アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ペドロ・パラモ

2010-11-05 20:23:02 | 
『ペドロ・パラモ』 フアン・ルルフォ   ☆☆☆☆☆

 再読。作者のルルフォはメキシコ人で、その生涯において長編小説を一つと短篇集を一冊しか書かなかったが、そのいずれもがラテンアメリカ文学、いや世界文学の歴史において真の偉業と呼ぶべき高みに達している。驚くべき作家である。あとがきに書かれているが、本書はマルケスの『百年の孤独』と並んで「ラテンアメリカ文学の最良の作品」に選ばれた。重厚長大な『百年の孤独』に比べてかなり短めだが、その世界の奥深さと広がりは『百年の孤独』に勝るとも劣らない。

 本書のストーリーを要約することはまったく無意味だが、簡単に言うとペドロ・パラモという男の肖像を描き出す試みである。ペドロ・パラモはコマラという町の有力者で、あこぎなやり方で、時には暴力を使って敵対者を排除し、のし上がっていく。その一方でスサナという女を絶望的に愛し、彼女が精神に異常をきたした後も面倒を見続ける。このペドロ・パラモの少年時代から死までの生涯が、断片的なエピソードで綴られる。

 小説の視点は常にペドロ・パラモに寄り添っているわけではなく、最初は彼の私生児が父親に会うためにコマラにやってきた経緯が「おれ」という一人称で語られる。「おれ」は死に絶えて廃墟となった町コマラで、いまだ地上をさまよっている亡霊たちと出会い、会話を交わす。そのうちにスサナの一人称の語りや、ペドロ・パラモを描く三人称の語り、ペドモ・パラモを憎む牧師視点の三人称の語り、などが混入してきて、小説は渾沌とした様相を呈していく。誰が死んでいるのか生きているのか、今喋っているのは果たして誰なのか、何が過去で何が現在なのか、判然としないまま小説は進んでいく。

 この断片化と不親切とも思える説明の省略が、本書の重層的なムード形成に寄与しているのは明らかだ。読者は断章を読み終えるたびに小説の位相が変化するのを感じる。自分があるレベルから別のレベルに移動したことを感じ取り、それが度重なることで、ある種のめまいとともに世界の広がりと多層構造を意識する。

 そうしためまいは語りのレベルや語り手そのものの変化だけでなく、たとえば生きていると思っていた語り手がもう死んでいた、というような変化によってももたらされる。死者として登場し、その後生者として(回想の中で)動き出す登場人物もいる。読者はこのようにさまざまなレベルで認識の修正を余儀なくされ、それはほとんどこの小説を読んでいる間中続くのである。とはいえ、こう書くとやたら叙述に凝ったメタフクショナルな小説と思うかも知れないが、決してそんなことはない。本書は技巧のひけらかしやそれゆえの窮屈さとはまったく無縁である。叙述はむしろ素朴ささえ感じさせるぶっきらぼうな叙述で、きまぐれに時間や空間が飛んだり語り手が交代したりするのは読んでいて非常に自由な、開放的な印象を受ける。

 といっても、今書いたことをまたまた急いで修整しなければならないのだが、よく読むと素朴どころではないきわめて巧緻な文体であることが分かる。書き出しの部分を読むだけで分かるが、語り手の視点は短いパラグラフの中で、いくつもの時間軸の中を非常な速さで行ったりきたりする。ブツ切れになった視覚的描写、独白、回想がめまぐるしく入れ替わり、現在の情景描写の中にいきなり母の過去の独白が割り込んできたりする。ゴツゴツした乾いた文章が突然抒情的になる。異質なものがモザイク状に組み合わさり、それがあらゆるものを立体的に屹立させていく。

 更に、同じことがプロットについても言える。それぞれの断片はまったくのブツ切れで、前章を受けて筋が展開していくことはほとんどない。エピソードがつながらない。ことの顛末や経緯はばっさり省略され、結局どうなったのか分からない部分も多い。にもかかわらず、それがかえって物語に豊穣さをもたらしている。普通に考えればこれは不思議なことで、物語が貧弱になってもおかしくないのだが、本書においては場面場面が醸しだす情感、イメージ、世界観があまりに強烈で、その運動がすなわち物語のダイナミズムを作り出しているのだ。たとえば暴力が支配する灼熱の大地、風が吹きすさぶ廃墟の町、追えば追うほど失われていく幸福、常に回想の中にしかない愛、そして希望。死んでいく人々。打ち上げ花火のような人生。一つ一つの場面に溢れる圧倒的な詩情が、読者の脳をしびれさせていく。

 ルルフォの文章は短く切りつめられていて、文飾とは無縁だが、その比喩は大胆かつ精緻だ。ある時は空虚でハードボイルドな叙述、ある時は抒情的な独白、ある時は視覚的描写が一切ない会話だけの場面。紋切り型というものがまったくない。単に饒舌なシナリオみたいな娯楽小説文体とは次元が違う。小説家とは本来、こういう文章を書ける人たちのことなのだ。

 と、このような分析をいくら重ねても、結局のところ『ペドロ・パラモ』の全体像を捉えることは不可能である。本書は偉大な文学がいつもそうであるように計りがたい矛盾に満ち、読めば読むほどに謎めき、遠ざかっていく。全体は常に細部の総和を上回る。荒涼とした、乾ききった、岩だらけの、灼熱の光景が、圧倒的な抒情の水脈を迸らせる。暴力と涙、無慈悲と敬虔、憎悪と祈り、生者と死者が自在に交錯する神話的な世界。これこそ文学の力だ、と言うしかない。全人類必読。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿