アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

浮草

2009-07-19 10:38:32 | 映画
『浮草』 小津安二郎監督   ☆☆☆☆☆

 英語版DVDで鑑賞。これまで小津映画は何本か観て、その持ち味と素晴らしさは大体呑みこめたつもりだったが、この映画はそんな私を更なる衝撃で打ちのめした。絶句。観終わって茫然自失。なんという美しさ、豊穣さだろうか。やっぱり小津映画はモノクロだな、などど早合点しかけていた私の襟首をむんずと掴んで振り返りざまどーんと背負い投げである。大の字にのびて目を回す私。いやもう、勘弁して下さい。

 カラー作品である。これほどまでに色彩が美しいと感じた映画は滅多にない。ぱっと浮かぶのは『髪結いの亭主』ぐらいだ。撮影は宮川一夫。『羅生門』や『近松物語』を撮った人である。宮川氏が小津監督と組んだ映画はこれだけのようだ。他の小津作品と一線を画すこの映像美はやはりこの二人のコラボレーションによるものだろう。映画の冒頭からそれは明らかだ。海と灯台、前景に置かれた壜。まるで静物画のように緊密なコンポジションが目に焼きつく。

 ひとつひとつの画面が一幅の絵画と化す。鮮やかな色彩の中でも特に印象的なのが赤で、うちわや着物、番傘など華やかな赤が鮮烈な絵を作り出している。素晴らしいのが中盤の豪雨のシーンで、激しい雨を挟んで中村鴈治郎と京マチ子が怒鳴りあうのだが、地面に広げられた赤い番傘がアクセントとなってほれぼれするような画面だ。陰影のある日本家屋の情緒もいい(夜の場面のあのリリシズム!)し、ひと気のない芝居小屋の天井からひらひらと落ちてくる数枚の紙吹雪、なんてのにもうっとりしてしまう。まさに完璧な映像美の世界である。あまりにも美しい。

 宮川一夫氏もそうだが、出てくる俳優たちの顔ぶれもいつもと違う。これはいつも松竹で仕事をしている小津監督が珍しく大映で撮ったかららしいが、そのへんの裏の事情は映画マニアでない私はよく知らない。杉村春子と笠智衆はいつものメンバーだが、主演が中村鴈治郎で、女優陣は京マチ子に若尾文子。他の小津作品の基調のトーンは清楚さだけれども、この映画はぐっと艶やかだ。

 主演の中村鴈治郎はどこかで見覚えがある顔だと思ったら、『必殺仕事人』の前半に元締役で出ていた人だった。目尻がつりあがった特徴的な顔立ちの人だが、この人が実にうまい。やり過ぎず、抑え過ぎず、飄々とした大人の芝居を見せるかと思うと子供っぽくコミカルな演技をする。ものすごくややこしい人生の機微やしがらみを「まあ、ええがな」と軽くいなして生きていく。この中村鴈治郎とがっつり渡り合う京マチ子は女の嫉妬を表現して見事だし、いつもよりコミカルさを抑えたおとなしめの杉村春子もしみじみしていて良い。そしてまだ若い若尾文子はとにかくきれいだ。

 物語もいつものホームドラマではない。旅役者の一座の浮草のような生活をメインに、隠し子、女の嫉妬、そして誘惑と、劇的な要素が盛り込まれている。日常の詩人・小津安二郎が描く非日常的世界だ。とはいえ、悠然たる話の進み具合はいつものスローペース。決してとんとんと駆け足では進んでいかない。五分に一回笑わせますとか、ハラハラドキドキの連続とか、そういうのとはかけ離れた映画である。じっくりと、淡々とディテールを描き込んでいく。にもかかわらず、観終わった後「あー面白かった!」とどっしりした満足感が残るのはなぜだろう。ハラハラドキドキが売り物のハリウッド映画なんかよりよっぽど満足できる。

 つまり骨格となるプロットさえしっかりしていれば、観客が退屈するのを心配して刺激ばかり詰め込まなくてもいいということだ。むしろそんな表面的なスペクタクルより、生き生きした会話や、紋切り型でないディテールが映画を本当に面白くするということが、この映画を観るとよく分かる。

 この映画には愛情があり、激しい嫉妬があり、策略があり、喜びと哀しみがある。小津監督の特徴の一つであるユーモアもある。特にきっちゃん(一座の役者のひとり)のエピソードには笑った。きっちゃんを演じているのは三井弘次で、黒澤映画などでいつも印象的な脇役を演じている人だが、この映画でも見事な存在感を示している。ちなみにこのDVDはサイレント映画である『浮草物語』(『浮草』は『浮草物語』の小津監督自身の手になるリメイクである)とセットになっているが、『浮草物語』で座長の息子を演じているのが若き日の三井弘次なのである。いつもひねこびたオヤジのこの人が二枚目の役なのでなんだかおかしい。『浮草』では同じ役を川口浩が演じている。

 映像の素晴らしさは先に書いたが、セミの声、遠くから聞こえる汽笛、拍子木の音などこの映画を彩る音もとても印象的だ。物語、情緒、映像美、素晴らしい役者たち、すべてが豪奢なアンサンブルを奏でる。これは夢の世界だ。しかもとびきり上等の夢幻劇である。この映画は『東京物語』や『晩春』ほど人気は高くないようだけれども、間違いなく小津監督の最高傑作の一つである。


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