天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

自力・他力、あなたはどっち?

2016-11-24 19:16:10 | Weblog

自力本願、他力本願という言葉を聞いたことがある方はいますか?
それこそどっちかというと有名なのは「他力本願」の方で、自力本願というのは聞いたことがない、という方も多いかもしれません。

確かに自力本願というのは多用されていません。他力本願という言葉の方があまりにも有名なので、それに対する対義語または反対語です。
つまり、他力の反対であるから「自力」他人や何かを充てにするのではなく、自力で物事を成す・達成するという意味を持った語です。

宗教にはこの他力か自力か、というのが時には顧みられたりします。
何故かというと、その宗教がどれほどの依存を醸しているかを見るのに良い判断材料に成るからです。

依存というのは皆さんご存知のように、何かに頼ったり充てにすることです。自分以外の物や人などに依存し充てにする。
これがつまりは他力本願というものでもあり、宗教にはその要素が意外と多かったりします。

一方他力とは違い、ほとんどを自分で行い成そうとするのが「自力」というやつです。
自分以外の物や人など充てにすることが無く、依存がない状態を指します。
数は少ないながらも宗教にはそういう自力で成そうとするものもあります。




なんで私がこの議題を出したか、というと、実は昔阿含宗内で「阿含宗は自力なのか他力なのか」と質問されたことがあります。
その質問に対し教祖は「阿含宗は両方でありどちらかというと自力の部分が多い」というような回答をされたことがあります。


当然過去の自分は何も知らない感じでしたから「そうなんだ」とそのまま受け止めた。
しかし、受け止めはしたものの実際的に長年信仰を続けてゆくうちに疑問が出てきました。


それは教祖のコロコロ変わる指導と実際的な内容に於いて、でした。



まず阿含宗の自力の面を見てゆきましょう。


阿含宗の信仰は有名な在来宗教の様に「他力オンリーではない」というのをある種打ち出しています。
なぜなら、物事というのはほとんどが行動した結果が現れるものとなっています。
ですからそれを何かを充てにして拝んだり頼るだけのことで成せるはずがないからです。

特に悪因縁を作ったのは自分でありますから、それを消すのはやはり「自分である」という考えもあります。
ですから阿含宗では信仰の決まりとして「修行」をすることを前提としています。
拝むだけ、頼るだけでは駄目だぞ、と戒められています。だから勤行と梵行は必ずしなさい。供養もしかりだぞ、と言われる。
なのでそれに沿うように信者は勤行を欠かさず行った他に、梵行と供養は努めて行うのが通例です。

つまりどこの宗教でも見られるような「拝むだけは駄目だぞ」を守る、ということですね。
ですからここが「自力な面」と言われるところですね。




ただ、そうかというと全て自力で成せるのか?というと、そういうわけにはいきません。
やはり因縁解脱するにもこの世で健やかに生きてゆくためにも、本尊の力というのを無視できないからです。



これは教義の中の事ですからちょっと判りづらいかもしれませんが、過去世での悪業を現世で修行により消そうとするのはよろしい。
しかし、過去世というのは過去の事であり時間が経っている過去の事です。

ですからそれをどうやって相殺というか滅することができるのか、です。

それを可能にするのが実は「本尊」なのです。




本尊は人間を超えた、いわば「超能力者」のような存在です。また過去に修行を終え「解脱された方」であり、「解脱する方法を知っている方」でもある。
その本尊の力を借りて過去の罪障を相殺、滅することが可能というのが教義にあるわけです。


またそれだけでなく、死者を成仏させるにあたって導師の「成仏力」も必要だが、本尊の加被も重要なのです。
つまり宗教には「本尊の力」が無ければ成せないことがあって、それ故に本尊は欠かせない存在なのですね。


だから信者は本尊を大切にするし祀るわけです。



しかし、こうなると「自力」ではなくなります。つまりはこの本尊などのお力を受ける、ということは「他力」ということです。
だから教祖は「阿含宗は両方」と最初に言ったのがここです。



ですが、その後に続く「どちらかというと自力の部分が多い」というのがありましたね。これを見てゆきましょう。




繰り返しに成りますが、阿含宗は他の宗教に見られるような「他力が大半」ということは有りません。
まず、1つが「お釈迦様自身が自力であられた」ということです。



阿含宗は看板上「釈迦の成仏法を持つ唯一の教団」ということで「本当の仏教教団」という風に言っています。
ですからお釈迦様の言動に沿った内容や行動をする、という風に見られます。

仏教開祖のお釈迦様が自力で修行をやられて居られるのに、それが他力ばかりではおかしいわけです。
ただ、お釈迦様が生きておられた時はそれで良かったが、もう亡くなられて2000年以上経っていますから、お釈迦様の代わりに様々な本尊が居る。
だからお釈迦様も拝みつつ、本尊を拝する。本尊の加被をいただき修行に役立てる、ということでその部分は後世の宿命のようなもので「他力」で補っているというわけです。

しかしながら基本はお釈迦様がおやりになられたように「自力」で歩む必要があるわけです。
ですから修行という物は他力の部分があるものの、自力も肝要であり尚且つ自力が多数を締めるようでなければいけない。
阿含宗は他力の部分もあるが、実は自力の要素が多く、信者の皆さんは大変だろうと思うが自分の行動で修行を勧めて行かなければいけない、という風に習うわけです。

拝んで結果を待っているだけの信仰ではないぞ、ということですね。




まあ、阿含宗で言うところの説明~つまり建前はこの辺で良いでしょう。
これからは「自分が思った疑問」に行きます。




先に述べたように阿含宗ではかのような物言いで信者に信仰の中身を言い渡します。阿含教学といういわば教団の「教学」ですね。それを習う。



だが、実際的に整合性がないと「おかしいな」となるのが普通です。
それをどこかで誤魔化したり、深く考えないで済ませてしまう。信者の悪い傾向です。
これを「自己都合解釈」といい、別称「自己洗脳」とも言います。
自分で自分の都合のいいように物事を解釈してしまうのです。


では、何が変か?というと、長年信仰をしているとどうも阿含宗のアラが見えてくるわけです。
そして先に言った「自力が大半」というのが逆であって実際は「他力が多い」のが分かってきます。



何故かというと理由は2つあります。
1つは「宗教は頼って何ぼ」という面があるというのと、もう1つは「教祖の一致しない言動が原因」というのがあります。


「宗教は頼って何ぼ」というのは宗教を講じたことがある人、つまり経験者は分かると思いますが、詐欺的宗教の特徴は

「信者にあれこれ考えさせないで教団や教祖に依存することを促す」ことで成り立っているのがあるからです。



なんでそういうことを、と思うでしょうが宗教の大半は詐欺です。騙して儲けるのが目的だからです。
それに対し何でもかんでも疑問を持って疑って掛かられたら、騙そうとしているのがバレるからです。
だからそういう人間よりも素直で何でも「はい」と聞く人間が欲しいわけです。疑わず従うだけの人間が欲しいわけです。
なので深く考えるとか考察・検証されると詐欺宗教は「非常に困る」し「嫌がる」のです。



だからできるだけ信者には「深く考えず黙って従うように」仕向ける。教祖や教団に頼ってくるように促すわけです。




だってそうでしょう?何でもかんでも自分でやってしまえたら宗教なんて要りません。教団も教祖も「クソくらえ」になってしまう。
それでは教団が成りたってゆきません。潰れてしまう。

だから教団は信者にいろんなアプローチで語りかけ「教祖と教団・本尊は皆さんの味方ですよ」とやるし言う。
つまりは「宗教は頼って何ぼ」に巻き込むんですね。



次に「教祖の一致しない言動が原因」です。


これは阿含宗に居て経験してないと分からない事項ですが、長年在籍していたのと初代教祖が現役で活躍していた時に自分らは居ましたからそこがよくわかるわけです。


なぜなら後年入信した人ならリアルタイムで経験してないので話をしても書物などで教祖の言動を確認できても、ピンとこない。
どこか「おとぎ話」でも聞いているかのような反応で終ったりもする。

だから詐欺被害に遭ったのは嫌な事項だが、リアルで経験したというのは有る種私達の「強みである」ともいえるわけですね。




教祖はサイコパスでもあり、かなりの妄想家です。ですから言っていることがかなり変わったりする。
嘘を平気で付きますから、どれが嘘でどれが本当か分からないことが多々あります。
ですからよく教祖の言動を記録し、それを元に検証や考察をするようにしないと教祖の嘘が「真」になったりもするのです。


特に注意すべきは教団内にはこびっている「絶対服従」の流れです。いわゆる教祖の言う事は絶対なのです。
ですから右を向けと言えば右を向かねばならないというようになっている。


だから教祖が「何々をやりなさい」といえばそれが流行る。もちろん教団内だけのことではありますが、信者が何十万人もいるわけですからその大半が真似たら相当な力に成る。
阿含宗はそうやって成りあがってきた教団ですから、それがかなりのエネルギーであるわけです。



そこで教祖の言われたことが実は自力ではなく「他力」であったというものです。

それが特に顕著なのが「真言行」と「輪廻転生瞑想法」とその他供養系にみられるものら、です。



真言行は本尊である「ジュンテイ如来」の真言を一日最低100回は唱えるという物ですが、上限は有りません。
とにかく異常な程に唱えるというものです。

本尊のお力をいただけるように日々努力もするが、真言も物凄く回数を唱える。
心を込めて唱えるのは尚いいが、ひたすら唱え続けることでお力をいただけるのだと。

当時は訝しく思ったが「教祖の指導だ」というのでやってみたが、次第に疲れて止めました。

というか、自分の中でこの様に思ってたわけです。


「指導だと言うが、このような有様はまるで念仏やお題目と変わりないではないか」


あと、もう1つこういうのも有りました。
これは私が入信して二年くらい経ったころに知り合った信者さんとの会話です。


勤行について色々話をしていた時のことです。



勤行次第にはジュンテイ真言は中ほどに10唱。ラスト辺りに10唱という風になっているのですが、それに対してこのように話がでました。


「信者の中で勤行の中に出て来る本尊の真言を30唱とか数を増やしている信者が居る」


こういうことについて話が出たわけです。



するとその信者さんの御宅は阿含宗の前身である「観音慈恵会」の頃から行をやっている方ですから、古い時期の教えを知っているわけです。
そこでこういう話が出た。


「真言は必要な数を唱えればいいのであって、馬鹿みたく何度も唱えるものでは無い」というのがあったそうです。



観音慈恵会というのは阿含宗の前身ですから、当然教祖も阿含宗の初代教祖「桐山靖雄」です。
ですから教祖が当初そのように言われていたのに、数年後には「狂ったように唱える」のを勧めているわけです。


これは教祖がよくやる「言動が一致しない」というやつの一辺ですが、その他にもまだあります。
(まあ、今回はそれらをあげつらうスレではないでの挙げませんが)



だから、阿含宗にはこういうのが結構あるわけです。






次いで「輪廻転生瞑想法」というやつは教祖が後年頭がおかしくなって打ち出したものです。
これについては何度か持論を書かせていただきましたので詳細は省きますが、阿含宗の理念と隔たるものです。




何故かというと阿含宗では因縁解脱を目標とし、仏陀に成り涅槃へ入るのが目的です。
つまり涅槃は入るということは輪廻しないことを意味します。


ところが「輪廻転生瞑想法」は「輪廻を楽しもう」が如く「輪廻先を選択したり良い物にできる」という内容です。
いわゆる来世をコントロールできるというものですね。


しかし、そういう物は一切釈尊は説いてない。過去に教祖もそういうことを言ってないのに「急に言い出した」のです。
理由はわかります。教祖がボケすぎて思考さえも壊れたのです。もしくは自分が「そうでありたい」と望みすぎてその妄想が酷くなってしまった。


いづれにしても馬鹿げた理屈と内容です。尚且つその成果を得るのに「一日一回元気に笑うこと」ということです。
だから批判側は皮肉を込めて「アニマル浜口さんなら阿含宗をやらずとも来世は自由自在だな」と言ったのがよくわかりますね。





だからどこをどう考えても、ありえないのを人生の最後辺りに言いだした。自分が辞めようと思った頃にです。




後は供養系なるものですが、これらは元から自力系ではない。なので左程説明する必要は無いでしょう。
冥徳墳墓とかその系のものです。これらは自力ではない。だから現れているのを見て「自力系ではないから何だか」と思っていた。





私は自力系を好んでいいたわけでは有りません。ただ自分の家の宗派である「浄土真宗」には異を感じていた。


なぜなら「南無阿弥陀仏」で成仏できる、というのに納得できなかったからです。





確かに簡単で楽でいいです。また浄土は作法に煩くもなく尚且つ供養金も少ない。また阿含宗のような修行もない。
檀家に優しい宗派であることは間違いない。




だが、如何にも時代遅れなのと阿弥陀様は架空の存在です。なので仰げなかった。




しかし本当の仏教もしっかり学んだら、ジュンテイ如来も大日如来も不動様も観音様も釈迦如来以外は皆「架空」だったとはさすがに参りましたね。






結局、阿含宗で習ったことの大半は嘘ばっかりであり、それを長年信じてきたわけです。
その結果、ほとんど意味のない物に力と金を時間を費やしてきただけでした。


またその中で「自力だの他力だの」で良いように遊ばれた。騙されたわけです。




そして改めてしっかりとお釈迦様を見れば「自力オンリー」なわけです。
ああ、最初から本物で嘘が無かったのは「お釈迦様だけ」だったのか。

無知な自分を顧みて、泣きながら反省したのはここでしたね。





だから阿含宗の「自他力両方だ」なんて、ていのいい嘘です。
本当の仏教は「自力のみ」です。そして嘘がない。




だから他力ばっかりだったり、仮に自力が多少あっても嘘が混じっているものは本物とは言わないわけです。
お釈迦様には嘘がないのです。




そういうわけで、嘘の判断というのが一般の人には中々見つけられないし分からない。
だから騙しに遭う、というのはあり得ることです。


ですが、そういう中良く調べて判断をするようにすれば、騙しからの回避ができたりする可能性も増えると思います。
特に阿含宗に関して分からない場合は、批判側の方に聞けば良い回答を得れます。

分からなければ聞く。当たり前のことですが、そのことをすることで理解を深め詐欺から脱出できる。そのように思います。





今日はここまで。