流浪オヤジの探検日記

KOBEを拠点に各種イベントや名所・旧跡を見て歩き、紹介していきます。

旧海軍航空隊宮崎基地跡地

2023-12-31 | 史跡・旧跡
宮崎県宮崎市の赤江地域に旧海軍航空隊宮崎基地に関する戦争遺構があります。

当地は昭和18年(1943)12月1日に海軍航空隊の練習基地として開隊しました。
通称『赤江飛行場』と呼ばれました。

各名称については、宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会のホームページから引用しています。
同会は、当地に建立された「鎮魂の碑」の奉賛と英霊の顕彰を目的に発足した会です。
詳しくは、こちらへ。


宮崎特攻基地慰霊碑「鎮魂の碑」(昭和58年建立)
宮崎基地からの特攻隊及び宮崎県出身の同基地以外から発進した英霊が合祀されています。


「旧海軍航空隊宮崎基地営門(西門)の門柱」
赤江飛行場は宮崎海軍航空隊(宮崎基地)として、南九州における本土防衛の基地でした。
同基地は海軍航空隊神風特別攻撃隊の他、陸軍特攻機も所在していました。


「掩体壕(小型機用)」
掩体壕とは敵からの爆撃、砲撃及び銃撃などの攻撃から、装備品(航空機や車両)、物資及び人員を守るために作られた施設です。


「対空機銃弾薬庫」
当地において、海軍航空隊九州防空第二大隊第一中隊の「第二群機銃砲台」と呼ばれる対空機銃陣地が設置されていました。
弾薬庫には、機関銃で使用される弾薬と弾倉が保管されていました。

今に残る戦争遺構を巡り、史実を学ぶ事ができました。
ありがとうございました。
゚・:,。★\(^^ )♪ありがと♪( ^^)ノ★,。・:・゚


<最寄駅>

JR九州「田吉駅」(日南線、宮崎空港線/宮崎県宮崎市大字田吉)


「国鉄キハ40系気動車」(キハ47)【南宮崎行き】
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神戸製鋼所発祥の地

2022-06-03 | 史跡・旧跡
神戸市中央区脇浜町に神鋼記念病院が所在しています。

同院は、大正4年(1915年)に株式会社神戸製鋼所の医療所として開設
その後、平成10年(1998年)に神戸製鋼所から独立し、医療法人社団神鋼会を設立し民間病院として運営されています。


同病院の所在地は、「神戸製鋼所発祥の地」です。
病院入口に黒御影石の碑があります。

神戸製鋼所は、素材部門・機械部門・電力部門を3本柱とする複合経営が特徴である鉄鋼メーカーです。
明治38年(1905年)09月01日、合名会社鈴木商店が小林清一郎経営の小林製鋼所を買収し、神戸製鋼所として創業。
明治44年(1911年)06月28日、鈴木商店から独立。鈴木商店全額出資により『株式会社神戸製鋼所』として発足。
現在は、神戸市中央区脇浜海岸通に本社(本店)を置く日本の大手鉄鋼メーカーです。
本石碑は、平成17年(2005年) に神戸製鋼所の創立100周年を迎えたことを記念して建立されました。

本石碑を通じて、神戸製鋼所について知ることが出来ました。
県内のみならず、日本の鉄鋼を支えてきた企業でした。
ありがとうございました。
ヾ(●´□`●)ノ【゚+。・oアリガトウo・。+゚】ヾ(○´■`○)ノ"
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岩脇蒸気機関車避難壕

2022-04-10 | 史跡・旧跡
滋賀県米原市岩脇に「岩脇蒸気機関車避難壕」があります。


岩脇(いをぎ)蒸気機関車避難壕は、JR西日本・米原駅から徒歩約30分の位置にある岩脇山(いをぎやま)の麓に戦争遺跡としてあります。
平成29年(2017年)、滋賀県下で始めて戦争遺跡として米原市の指定文化財に登録されています。


同避難壕は、先の大戦末期において、蒸気機関車を空爆から守るために2本のトンネルが建設されました。
しかし、終戦とともに工事は中止となり、線路等も敷設されず未完成で終わりました。


「左側(南側入口)トンネル」


中央部を残して貫通していません。


「右側(南側入口)トンネル」


此方側は、貫通(長さ約130メートル)しています。


当地の南側には、JR西日本・東海道本線が見えます。
建設当時の運輸省鉄道総局は、蒸気機関車の防護及び人員・物資の輸送確保ために同線から引き込む計画だったようです。


岩脇山(いをぎやま)の北側へ移動しました。


見学可能となるよう足元に板が敷かれています。


トンネルとして貫通していますが、蒸気機関車を入庫させるだけの大きさには完成されていません。


未貫通側のトンネルです。


内部は地下水等が滞留しており、入口で見る事しかできませんでした。


岩脇山(いをぎやま)の頂上へ移動しました。


頂上からは、日本最大の面積と貯水量を持つ湖である「琵琶湖」が一望できました。
東海道新幹線も見えます。


訪問当日、頂上にある桜は満開でした。

実際の役目を果たすことなく終わった避難壕でしたが、史実を風化させないために整備されたとの事。
私は以前に同市にて所在する風洞技術センターを訪れた際に知り、今回訪れる機会を得ました。

この様な戦争遺跡を知ることができた事に感謝します。
ありがとうございました。
゚・:,。★\(^-^ )♪ありがと♪( ^-^)/★,。・
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豊郷小学校旧校舎群 「酬徳記念館」

2022-01-27 | 史跡・旧跡
滋賀県犬上郡豊郷町に「豊郷小学校旧校舎群」があります。

豊郷町は、滋賀県東部(湖東地方)に位置する犬上郡の町です。
当地は、豊郷町立豊郷小学校の旧校舎です。

旧校舎群には校舎及び講堂の他に、図書館であった「酬徳(しゅうとく)記念館」があります。
同館は校舎の北側前方に南面して建ち、校舎とは渡り廊下で接続しています。


胸像「古川鉄治郎」
昭和12年(1937年)、同校出身で丸紅・専務取締役であった古川鉄治郎氏が私財を寄付し建設されました。
同氏には『国運の進展は国民教育の振興にある』の考えがあったそうです。


「酬徳記念館」


館内は地元の観光案内所や休憩所があり、うさかめ!カフェ(訪問当日は営業休止中)として使われています。


「展示コーナー1階」
館内奥には、同館一番のメインとなるアニメ「けいおん!」の関連グッズが所狭しと展示されています。


係担当さんからの説明では、市場に出回ったグッズのほぼ全部が並んでいる。との事。


展示品については、有志の方々により種類毎に整然と並べられ、保護用にシートが貼られています。


アニメ『けいおん!』は、部員ゼロで廃部寸前の女子高軽音楽部において、4名の女子高生がバンドを組み、ゼロから部活動を行っていく過程が描かれている作品です。


本アニメにより、高校の部活動における軽音楽部の部員増加といった影響が現れたとのこと。


第1期となる同作品は、平成21年(2009年)4月3日から6月26日まで、TBS系列等にて本編12話及び番外編1話(全13話)が放送されました。
その後第2期が、平成22年(2010年)4月7日から9月29日まで、TBS系列にて2クールにわたり本編24話及び番外編2話(全26話)が放送されました。


「展示コーナー2階」
1階と同じく各種グッズが展示されています。


本棚にびっしりと並べられたフィギュア(立体人形)、ねんどろいど(手のひらサイズのデフォルメキャラ)等々


中古ショップでも殆ど見なくなったグッズが多数展示されているそうです。


登場人物パネル(左側から)
平沢  憂(ひらさわ うい) /愛称:うい/主人公の妹
鈴木  純(すずき じゅん) /愛称:じゅんちゃん/憂と同じ中学出身の友達
秋山  澪(あきやま みお) /ベース、ボーカル、メインコーラス、作詞/愛称:みお(ちゃん)
琴吹  紬(ことぶき つむぎ)/キーボード、サブボーカル、コーラス、作曲/愛称:ムギ(ちゃん)
平沢  唯(ひらさわ ゆい) /リードギター、メインボーカル、コーラス、作詞/愛称:ゆい(ちゃん)/本作品の主人公
田井中 律(たいなか りつ) /ドラムス、サブコーラス/軽音楽部の部長/愛称:りっちゃん
中野  梓(なかの あずさ) /リズムギター、サブコーラス/愛称:あずにゃん
山中さわ子(やまなか さわこ)/音楽教師、軽音楽部顧問/愛称:さわちゃん/軽音楽部OG
真鍋  和(まなべ のどか) /生徒会長/愛称:のどか(ちゃん)/主人公の幼馴染


館内の内装は、中央を吹き抜け空間とする構成やアールデコのデザインを効果的に活用した意匠や特製の照明器具を備えた質の高い内容を有しています。


歴史ある建造物の見学ではありましたが、聖地巡礼としても堪能できました。

楽しい時間を過ごせました
豊郷町の関係者皆様、ありがとうございました。
゚・:,。★\(^^ )♪ありがと♪( ^^)ノ★,。・:・゚

この後は豊郷駅へ移動します。・・・・・・つづく(^_^v
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豊郷小学校旧校舎群

2022-01-26 | 史跡・旧跡
滋賀県犬上郡豊郷町に「豊郷小学校旧校舎群」があります。

豊郷町は、滋賀県東部(湖東地方)に位置する犬上郡の町です。
当地は、豊郷町立豊郷小学校の旧校舎です。


歴史的建造物として認知されており、旧校舎がアニメ、ドラマ、映画の舞台でも登場しています。


胸像「古川鉄治郎」
昭和12年(1937年)、同校出身で丸紅・専務取締役であった古川鉄治郎氏が私財を寄付し建設されました。
同氏には『国運の進展は国民教育の振興にある』の考えがあったそうです。


同小学校の校舎としては、2代目となります。
当時としては珍しい壮麗な鉄筋コンクリート造の校舎は、「白亜の殿堂」や「東洋一の小学校」との異名を取ったとの事。


設計はヴォーリズ建築事務所(アメリカ)、建設は竹中工務店(大阪市)が担当しました。


「展示室」
同小学校及び同校舎の歴史を紹介しています。


竣工当時の職員室(昭和12年)


現在は豊郷町の複合施設『豊郷小学校旧校舎群』としてリニューアルされ、一般公開されています。


旧校舎内は可能な限り意匠を保存する改修を行い、以前と変わらないものとしています。


「兎と亀のブロンズ像」
階段手摺にイソップ寓話『兎と亀』をモチーフとしたブロンズ装飾が設置されています。


「亀のブロンズ像」


「兎のブロンズ像」


「2階廊下」


旧校舎内は、児童生徒の交流の場として活用されています。


3階への階段です。


「会議室」


アニメ『けいおん!』(京都アニメーション制作)では、音楽準備室として登場しています。


アニメ『けいおん!』は、部員ゼロで廃部寸前の女子高軽音部において、4名の女子高生がバンドを組み、ゼロから部活動を行っていく過程が描かれている作品です。


第1期となる同作品は、平成21年(2009年)4月3日から6月26日まで、TBS系列等にて本編12話及び番外編1話(全13話)が放送されました。
その後第2期が、平成22年(2010年)4月7日から9月29日まで、TBS系列にて2クールにわたり本編24話及び番外編2話(全26話)が放送されました。


アニメ『けいおん!』では、音楽準備室が軽音部の部室として登場していました。


同作品の制作会社である京都アニメーションは、当地を参考にしたかについては否定しているようです。
同社からは、似ているとは聞いていますが・・・と認めていないそうです。


「唱歌室」


アニメ『けいおん!』では、第1音楽室として使われていました。


「講堂」


緩勾配に張られた板張りに木製の長椅子が整然と並べられています。


アニメ『けいおん!』では、本講堂での新入生歓迎会や文化祭において軽音楽部による演奏を披露しています。


軽音楽部は、その後バンド名を放課後ティータイム』(略称:HTTと命名。
その後の更なる飛躍へと繋げます。


2階席が設けられています。


高い天井と特徴である両側面に並ぶすべり出し式の高窓が復元されています。


現在の施設内には図書館、展示室、子育て支援センター等が置かれ、町民の憩いの場として提供されています。

素晴らしい歴史ある建造物でした。
見学出来た事に大感激です。
ありがとうございました。
☆゚.+゚o(>Д<。*)ノ゚+.★ァリガトォ★゚+.ヽ(*。>Д<)o゚+.゚☆

この後も旧校舎内を探索します。・・・・・・つづく(^_^v
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大谷道

2021-10-31 | 史跡・旧跡
西宮市御免町と大谷町に「まんぼうトンネル」があります。

JR神戸線の下にある狭隘な小さなトンネルを通称まんぼうと呼ばれています
西宮市には、他にも同様なトンネルが2箇所あります。
甲子園口のトンネルについては、こちらへ
安井地域のトンネルについては、こちらへ


「頌徳碑」(しょうとくひ)(昭和四年三月十八日建立)
本トンネル工事に携わった関係者の方々を顕彰する石碑のようです。
御免町側(南側抗口)に建てられています。


当初の成り立ちは、明治7年に国鉄が開業する際に線路の盛り土の下に用水路が流れるように作った施設でした。
後に利便性から人が通れるような大きさに作り変え、当地をまんぼうトンネルと呼ぶようになりました。


「大谷道」の扁額
正式名称は、『東皿池橋梁』とのこと。


内部は煉瓦調のシートで保護されています。


一部の箇所から当時の煉瓦が見えています。


大谷町側の北口抗口


国内では31箇所の現存が確認されている中で、明治7年5月11日開業において一番古い施設とのこと。
歴史ある貴重な土木構造物ですね。

お陰様で、今回で西宮市内にて現存する3箇所の「まんぼうトンネル」を訪れることが出来ました。
ありがとうございました。
ヾ(●´□`●)ノ【゚+。・oアリガトウo・。+゚】ヾ(○´■`○)ノ"
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一本松とまんぼうトンネル

2021-05-08 | 史跡・旧跡
西宮市安井地域に小説に登場する「一本松」と「まんぼうトンネル」があります。

これらは、昭和を代表する文豪・谷崎潤一郎の小説『細雪』に登場する場所です。
<谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう)(故人)>
明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た小説家です。
小説「細雪」は、神戸市東灘区に位置する旧居「倚松庵」(いしょうあん)で執筆されました。
<細雪(ささめゆき)>
谷崎潤一郎氏の長編小説です
昭和11年(1936年)秋から昭和16年(1941年)春までの大阪の旧家を舞台に、4姉妹の日常生活の悲喜こもごもを綴った作品です。
阪神間モダニズム時代の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれています。


樹名「クロマツ」
西宮市常磐町に位置する一本松は、樹高約9メートルで西宮市の保護樹木です。


根元には「史跡 往古武庫菟原郡界傳説地」の刻まれた石碑があります。
調べると、律令体制下での武庫郡と菟原郡との郡界を示す『一本松』だったという言い伝えとの事(諸説あり)


その左隣には、お地蔵様と石碑があります。


石碑には「一本松地蔵尊」と刻まれています。
上部には、出雲藩主・堀尾茂助吉晴の分銅型の家紋が入っています。
大坂城築城の際に刻まれたものであるとされています。


小説『細雪』は3度映画化され、日本映画史を代表する女優が出演しています。


「まんぼうトンネル」(西宮市平松町)


JR西日本・西宮駅(西宮市池田町)からJR神戸線沿いに西へ約1キロの位置に小さなトンネルがあります。


JR神戸線の下にある狭隘な小さなトンネルを通称まんぼうと呼ばれています。


西宮市内には、他にも同様なトンネルが2箇所あります。
先日にJR甲子園口駅近くのトンネルを訪れていますので、あと1箇所で完遂ですね。

小説の舞台となった地を訪れた事に感激しました。
ありがとうございました。
゚・:,。★\(^-^ )♪ありがと♪( ^-^)/★,。・
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「ウィルキンソン タンサン」発祥の地

2021-05-03 | 史跡・旧跡
宝塚市湯本町に炭酸水「ウィルキンソン タンサン」の歴史などを紹介する看板及び炭酸水専用の自動販売機があります。

当地は、阪急宝塚駅近くの武庫川沿いに位置するホテル若水の前に置かれています。
宝塚市の観光スポットとして、平成31年(2019年)3月17日に設置されました。


ウィルキンソン(WILKINSON)は日本の炭酸水、炭酸飲料、低アルコール飲料、ジン、ウォッカのブランドです。
現在のブランドに改めるまではジンとウォッカを除き、ウヰルキンソンと表記していました。
クリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社がウィルキンソンブランドとバヤリースブランドの商品をかつては製造していました。
現在は、炭酸水と炭酸飲料はアサヒ飲料、低アルコール飲料はアサヒビールが製造販売しています。


「ジョン・クリフォード・ウィルキンソン」(イギリス)
明治22年(1889年)、日本に定住していた同氏が狩猟の途中、兵庫県有馬郡塩瀬村生瀬(現在:兵庫県西宮市塩瀬町生瀬)にて天然の炭酸鉱泉を発見


明治23年(1890年)、兵庫県武庫郡良元村小林の紅葉谷(現在:兵庫県宝塚市紅葉谷)に工場を設けて、ボトリング事業を開始


昭和58年(1983年)、アサヒグループホールディングスが商標権を獲得し、現在は明石市の工場などで製造中


「ウィルキンソン炭酸水自動販売機」


ウィルキンソン専用の自動販売機は、500ミリリットル入りペットボトルを110円で販売していました。


石柱「天然たんさん水 この下にあり」
明治時代にあったといわれる石柱が、令和元年(2019年)11月15日に復元されています。

海外のどこかで生まれた商品だと思っていた炭酸水が日本生まれであった事を知ることが出来ました。
これからもよろしくお願いする飲み物です。
~~ヾ(●ゝω・)ノ[。*○+゜*。○ヨロシクネ♪。*○+゜*。○]


<<お土産>>

「炭酸煎餅本家 黄金家」(宝塚市湯本町)


宝塚名産「手焼き 炭酸せんべい」
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まんぼうトンネル

2021-01-30 | 史跡・旧跡
JR西日本・甲子園口駅(西宮市甲子園口)からJR神戸線沿いに西へ約300メートル歩くと小さなトンネルがあります。

JR神戸線の下にある狭隘な小さなトンネルを通称まんぼうと呼ばれています
大人は立ったまま歩く事が出来ず、途中ですれ違うことも不可能なトンネルです。
西宮市内には、他にも同様なトンネルが2箇所あるそうです。


当初の成り立ちは、明治7年に国鉄が開業する際に線路の盛り土の下に用水路が流れるように作った施設でした。
後に利便性から人が通れるような大きさに作り変え、当地をまんぼうトンネルと呼ぶようになりました。


トンネル南側の四角い部分は、大正15年の複々線工事の時にトンネルを延伸したようです。


トンネル北側の部分は半円となっており、明治29年の複線工事の際にレンガと石によって作られました。


トンネルの入口には、≪自転車は降りて通行してください≫≪原付バイク エンジン停止≫とあります。


高さ:130センチ、幅:150センチ

歴史ある貴重な土木構造物を見ることが出来ました。
ありがとうございました。
ヾ(●´□`●)ノ【゚+。・oアリガトウo・。+゚】ヾ(○´■`○)ノ"
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門司港 <周辺散策>

2020-07-29 | 史跡・旧跡
門司港(もじこう)は、福岡県北九州市門司区の門司港駅を中心とした地域です。

同港は、北九州港を構成する地区を中心とした市街地の名称です。
観光地としても有名であり、海沿いの倉庫群や歴史的建造物など古い港町の雰囲気を感じることができる地区です。
地区の名称は港としての『門司港』がある地域であることと、地区の交通拠点である『門司港駅』に由来します。


「和布刈神事」(めかりしんじ)
和布刈神事は、神功(じんぐう)皇后[4世紀後半頃の伝説的人物で仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后]が
三韓征伐[神功皇后の馬韓・弁韓・辰韓征伐の物語]からの凱旋を祝って、自ら神主となり、
早鞆の瀬戸のワカメを神前にささげたという古事に由来しています。


「バナナの叩き売り発祥の地」


平成29年(2017年)4月、『関門ノスタルジック海峡』の構成文化財の一つとして日本遺産に認定されています。


「出征軍馬の水飲み場」


満州事変勃発から第二次世界大戦にかけて、全国から多くの農耕馬が軍馬として徴発され、門司港から戦地へ運ばれました。
それらの馬が水を飲んだ場所です。
同様の水飲み場は数箇所ありましたが、現在はこの一箇所のみだそうです。


「門司港出征の碑」(平成21年3月建立)


先の大戦において、門司港から約200万人の将兵がフィリピンやビルマなど南方の戦地へと向けて出征しました。
そして半数の約100万人の将兵が生きて再び祖国の地を踏むことができなかったとされています。
遠く離れた戦線に向かった多くの将兵を偲び、恒久平和を願う不戦の誓いを込めて石碑が建立されました。


「おでんの山口」
門司港駅から徒歩2分ほどの位置にあります。


“おでん定食”をいただきました。
おでん3ケ(選択)、ご飯、お味噌汁、お漬物の定食でした。


「平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線」
九州鉄道記念館駅(福岡県北九州市門司区)から関門海峡めかり駅までを結ぶ鉄道路線です。


観光用列車として“平成筑豊鉄道DB10形ディーゼル機関車”が特定目的鉄道として運行しています。


「国鉄9600形蒸気機関車(19636号)第3動輪」(製造:大正6年11月、製造所:川崎造船所)


「旧0哩標」
明治24年に九州鉄道(当時:私設鉄道会社)が、当地に門司駅として開業した際の起点として定めた場所です。


九州鉄道網の形成の原点となった場所との事。
鉄道記念館の開館に伴い、旧0哩(ゼロマイル)標として立体的に復元されました。

門司港周辺の散策を通じて、様々な文化を知る事が出来ました。
ありがとうございました。
★あ(^-^) り(-^ ) が( ) と( ^-) う\(^0^)/★
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鈴木商店本店跡地

2020-01-26 | 史跡・旧跡
神戸市中央区栄町通7丁目に「鈴木商店本店跡地」があります。

鈴木商店は、かって存在した(登記上は存在)総合商社です。
同社は、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開し、さらに保険・海運・造船などの分野にも展開していた企業でした。


明治07年(1874年)、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が当時番頭をしていた辰巳屋ののれん分けで鈴木商店を開業
明治19年(1886年)、後に鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公として入り、順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに成長
明治27年(1894年)、鈴木岩治郎が死去、その未亡人鈴木よねは、金子直吉と柳田富士松の両番頭に委任し事業を継続


大正8年(1919年)~大正9年(1920年)の全盛時代において、売上げ16億円(当時の貨幣価値)を達成
この額は、三井物産や三菱商事を遥かに上回り、当時のスエズ運河を通過する船の1割が鈴木商店の所有といわれました。
第一次世界大戦での塹壕の土嚢には、鈴木商店のロゴ(菱形にSUZUKIの略記「SZK))の入った小麦袋が大量に使用されました。
当時において、これら資金を提供していたのは台湾銀行でした。
同銀行は、昭和20年(1945年)終戦後、連合軍総司令部により閉鎖機関に指定されて清算後、解散しました。


昭和2年(1927年)3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の『とうとう東京渡辺銀行が破綻した』との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)。
この失言により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生し、同年3月27日、台湾銀行は鈴木商店への新規融資を打ち切りを通告。
系列化していた第六十五銀行に鈴木商店を支える体力はなく資金調達が不能となり、同年4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に追い込まれます。


商標「かね辰
昭和08年(1993年)、株式会社鈴木商店及び持株会社の鈴木合名会社は、負債を完済
昭和20年(1945年)10月20日、株式会社鈴木商店は解散し、清算手続きへ入るが、現在まで清算の終了を意味する『結了』がなされていないとの事
昭和49年(1974年)10月01日、職権により登記用紙が閉鎖されているものの、登記上は両社とも現存


平成29年(2017年)7月7日、鈴木商店OB及び関係者により鈴木商店本店跡地前の公道にてモニュメントを建立
台座部分は、鈴木商店が経営していた『大里だいり製粉所』(明治44年設立)の工場建屋に使われていた煉瓦(レンガ)との事


・鈴木よね:経営には一切口出しせず、大番頭に経営全てを委ね、神戸市立女子商業学校(現在:神戸市立神港橘高等学校)の創設に尽力するなど地元神戸に貢献
 女主人として“お家さん”(おいえさん)と呼ばれ、小説(作家:玉岡かおる)になりました。その後、舞台化及びドラマ放映(読売テレビ開局55年記念)されました。
・金子直吉:丁稚奉公から身を起こし、『大番頭』として大正時代に三井財閥、住友財閥、三菱財閥を凌ぐ規模の企業グループへの拡大し、神戸の産業発展に貢献


大正4年(1915年)、この地にあった当時の高級ホテル『みかどホテル新館』を譲り受け、当地を本店とします。
大正7年(1918年)8月12日、マスコミの誤報により、本店が焼き打ちされて焼失

鈴木商店が関与した事業は、現在の神戸製鋼、帝人、双日、太陽鉱工等々の数多くの企業に継承されています。
近代日本の礎の一端を担った歴史的な価値を知ることができました。
当地における史跡の出会いに感謝します。
★あ(^-^) り(-^ ) が( ) と( ^-) う\(^0^)/★
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旧石屋川隧道跡

2020-01-19 | 史跡・旧跡
神戸市東灘区御影に「旧石屋川隧道跡」があります。

東灘区と灘区境の石屋川沿いに位置する石屋川公園に記念碑が置かれています。
平成15年(2003年)3月、西日本旅客鉄道(JR西日本)により鉄道開通(大阪-神戸)130周年を記念して建立されました。


当地は、日本で初めて開削された鉄道トンネルとして紹介されています。
隧道(ずいどう)とは、山腹や海底などの地面の下を掘って作った道です。
トンネルは日本語です。


当時の東海道本線・住吉駅-灘駅間、現在の住吉駅-六甲道駅間に存在していました。
大阪-神戸間に日本2番目の鉄道を通す際、当時の車両は勾配に弱かったことから、天井川であった芦屋川・住吉川・石屋川はトンネルを開削し、その下を通すことになりました。
その中で、最初に開削されたのが『石屋川隧道』です。
本隧道の設計はイギリスからのお雇い外国人によってなされ、水流を仮の木橋で変えていったん川を取り崩し、レンガを積みトンネルを組み立てた後、再び川を埋めなおすという開削工法がとられました。


明治03年(1870年)10月21日、着工
明治04年(1871年)07月   、竣工(完成)
明治07年(1874年)05月11日、鉄道開通に伴い供用開始
明治27年(1894年)      、輸送量の増加にあわせ同線の複線化が決定、トンネルの下半分を掘り下げ、垂直にする工法が取られました。


石碑「日本で最初の鉄道トンネル 旧石屋川隧道跡」(建立 西日本旅客鉄道株式会社 平成十五年三月吉日)
石屋川東岸土手のり面の高架線柱南側から1本目と2本目の間に立てられています。
大正08年(1919年)、複々線化に対応するための工事が行われ、トンネルは解体されて4線を越える水路橋となります。
昭和51年(1976年)、同線の高架化のため石屋川の地盤強度を高める必要から埋め立てられました。


昭和51年(1976年)10月、高架工事により線路が石屋川を跨ぐ形となります。
現在は、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(愛称:JR神戸線)の高架線路に各種車両が運行しています。

訪問時、「JR貨物EF66形電気機関車」に「国鉄DE10形ディーゼル機関車」が連結されて貨物列車が運行していました。
個人的には貴重なシーンだと思ってます。(^_^)

歴史的な史跡に巡り会えた事に感謝です。
ありがとうございました。
゚・:,。★\(^-^ )♪ありがと♪( ^-^)/★,。・
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兵庫県里程元標

2020-01-13 | 史跡・旧跡
神戸市中央区相生町に「兵庫県里程元標」があります。

当地は、元町商店街6丁目の西口前に位置する“きらら広場”の一角に位置しています。
里程元標(りていげんぴょう)とは、明治時代初期の里程調査のために定められた道路元標です。
道路元標は、道路の起終点を示す標識です。


「兵庫県里程元標 神戸市相生橋西詰」
明治6年(1873年)12月20日、明治政府は太政官達第413号により各府県ごと里程元標を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じます。
東京・日本橋、京都・三条橋の中央を国内諸街道の起程とし、大阪府と各県は府県庁所在地の交通枢要地に木標を建てて管内諸街道の起程とするものとされました。
道路元標としての役割を持つものの、元来が里程標であるため里程元標の位置から主要地点までの距離が尺貫法における里・町・間の単位で示されていました。


「明治43年(1910年)2月」
日本の道路元標が国によって定められたのは里程調査のための明治時代初期のもの、大正時代の旧・道路法施行令公布の時のものと二つの時期にわたって道路に設置されたものがあります。
正確には大正時代に設けられたものが『道路元標』と呼ばれるもので明治時代に設けられたものは『里程元標』(りていげんぴょう)と呼び、大正期の道路元標の前身となるものです。


「御影標柱へ貳里五丁九間三分」等々


「明石標柱へ四里三拾丁拾三間」等々


「里程元標について」
兵庫県里程元標は、元相生橋の西詰に位置していました。
昭和6年10月、国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取に取り除かれ保存
昭和35年5月、往時を偲ぶ縁(よすが)として、当地に移転復活


花崗岩製の石碑には、元標より各所への距離が記載されています。

人々に距離や場所を知らせる物として設置されていた歴史的な石碑を知る事ができました。
旅人には欠かせない標識だったでしょうね。
ありがとうございました。
★あ(^-^) り(-^ ) が( ) と( ^-) う\(^0^)/★
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福知山城

2019-11-08 | 史跡・旧跡
京都府福知山市字内記にある「福知山城」を訪れました。

福知山城は、明智光秀が天正7年(1579年)頃、当地に城を築いた事から始まります。
光秀は築城後、娘婿の明智秀満を城代として入れ、当地の統治を任せました。


江戸時代以降、転封や改易により城主が頻繁に代わりましたが、寛文9年(1669年)に朽木稙昌(くつきたねまさ)が常陸国土浦から入部した以降は、
明治維新に至るまで朽木氏が13代にわたり藩主を務めました。


「銅門番所」(どうもんばんしょ)


福知山市内が展望できました。(^_^)


「天守閣」
廃藩置県後の明治4年(1871年)によって廃城となり、明治6年(183年)の廃城令によって解体。
昭和57年(1982年)、当時の塩見精太郎・福知山市長が天守再建の意向を示し、再建(郷土資料館建設)期成会が発足。
寄付を募る『瓦一枚運動』などで寄付金を集め、一般寄付金、国庫補助、京都府補助等を合わせて、再建事業が行われました。
昭和60年(1985年)に小天守と続櫓が完成、昭和61年(1986年)には大天守(郷土資料館)が完成しました。
昭和61年(1986年)11月9日に竣工式を行い、11月10日に開館しました。


「福知山城石垣の転用石」
石仏、石臼、灯籠などの石像物が大量に石材として利用されました。
これらを転用席(てんようせき)と呼ばれています。


「朝暉神社」(あさひじんじゃ)
寛文9年(1669年)6月に入部した福知山初代藩主・朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことが始まり。
11代藩主・綱條(つなえだ)の際に一社を建立して朝暉神社と号しました。
廃藩により城外に移されましたが、明治14年(1881年)に町民らの要望により天守台跡に再建されました。
さらに昭和61年(1986年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。


「鉄砲石」
鉄砲の名手・牧重郎左衛門の技量を後世に伝えるため、城主・松平忠房が建てた記念碑です。
他の場所に放置されていたのを当地に移設しました。


「豊磐井」(とよいわのい)
城主・朽木稙昌の父朽木稙綱の神号『豊磐稙綱命』にちなんだ井戸です。
深さ50メートル、海面下7メートルに達しています。
高所に関わらず水深37メートルもあり、現在も満々と水をたたえているとのこと。


「福知山城天守閣復元鯱瓦」(しゃちがわら)/平成18年10月1日
高さ:150センチ、基部たて:80センチ、よこ:45センチ


復元された天守は、大天守(3層4階)、続櫓、小天守が連結された形で、近世初期の望楼型とのこと。
外観は忠実に再現されていますが、構造は鉄筋コンクリート造です。


天守閣内部は、明智(あけち)氏及び朽木(くつきた)氏の関連資料が展示されています。


明智光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。


現代に至る福知山市の市街は、光秀が築城を行い、城下町を整理したことに始まるとのこと。
当地では、『福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ』と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。


「福知山城郭模型」
市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から『臥龍城』の別名があります。


「南蛮胴具足」(複製)
明智光春所用と伝えられる東京国立博物館所蔵の南蛮胴具足を模して作成されました。


「石落とし鉄砲狭間弓狭間」


「福知山城大鬼瓦」(原寸大)


明智光秀仕様の飲料水自動販売機です。


明智光秀は悲劇的な最後を迎えましたが、福知山の民衆は光秀の業績を忘れることなく信奉し、『名君』として現在に至っています。

福知山城を通して、当地の歴史を知る事ができました。
また城下町福知山を築いた明智光秀氏の業績を再認識しました。
ありがとうございました。
☆゚.+゚o(>Д<。*)ノ゚+.★ァリガトォ★゚+.ヽ(*。>Д<)o゚+.゚☆
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尼崎城

2019-05-26 | 史跡・旧跡
尼崎市北城内にある「尼崎城」を訪れました。

尼崎城は、江戸時代初期に築城された平城です。
現在の天守は、家電量販店・旧ミドリ電化(現在:エディオン傘下)創業者である安保 詮(あぼ あきら)氏が創業の地に恩返しがしたいと考え、私財を投じて再建しました。
平成30年(2018年)11月30日、尼崎市へ完成した一連の施設を寄贈しました。


元和3年(1617年)、戸田 氏鉄(とだ うじかね)が5万石で入封し築きました。
3重の堀を持ち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられました。
城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わりました。
戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入封。
以後、桜井松平家の支配が7代と続き、最後は藩主・松平忠興で幕末を迎えました。
明治6年(1873年)の廃城令により建物は一部を除き取り壊されますが、明治7年(1874年)に本丸御殿の一部が菩提寺・深正院(市内大物町)の本堂として移築されました。
本堂は戦前まで残りますが、戦災に遭い焼失してしまいました。


大きさや外観は当時の建物を再現されていますが、築城時の跡地は既に公共施設が有るため、北西約300mずれた西三の丸跡地(尼崎城址公園)に築かれました。


元和4年(1618年)から現在の北城内、南城内の約300mメートル四方に、甲子園球場の約3.5倍に相当する3重の堀及び4層の天守を持つ城を築造しました。


当時の江戸幕府は、一国一城令により各地の城郭を破却する政策を推し進める一方で、尼崎に5万石の大名の居城としては大きすぎる城をあえて造らせたことなどから、
幕府がいかに尼崎を重要視していた事が推察されます。


明治6年(1873年)、役目を終えて廃城となます。


「天守」(地上5階)
全高(石垣を含む垂直高):24.399m、鉄筋コンクリート造、地上5階建て


「荻原一青 名城手拭百城」(4階ギャラリーゾーン)


荻原氏は、尼崎市出身の城郭画家です。


「摂州尼崎城櫓瓦」
尼崎藩主をつとめた青山家の重臣の家に伝わった尼崎城の瓦です。
青山家の家紋である葉菊紋が飾られた留蓋という瓦の部材であると推測されています。


「駕籠」(再現展示)
尼崎城での毎月の祈願に参上するために使用した登城用の駕籠


平成31年(2019年)3月29日から一般公開が始まりました。

145年ぶりに再建された尼崎城天守でした。
築城当時の尼崎藩などの歴史を知ることができました。
ありがとうございました。
ヾ(*´∪`*)oc<【。゚・+:.・ァリガトゥゴザィマシタ・.:+・゚。】ヽ(*´∪`*)ノ"
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