しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 ピリピ2章 <ご自分を無にして>

2017-02-11 | ピリピ

網走監獄「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7a)

罪の本質は高ぶりで、その源(みなもと)はもと天使長だったといわれるサタンである。「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、・・・いと高き方のようになろう。』」(イザヤ14:13,14同)▼彼は被造物なのに自分を神と等しくし、神に仕えるどころか、神と人に「自分に仕えよ」と要求している。▼イエス・キリストは受肉されたとき、完全にその逆を行かれた。ご自分の存在を無にし、仕える人として十字架にまで行かれた、いわばサタンの生き方を破壊し、人の心に巣食う高ぶりという生命を根絶やしにされたのである。キリストが罪なきお方ということは、その本質が全き謙遜から成ることを意味する。罪とは限りない高ぶりだからだ。▼恐ろしいことに、サタンは被造物であるにもかかわらず、神の上に出ようとした。有限な者が無限者の上に行こうとした。そこに底知れぬ罪深さがある。それを打ち消すかのように、神の子は無限の謙遜をもって人の心を満たされ、私たちを罪の力と性質から解放してくださったのだ。 

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18同)とあるように、聖書は旧約も新約も、謙遜の必要と高ぶりへの警戒に満ちている。なぜここまでそれを強調しなければならないのかといえば、謙遜こそ主イエスの本質であり、高ぶりは悪魔の本質、罪の生命だからである。▼生まれながらにして罪の支配下にある私たちは、自分の力で全き謙遜を持つことはできない。私たちの傲慢のため十字架に砕かれ、御父に従順であられた主を心に迎えることによって、はじめて謙遜が生命として宿る。すなわち神と人への従順が心からの喜びとなり、高ぶりに対し、この上ない嫌悪感を抱く者へと変えられるのである。▼ピリピ書は、人となられた神、イエス・キリストから燦然(さんぜん)と輝き出している従順と謙遜の栄光を驚嘆のまなざしで見つめ、おどろき、ほめたたえている一囚人の記した書にほかならない。彼はこの世でもっとも劣悪な獄という空間に閉じ込められ、鎖につながれながら、天の喜びにあふれている人物だ。その彼が私たちに語りかけている、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(ピリピ2:5文語)と。