狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

聖書は、御利益を得る事を願って読むものでは無い

2013-04-05 03:15:31 | 世間・空気
 私は聖書を読む事において、お願い事をしていると世間に勘違いをされたくありません。つまり、聖書を読む事によって御利益を得ようとしていると、勘違いをされたくありません。私は決して御利益を得たいとは全く思っていませんし、その様な目的で聖書を読む事が間違っている事が解っています。
 私は此の世的な、或いは世間的な何かにおいて、あえて無理にしがみつこうとは全く思っていませんし、欲望への拘り(こだわり)の願い等は全く有りません
 第一、私は現在に至っては、欲望が殆ど無くなっています。それ故に、基本的に拘り(こだわり)が有りません。但し勿論、創造主の神やイエス・キリスト、聖書の御言葉には拘りますし、拘らなければなりません。そして、キリストには常にしがみついていたいです。しかし、此の世的な、どうでもいい様な、真実・真理では無い事には拘りません。仕事の種類と言うのも道徳的に間違っていなければ、所詮は此の世的なものの内の1つであるので拘る必要は無いと、私は捉えています。
 世間の人達は、正月に初詣に行ったりする事を初めとして、自分の欲望が叶えられる様に、御利益を得ようと考えて、神社の虚しい神々や寺の偶像を拝んだりしてお願い事をしています。そして、お願い事が叶えられなかった時には、その度に次から次へと拝む対象としての虚しい神々・偶像を代えています
 クリスチャンとしての洗礼を受けたからと言っても、幸運が訪れる訳では有りません。同様に、聖書を読んだからと言っても、それによって幸運が訪れる訳では有りません。却ってキリスト者であるが故に、迫害を受ける場合が有ります。クリスチャンだから怒らないだろうと、かわいいだろうと、ナメられて見くびられる(軽視される・あなどられる・見さげられる)事による仕打ちも、その内の1つである様に思います。かつて日本では江戸時代にキリスト者は迫害され、また使徒パウロ等の原始キリスト教の頃のキリストの弟子達や信者達も迫害されました。其の当時は特に、クリスチャンで無かった方が此の世に在って幸せな状態で居られましたが、敢えてキリスト者として貫いて殉教した訳です
 洗礼を受けたり、聖書の御言葉を受け入れたりして、イエス・キリストへの信仰を持つ事によって、キリストが自分の心の内に入られて、様々な物事に対する捉え方も異なって来ます私は例え困難な目に遭おうとも、キリストに私の盾となって頂き、神に身を避けさせて頂き、また怒りを示す時にも主に私の力になって頂きます。主に在って誇りたいと思います


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