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登山 写真撮影等多趣味ですが最近は卓球で登山のためのトレーニングして 山岳写真撮影に励んでいます。

世界の少数民族ー5 ピグミーの巻

2011-09-17 | 民族学、考古学!?
マサイ族、サン族と来ましたので、今回はピグミーを取り上げました。
ウイキペディアから多くを引用
ピグミーは大きく分けて、大湖地域のトゥワ、コンゴ盆地の東部イトゥリの森に住むムブティ、西部のアカやバカがいる。小さなグループも多い。
国別のピグミー諸民族 国名 民族名 人口
コンゴ民主共和国
ムブティ 30,000 - 40,000
エフェ ?
トゥワ ?
ルワンダ
トゥワ ?
カメルーン
バカ ?
バギエリ
ガボン
バボンゴ ?
中央アフリカ共和国
アカ ?
コンゴ共和国
アカ ?
以上?が多く人口不明

アフリカのピグミーにはムブティの他にアカ、バベンゼレ、バカ、ビンガ、エフェ、トゥワ、ウォチュアなどがある。中央アフリカ共和国では身長に対してだけなく部族そのものについて、ピグミーではなくバヤカという呼称が好まれている。

アジアにおいて小さな体をもつ狩猟採集民であるフィリピンのアグタ族 (Agta) とバタク族 (Batak) 、マレー半島のセマン人 (Semang) 、アンダマン諸島の先住民などは現在アフリカのピグミーとは独立の存在とされている。

ピグミーの起源ピグミーは様々な民族名を持ち、それぞれ異なる言語を話す。しかしその一方でひとまとまりの存在だとみなされてきた。その理由は一つには小柄という身体的な特徴であり、もうひとつは文化的な共通性である。しかし一部の研究者は様々な根拠から異なる起源を持つ集団ではないかと異論を提出している。彼らは共通祖先の形質を継承したからではなく、熱帯雨林における狩猟採集生活という環境が自然選択として働いた結果、似たような身体に収斂したとする。もしそうだとすると、ピグミーという言葉で複数の集団をまとめることに問題点が生じることになる。

名前の由来無文字社会であるピグミーの記録は外部社会に依存する。ピグミーについての最古の記録は、古代エジプトのヒエログリフで、ペピ2世が「小人dng」の神のダンスを見たいと地方の行政官に通達したという記録がある。ピグミーという語につながる最古の記録はホメロスの叙事詩イーリアスに出てくる、鶴に殺される小人族のピュグマイオイPygmaioiで、肘尺のpygmē(肘から拳までの長さ 約35cm)に由来する。直接的には、アリストテレスが『動物誌』動物部門編においてナイル川の水源地から飛来する鶴と戦う穴居生活をする人々を記述していることから、現在アフリカでピグミーと呼ばれる人たちとピグミーという単語が結びつけられている。なおインドのネグリトとピグミーが結びつけられた経緯は、プリニウスが『博物誌』において、鶴と戦う背丈が75cmを越すことのない小人族の話がインドの先の山岳地帯とされたことによる。プリニウスはこの記述を他の様々な怪物や怪人と並べて記載しており、中世までヨーロッパ社会の中で知られていた。

ルネサンス期以降、ピグミーの実在についての論争があったが結論はでなかった。しかし17世紀以降、アフリカやアジアの情報が増えると、ピグミー実在説が強くなった。解剖学者のタイソンはチンパンジーの標本にピグミーと名付け、一方では博物学者のエドワーズはオランウータンを「森の人、もしくはピグミー」とみなしたために、 ボルネオオランウータンの学名であるPongo pygmaeusに痕跡が残っている。また博物学者のビュフォンは鳥類の博物誌において、「ピグミーは明白にサルであり、知識がなかったり、観察者が人とみなしてしまった」という記述を残している。

現在も怪物の一派としての小人やサルというイメージがピグミーという単語にはこびりついているので、人類学者のヒューレットは「森の狩猟採集者forest forager」、ケンリックは「森の民 forest people」を使って論文を書いている。しかし現代の中央アフリカの都市部でガードマンや治療者として生きているものの存在[3]や、これからの彼らの生活を考えると森と結びつけた呼称が本当に政治的に妥当な配慮となっているのかは別問題である。

言語ピグミーは多様な言語集団の集合であり、「ピグミー語族」は存在しない。彼らが使う言語は隣接する農耕民あるいは歴史的に隣接していたと考えられる農耕民の言語の方言とみなされている。コンゴ盆地東部で隣接した地域に住むムブティとエフェの場合、ムブティはニジェール・コンゴ大語族のバントゥー系の言語、エフェはナイル・サハラ大語族と隣接農耕民の言語を話している。一方でコンゴ盆地西部のアカとバカの場合近隣の住民と同じ言語を話しているわけではない。民族言語学的な歴史過程の復元によれば、アカとバカの共通祖先集団は(現在の)中央アフリカ共和国南部に居住していた。当時隣接していた農耕集団のンガンドとングバカと密接な関係をもち、それぞれの言語を話すグループとしてアカとバカに分かれたが、トウモロコシなどの新大陸産の産物が伝えられて以降に、バカが何らかの経緯で南西方向に大移動し、他の言語を身につけないまま今に至り、アカは(おそらく)一時的にンガンドと離れていた時期があり別言語化した。バカもアカも農耕民と会話するとき、その農耕民の言語を使うが、近隣の農耕民がバカやアカの言語を理解することはまれである。

以上のような事情から、ピグミーは農耕民との接触以前は無言語であり、農耕民との接触によって言語を獲得した、あるいは農耕民の中のある被支配階層が狩猟採集生活に適応した結果身体が矮小化した(ので農耕民とピグミーは同一言語を話している)という説が立てられたことがあった。しかし12万5000年─16万5000年前にコイ=サン語族とピグミーが他の人類集団から分岐したにもかかわらず、前者のみ独自言語を持つという仮説は不自然である。なおピグミー全体に共通する語彙についての研究はないが、隣接したピグミーと農耕民の語彙の比較研究から、固有名詞や儀礼の言葉、動植物名にピグミーオリジナルの語彙の存在は確かめられており、かつては存在していたオリジナルな言語が、農耕民との接触によって文法や語彙の多くが消失したと一般には考えられている。

遺伝学より言語学は文化的なオリジンを探求する方法であるが、生物学的な側面については遺伝学を利用することで理解することができる。

ミトコンドリアDNAの分析によって、例えば西のピグミー(アカやバカなど)と東のピグミー(トゥワやムブティなど)の間の遺伝的な類似性よりも、それぞれの近隣農耕民との方が遺伝的に近いという結果が得られている。しかしこれによって、ピグミーの同一起源が否定されたわけではない。実際にはピグミーの女性は近隣の農耕民に娶られるという一方的な通婚があり、ピグミーの女性の遺伝子が農耕民に供給されてきたからである。mtDNAの集団内多様性や核DNAの研究から、実際にはピグミーと他の人々は6-7万年前に分岐し、2万年前に東と西にピグミーが分岐したという結果が得られ、ピグミーは同一起源であるというのが有力である。

社会・文化最も人類学的研究の進んだピグミーはコンゴ民主共和国のイトゥリの森に住むムブティ族である。コリン・ターンブル (Colin Turnbull) は著書『森の民~コンゴ・ピグミーとの三年間~ (The Forest People) 』 (1962) の中で彼らを主題とした研究成果を示している。

ピグミーは他の民族と異なり、10代はじめに身長の成長が鈍化する傾向にあるために成人の身長が低くなる。これらは環境への適応のためであり、小島や密林といった隔絶された環境に応じ人間以外の種の中で独立して進化したものである。ピグミーの祖先が生きた環境はかれらの身体サイズを多世代にわたり小さくし、そして今日、自然淘汰によりその遺伝子が優位性を占めている。


コンゴ共和国にあるピグミーの家は木ぎれと葉っぱで建てられているアフリカのピグミーは集団、即興による複雑なポリフォニーが特徴的な声楽によってよく知られている。Simha Aromはピグミー音楽の多音の複雑さは、中世ヨーロッパのアルス・ノヴァのポリフォニーとよく似ていると指摘している。ピグミー音楽に用いられるほとんどの楽器は単純かつ実用的なもので伝統的なノマディック(放浪的)ライフスタイルに似つかわしい。ピグミー社会は平等主義で有名である(おそらく空想的に描かれたもの)。彼らはよく理想郷と未開社会の両者を包含するものとして空想的に描かれ、彼らが長期にわたり、ピグミー以外の「より近代的な」集団(近隣の村落、農場経営者、材木会社、宣教師、狩り場に侵入するハンター)と関係を持ち続けてきたことを見落としがちである。アフリカのピグミーは独自の言語は持っていないが、周辺のピグミー以外の言語(バンツー語など)を話す。


コンゴ共和国のピグミー家屋の内部
アフリカピグミーとヨーロッパの探検家コンゴ共和国のサンガ (Sangha) 川沿いのウエッソ (Ouesso) とポコラ (Pokola) のちょうど中央付近にあるピグミーの家は、棒きれと葉っぱで建てられており、とても狭く、木製のベッドと棚のような基本的な家具だけがある。熱帯雨林では夜間の冷え込みが厳しいため、内部には囲炉裏が設けられており、トウモロコシやその他の果物を蒸留して酒を造るために使われている。彼らはまた非常に有能な猟師でもある。

ウイキペディアでは以上で、中央アフリカの広い範囲に分散して生活している、ピグミーを1つの種族と扱うのには問題が有ることが分かりました。
また何故低身長という形で進化したのか疑問ですが。次のような説が有り、私は納得しました。

成人した男性でも平均身長が155センチ以下という、低身長で知られるピグミー族の人々ですが、彼らが小柄である理由を、英ケンブリッジ大の研究チームがまとめました。それによると、彼らの特徴「低身長」は、これまで考えられてきた、(1)熱帯森林での生活で体内に熱がこもらない(2)密林で動きやすい(3)食物が乏しい環境で飢えに耐えやすい …といった理由ではなく、以下の理由で進化した結果である可能性が高いとのことです。

 このケンブリッジ大の研究によって判ったことというのは、(アフリカのピグミーではなくフィリピンの狩猟採取部族の調査)彼らが2002年から03年にかけて、フィリピンの2地域で計約800人の子供や大人を調査した結果、判ったことは、(女性の場合は特に)身長の伸びが早く、12~13歳で大人並みになる反面、15歳まで生き延びる割合は3~5割と、アフリカの草原に住む民族の6~7割に比べ、大幅に低いと言うこと。 ここから考えられることは、死亡率が非常に高い苛酷な環境の中、少しでも種族を生き長らえさせるべく、早く成長して 、早く成長を終えて 、子供を産む ように…適応したということです。考えて見れば我々も以前、平均寿命は短く、早婚でした。

今後狩猟採集民であるフィリピンのアグタ族 (Agta) とバタク族 (Batak) 、マレー半島のセマン人 (Semang) 、アンダマン諸島の先住民などに付いても記事を書きたいと思っています。


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