清風寺にて日地上人御年回、新住職誕生

2009年04月13日 | Weblog
11日(土)、12日(日)と2日にわたり、大阪の清風寺で門祖会が行われ、私は日曜日に参詣させていただきました。
特に日曜日の第二座では、第5世住職、西村日要導師の長男、そして第3世住職、西村日地上人のお孫さんにあたる西村清良師の第7世住職就任式が行われました。
いわば宗門のサラブレッドで、たいへんな期待されていてプレッシャーが並大抵ではないと思いますが、堂々と宣誓、また、挨拶をされ頼もしく感じました。
今日に至るまで、清風寺の教講は苦労があって大変でしたが、落ち着くべき所に落ち着いたという感じです。これらからは、社会的な状況の変化、経済的な問題、ご信者の気質の移り変わりなどによって、私たちも含め佛立宗のあらゆる寺院は逆風になると思います。ご信心が深く、経験豊かな役中信者(役員)が昼夜にご奉公し、佛立宗を支えてきましたが、そういう捨て身のご奉公のできる方が減ってきているからです。これからは、よほどの覚悟で臨み、逆風を乗り越えて厳しい環境の中でご弘通発展を期さなくてはなりません。新住職の清良師の活躍と健康をご祈願させて頂きたいと思います。
また、11日(土)には第6世住職・谷川日恩上人の百ヵ日忌及び清風寺本末寺院の合同本葬儀が行われました。
そして、いよいよ12日の午後3時からは佛立第18世講有・日地上人の23回御忌法要が、門祖会とは別に厳粛かつ盛大に営まれました。
内陣で御看経させて頂いたのは、奉修導師の講有上人、そして左右に梶本講尊上人、野講尊上人。そのほか、5名でしたが、その中に加わり私もお参りさせて頂きました。七条袈裟という大きなお袈裟を着けての法要で、緊張です。いやー大変と言ったらいけないのですが、持って行くのが重たかったですね。
私が控え室にいたとき、接待ご奉公をしてくれていたのが女子青年会の土井さんという人で(ごめん、名前まで記憶しませんでした)、かいがいしくご奉公してくれました。ありがとう!(このブログを見てくれているそうです)
日地上人には、本当にお世話になり、感謝しています。大学の大先輩でもあり、同じインド哲学科でした。また、遠妙寺から大学生時代に通学されていたこともあり、ご因縁が深く常に目をかけて頂きました。大阪にいる5年の間に、いろいろ学ばせていただき、ご信心の深いーィところが分かりかかった気がします。
青年会参与教務も仰せつかり2年間ご奉公、その経験を遠妙寺青年会の再結成と発展に活かすこともできました。報恩謝徳の念でいっぱいです。有難うございます。
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2 コメント

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お恥ずかしい限りです… (土井)
2009-04-14 00:16:12
ありがとうございます。名前を見つけて驚きと嬉しさでいっぱいです
ご接待のお部屋でお導師のお顔を拝見させていただいて、も、もしや!と胸がおどりました(ブログのお導師だぁ!)
ブログを読ませていただいてきて思っていた通り、優しくあたたかな笑顔のお導師にお出会いできて、とても嬉しかったです
ありがとうございました☆

インド哲学科(読書感想文) (田舎児)
2009-04-30 01:13:20
「インド人の考えたこと」
---インド哲学思想史講義
 著者 宮元啓一 春秋社

たまたま図書館でこの本を見つけました。
著者は、東京大学のインド哲学専攻とのこと。
最後の「最高神の議論」を読んで。

多分すばらしい思考過程を経ているのでしょうが、
無学な私http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyob_en.gifにはどうも分かりにくい。
宗教家が、最高神(ヒンドゥー教)は全知全能であると言い。
哲学者が、最高神は無能で卑劣である言う。
ここでの宗教家は、最高神の働きを説き、ーーー最高神は何でも出来る
哲学者は最高神の無変性を説く。ーーー最高神は何も出来ない

宗教家は最高神をあがめ奉り。
哲学者は最高神を配下におく。
思考の範囲を考えるとき、自らの思考の立場が限定されているのに気付きます。
宗教家は自らの願望を最高神に委ね、
哲学者は自らの願望を自らにゆだねる。
自らの願望に頼ってはいけません。
宗教家は論拠を確かめ、哲学者はより広い視野をもつ。
現実は歴史の結果であり、学識は自らの為だけではない。

思考しない存在は無ではありません。
無思考者に宗教は必要なく、
無思考では哲学は存在しません。
無思考をも含む領域は確かに存在します。
現実は思考を超えています。
思考をも越えた世界、これは仏教の法に含まれます。
仏教は本能的な自衛思考を打破し救済します。
法の中に哲学も存在します、
哲学を法で解くと認識思考となるのでしょうか。
認知症の老人に飾り気のない素朴な笑顔(喜び)があるのをご存じですか?
現実を手掛かりにすれば、もっと理解できると思います。

私には学識がありませんから、これは根拠のない無学な思考ですが。
釈尊の心の中にある未完成さは。実に私の未完成さなのです。
また多くの人々の未完成さまでも、釈尊に含まれるのです。
これが釈尊の慈悲であり、衆生の存在理由です。
私が変われば釈尊が変わる、釈尊が変われば私が変わる。
だから、悟られた釈尊を看ることは悟ることになるのです。
これが私たちの仏性だと思います。
人々の仏性を看る、正に不軽菩薩と同じじゃ有りませんか。
http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/b_body_jump.gif

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