アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

審判 (その1)

2009-02-07 21:01:43 | 
『審判』 フランツ・カフカ   ☆☆☆☆☆

 カフカの『審判』を再読。ミラン・クンデラは『小説の精神』の中でこう書いている。「…カフカとはひとつの巨大な美的革命そのものです。芸術的奇跡そのものです」クンデラはイロニックな作家であり、決して激情家ではない。だから私たちはこの言葉をまったく額面通りに受け取らなければならない。カフカは疑いもなく20世紀文学における最重要人物である。彼の作品は他のあらゆる幻想文学作品と一線を画している。マルケスはカフカを読んで椅子から転げ落ちるほど驚いたという。なぜカフカはこれほどまでに特別なのだろうか。

 カフカの凄さについてはクンデラが『小説の精神』『裏切られた遺言』の中で多くのページを費やして語っているので、その中から印象に残っている部分をちょっと紹介したい。

 まずクンデラは、「カフカ的」としか表現できない実存的状況がある、と言う。つまり心理学や社会学や政治学の言葉だけでは決して把握することができず、もっぱらカフカの小説作品によってのみ定義され、理解される人間の状況があると。このような作家はカフカ以外に絶無ではないかも知れないが、「カフカ的状況」ほど複雑で謎めいたシチュエーションは稀だろう。カフカは他の誰にも見えないものが見えた。カフカ文学が神学となり、カフカが「予言者」扱いされるのもそこいらへんに理由がある。カフカが描いた不条理世界は全体主義の台頭を予言したと言われたが、もちろんカフカは予言者などではなく、ただ人間存在のある側面(ただしそれまで誰も発見しえなかった側面)を小説に書いただけだった。そのメカニズムが歴史という大舞台で作動した時、全体主義や秘密警察となって現れたのである。

 カフカはその作品の中で、政治や社会への言及はとりたてて行っていない。だから彼を風刺作家や、政治参加型の作家と考えるのは間違っている。同じように、カフカは社会や組織という大状況を扱ったのか、家族や友人という小状況を扱ったのか、というよくある議論もあまり意味がない。カフカはただ人間の実存を描き出したのである。おそらくそれは父親や婚約者という身近な人間関係から得られた洞察だったのだろうが、それは社会という大状況にもひとしく適用される。大状況と小状況を背後で操るのは同じ原理であり、単にカフカはそれを見たのである。

 そしてもちろん、カフカといえば突拍子もない奇想の作家である。ガルシア・マルケスを驚愕させたのは『変身』の冒頭だった。『変身』の主人公ザムザは不安な夢から覚めると虫に変わっている。『審判』のKは逮捕されても銀行の勤めを続けるし、法廷事務所はなぜか貧乏アパートの屋根裏部屋にある(しかも驚いたことに、どのアパートの屋根裏部屋にもある)。おそらくカフカほど現実にとらわれない、奔放な想像力を持った作家も珍しいだろう。そのこと自体も驚異的だが、真の驚異はその先にある。前述したようにカフカは誰も気づかなかった人間の状況をきわめて精緻に、「予言者」と呼ばれるほど明晰に描き出した。さて、一体どのような作家が、現代社会や人間存在のメカニズムを解き明かす明晰この上ないまなざしと、考えうるもっとも突拍子もない非現実的空想を、ひとつの作品の中に混ぜ合わせることができるのか。
 
 さらにカフカ文学は美学的見地からも革命的だった。カフカ作品を貫くポエジーはそれまで叙情的とされたあらゆる規範を逸脱している。その世界には薔薇も青い海も夕焼けも美女も天使も出てこない。典型的なカフカの舞台は官僚的世界だ。それは役人と書類、煩雑な手続きの世界であり、図書館には技術書ばかりが収められているような世界、そこでの冒険といえば役所から役所へめぐることといった世界なのである。クンデラによればカフカは、「まったく反詩的なひとつの素材を、極端に官僚化された世界という素材を、小説という偉大なポエジーに変容させ、凡庸きわまりないひとつの物語を、約束されていた職を手に入れることができないひとりの男の物語(事実、これが『城』の物語です)を、神話に、叙事詩に、かつて見られたことのない美に変容させることができたのです」

 さて、私が初めてカフカの『変身』を読んだのは中学か高校の頃だったと思う。その頃は上に書いたような面倒なことはもちろん考えなかったが、あの薄っぺらな文庫本が発する異様なムードは他の作家とは明らかに違っていた。鑑賞したり賞味したりというより、否応なく引きずりこまれるという恐ろしい感覚があった。篠田一士は『二十世紀の十大小説』でカフカの『城』を取り上げているが、そこで「どの短篇の場合にも、冒頭の一節で、みごとにきまる、あのすさまじい雰囲気の迫力は、いまさらいうまでもない」とか、ボルヘスを評して「『変身』の作家のような、突如颶風(ぐふう)が吹きつけ、目のまえに、見たこともないような光景が出現するという凶暴さはないが、それにしても……」などと書いている。この「突如颶風が吹きつけ見たこともないような光景が広がる」というのは、まさにカフカの読書経験を正確に言い表した言葉だと思う。あのボルヘスでさえ、カフカに比べると普通なのである。

 なんだか前置きが長くなってしまった。明日は『審判』について書きたいと思う。

(明日へ続く)


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