しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇64篇 <恩寵無限>

2017-02-20 | 詩篇

紅シクラメン「彼らは不正をたくらみ、『たくらんだ策略がうまくいった』と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。」(詩篇64:6新改訳)

サウル王をはじめ、多くの人からねらわれ、裏切られて来たダビデは、心の中に潜む人間の邪悪性をいやというほど知らされた。一方、生涯にわたり迫害された預言者エレミヤも、「心は萬物よりも偽るものにしてはなはだ悪し」(エレミヤ17:9文語)と慨嘆しているが、ダビデはこれを自分の内にひそむ原罪として捕らえ、意識した点で、おそらく旧約聖書ただひとりの人物であろう。▼イスラエル王として選ばれながら、人妻を盗み、子を産ませ、嘘を隠すためその夫を謀殺した彼は、自他ともに認める最悪の人間とのレッテルを貼られた。そのとき彼は自分の内に存在する普遍的邪悪性、原罪の存在に目が開かれた。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5同)▼これを御霊により共有した新約の人物がパウロである。「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:17~24同)▼神のひとり子イエスは、この原罪・腐敗性を罪なき身に負い、十字架に持ち行き、自らの死をもって死に至らせ、信じる者を解き放ってくださったのである。パウロが涙にくれながら、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25同)と告白したのは当然であろう。▼旧約の聖徒ダビデがどこまでイエス・キリストのあがないの深さを予見していたかは軽々に判断できない。が、「人の内側のものと心とは、深いものです」と歌ったとき、原罪を意識した彼は、詩篇22篇も作り、歌った。そして主は十字架上でこの第1節を叫ばれたのである。▼私たちがキリスト者として、また自己の問題として「原罪」を突きつけられるとき、この世界に満ちているものはただ「神の恩寵」だけであることを悟る。天にも地にも地の下にも、満ちているものは恩寵であり、それ以外ではない。聖化にあずかるとは、その海中に没している自分を発見することなのである。「わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16口語)