アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ターバンを巻いた娘

2006-08-03 22:01:25 | 
『ターバンを巻いた娘』 マルタ・モラッツォーニ   ☆☆☆☆☆

 イタリアの女流作家の短篇集。どう考えても傑作なのだが、現在絶版のようだ。私は随分と昔に購入し、たまにひっぱり出しては再読するということを繰り返している。

 この人の短篇は独特だ。品と風格があって、エレガントで、芳醇で、ゆったりしていて、それでいてどことなく不安で、抽象的で、謎めいている。

 ストーリーは大変おとなしい。手に汗握るような事件は別に起きない。登場人物の置かれた状況が淡々と綴られることで物語が成立している。しかしその淡々の中に微妙な不安感と、謎めいた雰囲気が入り混じっている。例えば最初の短篇『白いドア』。ある大音楽家(作中で名前は出ないがモーツァルトらしい)が大邸宅に招かれ、滞在している。クラヴィチェンバロつきの立派な離れをあてがわれ、世話係をつけられ、いたれりつくせりだ。ところが、仕事がはかどるようにという配慮からか、招待主は一度も姿を見せない。音楽家は招待者の顔を知らないのだ。たまに離れから屋敷の方へ歩いていくが、いつも白いドアは閉ざされている。奇妙な不安感と焦燥にかられ、彼はまったく作曲ができない。ある日彼は夢を見る。白いドアをあけて、屋敷の中へ入っていく夢だ。翌朝、彼は死んでいるのが見つかる。

 この短篇などどことなくカフカ的なところもあるが、カフカまで異様な不条理感は漂っていない。リアリズムタッチの、淡々とした小説である。

 『ダ・ポンテ氏の威厳』は、台本作家としての名声を夢見るダ・ポンテが宮廷音楽家サリエーリにとりいって、なんとか歌劇の上演にこぎつけ、無残に失敗するという話。最後、サリエーリに侮辱され、退出し、やつあたりで乞食に暴力をふるうダ・ポンテ氏の描写がすさまじい。これもある種の「待機」を物語にしているという意味では、『白いドア』に共通するものがある。

 表題作『ターバンを巻いた娘』は、表紙にもなっているようにフェルメールゆかりの物語。フェルメールがらみの物語は映画になったやつとか色々あるが、これはその中でももっともさりげなくフェルメールとからめた、そしてもっとも優れた作品ではないかと思う。
 フェルメールの名前は作中に一度も出てこない。あるオランダの商人が小さな絵を持ってデンマークの貴族の領地に行き、絵を売って戻ってくる、それだけの話である。最後に貴族の娘から手紙がきて、商人の息子が今度は絵を引き取りにやはり旅立つことになる、というしゃれたエピローグがついている。絵がフェルメールのものだと分かるのは、次のごく簡単な説明からだ。「…主題は女性が四分の三ほど顔をこちらに向けたところを描き、頭はターバンで束ねられ、耳に真珠をひとつつけております」これとタイトル、これだけだ。

 残りの二篇もそうだが、この人の短篇は事件というよりある状況を描き出したもの、といっ方がしっくりくる気がする。『ターバンを巻いた娘』では、商人の旅行中に奥方が出産を控えているなど、何か事件が起こりそうなムードが常に漂っているが、結局何も不穏なことは起きない。ハラハラドキドキがないと駄目な人は「つまらん!」となってしまうだろう。しかしそこがいいのである。読んでいてうっとりするような何かがある。淡々と進んでいく地味な物語の水面下に、何かが潜んでいる感じがする。この短篇で言うと、テーマになっているこの小さな絵がフェルメールであるという、ほんのちょっとしたほのめかし(私達もそれがどんな絵か知っている)が、この短篇のえもいえない味わいを醸し出している。そういう意味では、非常にオーソドックスな小説書きのようなこの作者は、実はアントニオ・タブッキのように「ささやかな小説的トリック」にも通じた達人のようにも思えてくる。

 この短篇集があまりに素晴らしいので、私は今でも時々モラッツォーニで検索をかけてみるのだが、新作、もしくは新訳本らしきものを見たためしがない。訳者あとがきによると『真実の発見』という第二作があるらしいが、訳本が出ないものだろうか。


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