れすぃむり るーずなーめむ

一個研究現代東北回民史之人的日常記録。

Cevan-Merdler。

2007-04-30 22:12:54 | Gunlerimden
こんにちは。

黄金週に入り、
私も一週間振りにローカル局番組など見る機会があったのですが。
本日初めて、「木枯らし紋次郎」を見ましてね。

少しく感動…。
もとより好きなのですよね。
こうした無頼/任侠モノ。
ま、故郷に昔その筋の大物がいたというのもありますが(笑)
(名前の方は言わずもがな、ですよね)

そういえば、
私が一応「専門」としているイスラーム関係の書籍でも、
この手の話題を扱った概説書がありますよね。
(佐藤次高ほか『イスラム社会のヤクザ-現代に生きる任侠と無頼』第三書館、1994年)
私も大変興味深く拝読させて頂きました。
(寧ろ愛読書、といっていいほどですか 笑)

よくよく考えたら、現在扱っている地域に興味を持ち始めたのも、
同地の「自警団的任侠団」に関心をはらう様になったのが端緒なのでした。
とすれば、こうした「あんちゃん」たちへの注目というのは、
私にとっては、今後も捨てきれぬものの一つであり続けるでしょうね。

それでは。

「塩とパン」。

2007-04-26 20:26:58 | Lisan-i Etrak
こんにちは。
件の「旅行記」の翻訳を今期中にアゲてしまおうと、
先日担当教官の先生に頼んで、
再度オスマン語-オスマン語辞典の辞書を借り受けたのですが。
(Ş. Sâmî, Kâmûs-i Türkî, Akdam Matbaası, 1317)

別件で調べものをしている時に、
「塩tuz」の項目で、
「塩とパンの義務Tuz etmek hakkı」という欄を目にしまして。
少しく懐かしさを感じましてね。

というのも、
幾度かこちらにも書かせて頂いておりますけれど、
私が卒論で扱ったのは近現代新疆の事例でして、
京都大学の濱田正美先生の論考なども当然色々と参考させて頂いたのですが、
その中に東トルキスタンにおける「塩の義務」に関するモノが御座いまして。
(「塩の義務と聖戦の間で」『東洋史研究』52-2,1992)
中世トルコ語から始まる「メシを食わせて貰ったモノに対する恩」に関する、
塩に纏わる「慣用句」について、色々と勉強させて頂いたのですけれど、
あらためてオスマン語辞典で同様の項目を見つけると、
何か考え深いモノがありますね。

ちなみに。
同「辞書」での語句の説明は、
「Şükürân, Müntidârlık」とのことです。

それでは。

えす・えす・えす・える。

2007-04-24 16:23:18 | Gunlerimden
こんにちは。

前回の記事にコメントを下さった方へのお答えの為、
久方振りに数年前に複写した30年代初頭の雑誌記事を見ていますと、
当時の在日本外国人の数を列挙したモノがありまして。

アラビア文字タタル文なので、
国名の中には「ん?」と悩むものもあったのですが。
文中にこんな単語が出てきて、少し頭が固まりました。
صصصر
「…“sād sād sād re”って、何…?」と。

「sādってことは、sから始まる音だよな。で、reはr…」
と考えましたところ。
СССР(エス・エス・エス・エル)、
すなわち「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の略語であると判明。
よく見れば、そのすぐ後ろに「避難民云々」とかありますしね。

こんな感じの略称って、
他にも結構用いられていたのでしょうか。
ちょっと気になります。
今度別の文献に目を通す機会があったら、
少し注意して見てみようと思います。

それでは。

Tokyo’da Mekteb-i Islamiye hakkinda bir makali。

2007-04-20 12:04:37 | Gunlerimden
こんにちは。
先日調べものをしていた際に、
本来探していたモノに関する情報とは別に、
1928年に現在の東京ジャーミーの横に設立された、
「東京回教学校Tokyo’da Mekteb-i İslâmiye」に関する記事を、
1つ見つけまして。

戦中内閣情報部から発行されていた『写真週報』第6号(1938.2/12)の、
「日本に学ぶ青年アジア」という特集記事中における一節が、それなのですが。
「亜細亜の盟主日本はいまあまたの隣邦学徒、
明日の協力者をそのふところに預かつて教育してゐる。
満洲、支那、暹羅〔シャム〕の諸国及び回教徒等それぞれ立派な学校或は会館、寄宿舎等を持ち、
日本のすぐれた学術と、精神を学んでゐる。
亜細亜の理解と協力と発展のために」
というキャプションのもと、
「満洲国留日学生会館」や「横浜中華公立学校」、
「名古屋衆善寮」などとともに、
「回教学校」が紹介されています。

当該頁の本文に、
「満洲国の出現は満洲二百万の回教徒に取って実に一大光明であった」
とか、
「今支那五千万の回教徒は我が聖戦の進むと共に、
愈多年抑圧と搾取を事とした蒋政権からの離脱と防共を旗印として、
さきの満洲国建国に倣つて彼等自身の楽土建設に力強く動き出そうとしている」
などといったように、
「大陸政策」における対ムスリム政策の重要性が言及されているのは、
まあ「お約束」のこととして。
当時「学校」に在籍中のタタル人子弟の写真が数枚掲載されているのは、
比較的名の知られた雑誌の中では、珍しい事例なのかもしれません。

中でも私の興味を惹いたのは、
タタル人の男の子と近隣学校の小学生が肩を組んで映っている写真。
「ぼくたちは皆お友達だ亜細亜人だ」
などという如何にもなキャプは兎も角も、
当時この様に在日タタル人の子弟と交流があったこどもたちの目には、
「身近なムスリム」たる彼らの姿は、どのように映っていたのかと、
少し気になりましてね。
現在もご存命の方からお話等伺えれば、
「公論」に現れる情報とはまた違ったコトがわかるのでは、
などと思ったのですが。

それでは。

Bir Kur’an-i Kerim’in Uygurce tercumesinden。

2007-04-17 18:01:50 | Gunlerimden
こんにちは。
先日何とはなしに、
数年前買ったクルアーンのウイグル語訳本を捲っていますと、
(Qur’an Kärim Uyğurçä tärcimisi, Millätlär Näşriyati, 1986.)
アラビア語の「主」に当たるrabbの訳語として、
pärwärdigarという単語が用いられているのに気がつきまして。
例えば、有名な開扉章のウイグル語訳はこんな感じでした。

Cimi hämudusana alämlärniñ Pärwärdigari Alla’ğa hastur.
Alla nahayiti şäpqätlik wä mehribandur.
Qiyamät küniniñ igisidur.
(Räbbimiz) sañila ibadät qilimiz wä sändinla yardäm tiläymiz.
bizni toğra yolğa başliğin.
ğäzipiñg yoluqqanlarniñ wä azğanlarniñ yoliğa ämäs, sän in’am qilğanlarniñ yolğa (başliğin).

pärwärdigarといえば、
元々は「育む・教育する」を意味するparvardanと同源の、
ペルシア語の単語ですが。
どちらかというと「造物主」とかいった意味合いになるのではないかと。
一応rabbもウイグル語の中の一単語としては認識されているはずですが、
(上に示したウイグル語訳の第三節の冒頭にもありますね)
敢えてペルシア語由来の単語を用いているのが、何か気になりますね。

同じテュルク系の言語でも、
トルコ語の翻訳では、結構アラビア語原文中の単語を使っているものも、
割と多いようですが。
同じような言語であっても、
訳す側の背景によって結構違いが出るものなのですね。

それでは。