アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

海辺のフィアンセたち

2011-10-21 23:56:10 | 
『海辺のフィアンセたち』 ミシェル・トゥルニエ   ☆☆☆☆☆

 再読。帯には「小説の魔術師が贈る エロティックでユーモラスな 61の物語」とある。61とはずいぶん多いな、と思いながらこれを短編集と思って手にとった読者は、なんだ、これはエッセーじゃないか、と言うかも知れない。これを「物語」と書いた出版社の担当者はかなり迷ったんじゃないかと思う。物語といえば普通ストーリーのことで、この本に収められた作品はストーリーとは言い難いものが多い。が、よく読むとこれはエッセーでもない。物語と言って言えないこともないのである。実際のところは、トゥルニエのイメージと切れ味抜群の文体が織り成す断章形式の自在なテキスト集である。小説とは何をどう書いてもいいのだとは筒井康隆がどこかで書いていたことだが、そういう意味でまさにこれは短編小説集以外の何物でもない。

 とにかくトゥルニエの文章に酔わされる。芸術品だ。現代の作家には型破りな文体をトレードマークにする人も多いがそうではなく、あくまで端正、優美、古典的な品格をたたえ、にもかかわらず紋切り型は一切なく、掌で珠を転がすように意味とイメージを的確に操る、躍動感のある文章だ。ほとんど魔術的なレトリックといいたい。書き出しの一語から最後の一文まで一分の隙もなく、狙ったところにドンピシャリと決まる。完成された体操の演技を見ているようで、その運動の美しさには惚れ惚れする。やっぱり作家というのはこうでなくちゃいけない。文章を読ませるプロであるからには、これぐらい書けないと「私は作家です」などと言っちゃいかん。
 
 それから、トゥルニエが観念やイメージと戯れてみせるその軽やかさが気持ちいい。深刻ぶったメッセージでも言論でもないが、時にはメッセージや言論に見えたりもする、しかしつまるところ美しさとポエジーに収斂していくその芸術性。本書を読んでいると、小説においてはイメージや観念の発見こそがポエジーの発見であることが分かるし、感情ではなくアイロニーこそがその血液であることが分かる。小説の真の醍醐味はストーリーの先がどうなるか知りたいとか登場人物に感情移入して泣けるとかではない、何か別のものであることをこれらの作品群は示すようである。

 創作ともエッセーともつかない断片的テキストというスタイルは、『ヴェネツィア』『花火』あたりと似ている。ブローティガンの『不運な女』『芝生の復讐』の中のいくつかの作品とも似ているし、ひょっとしたら澁澤龍彦の『唐草物語』とも似ているかも知れない。しかしもちろん、これらのすべてはお互いに微妙に違う。いずれにしろこれは作家と呼ばれる人々の中でも一握りの達人にしかできない芸当であって、小説を本当に愉しむには、この形式こそが最適なのではないかと最近私は思い始めている。

 収録作品の中で特に気に入っているのは「ヴェルーシュカ」「三番目のA」「海辺のフィアンセたち」「いつか、一人の女性を」「平らな生」「鏡」「絞り」「ルイス・キャロルのエロチシズム」「画家とそのモデル」「アルルの亡霊」「美しい死」あたりである。どれをとってもストーリーの制約を取っ払った自由なテキストだからこそ可能な、アクロバティックともいえるイメージ操作に感嘆できるものばかりだ。たとえば「ヴェルーシュカ」ではヨーロッパの悲惨な歴史が一人の女性の容貌にぎゅっと集約されるし、「アルルの亡霊」では平和でおだやかなアルルの光景と、血まみれの耳をもって愛人のもとへ駆けつけるゴッホのイメージが並べて提示される。トゥルニエはカメラが趣味らしく、写真にまつわる話も多いが、「絞り」は有名な画家たちの絵をカメラの「絞り」の観点から論じ、画家の感性に機械の文法を当てはめたユニークな短編である。


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