体が新鮮に感じるのかもしれない。横山裕演じる本因坊道策は不思議な存在感があって印象に残った。関孝和といえば学者然とした線の細いイメージだったが、市川亀治郎(現・猿之助)の力強い孝和像は新たなイメージとなるかもしれない。主役の岡田准一はカッコ良すぎて突っ込むのも気が引ける。そして何といっても、妻えんを演じる宮崎あおいは健気で可愛かった。とくにファンでもない者がそう思うのだから、宮崎あおいファンは必見だろう。原作のえんはもっと気の強いところが出ていたので、映画でもその部分をもう少し強調してもよかったのではと思う。
  『天地明察』は、小説も映画もともに、一にも二にもエンターテイメントである。そう割り切って見れば、とてもよくできた作品であるとわかる。星にロマンを感じる碁打ちの若い男が、生涯をかけて改暦という大事業に挑む。他の暦との公開勝負は、われわれの生ぬるい日常に、いっとき生気を取り戻してくれる。そこに恋の行方や様々な人間関係が絡み、読む者や見る者をあきさせない。さらに、天文や暦法という知的な道具立ても興味をかきたてる。さまざまな要素が最後には一つに集約されて、大団円を迎える。明るい気持ちで映画館を出られること、ああ~おもしろかったと本を閉じられること、請け合いである。
  その後、春海と妻えんは同じ日に亡くなったと、映画にも小説にも出てくる。これは史実(何らかの記録が残っていること)なのだろうか。それとも創作だろうか。できすぎだろうと思う人もいるだろうし、いやいや、あの二人ならばさもありなんと思うかもしれない。真実はどっちなのだろうかと、そんなことも考えさせてくれるところが、これまたザッツ・エンターテイメントである!

(※)『天文年鑑2012』によれば、秋分が「9月23日以外の日になるのは、1979年9月24日以来33年ぶりのことである。実は地球の運動は複雑で1年=365日とは簡単にいかない。秋分の日が変化するのは4年毎の閏年の調整(1年6時間弱)が原因だが、わずかな補正分(4年で45分)が過多になって今後は4年ごとに9月22日が続き、しだいに22日になる年が増えていく」(p.37)という。

  

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