では早速、前回の続きに参りましょう。
私が終わりころに言った内容は・・・もうこのブログを長年お読みの方はおわかりですよね?
といっても長年見てない方はわからないので、やはり解説をいたしましょう。
占いの結果に一喜一憂するのではなく、自分を信じて生きることをする。
このことはどこから来たのかというと、実は阿含宗の欺瞞を知らないで入信していた自分が2008年ころに本当の仏教を知るきっかけが生じた。
そこで阿含宗の欺瞞と本当の仏教を知ったわけですが、本当の仏教、つまりお釈迦様の言われた言葉の中にそういうものがあったのです。
それでそのような方向に自分を修正した、ということですね。
もちろん知ったからと言って即日修正ができたわけではありません。
時間をかけて修正し自分を変えてきたわけです。
思えば、自分が阿含宗が占いを用いることに違和感を覚えなかったのは「占いが好き」という考えと心があったからです。
もしも自分が生まれつき「占いが嫌い」であったなら、必ず違和感を覚え疑ってかかったでしょう。
あと本当の仏教を知ってわかった事実があります。
それはお釈迦様自体が「仏教では占いを禁止していた」という事項があったということです。
何でかというと今まで語ったことに理由があります。
占いは良しにつけ悪しにつけ、人にさまざまな景況を与えます。
また心身のコントロールができない人ほど、その影響を受けやすい。
仏教では何を修行するかというと「仏陀になって最終的には涅槃へ入ること」です。
そして仏陀になるためには「煩悩を無くす必要」があります。
その煩悩を消す・起きないようにするために死ぬまでその作業を行うわけですが、かなり大変な作業なわけです。
そして消す・起きないようにするのが目的ですから、生きている最中は死ぬまで煩悩が発生するような行動をしないわけです。
それが仏教の中に戒としてもあるわけです。禁止事項と言っても良い。
その禁止事項の中に「占い」が含まれていたんですね。
私は当時「うーん。お釈迦様もそこまで禁止していたのは知らなかったが、厳しすぎない?」と思いました。
それこそ五戒の中の「不飲酒」というのがありますが、これも個人的に「厳しくないか?」と思っています。
だけど酒にまつわる事項で色々トラブルが現在の世の中にも起きているし、過去の歴史でも世界中にやはりそういうのはある。
酒によることで間違いを犯したり、失敗・失態をしているなどがやはりあるわけです。
そうなると仏教としては禁止である、とするのは当然です。
尚且つ酒は飲まなくても「死なない」わけですからね。
煩悩を発生させたり間違いを起こすようなことをするものは、お釈迦様は前もって禁止事項としていたわけです。
だから占いは私が前に説明したように、良しにつけ悪しにつけ、問題を醸す場合がある。
だから「仏教的に駄目だから」というのが1つ。
他にはこういうのがあります。
占いには限界というのがあります。
これは私が経験したり調べた結果わかったことですし、実際やっている人もわかっている事項です。
つまり占いはどんなに良く当たる占いでも「必ず100%当たる、というものではない」ということです。
そうなると占いは完全でないゆえに、当てにできないともいえる。
また完全に当たるのならどんなに逆らっても駄目となり、占いはこの世を支配し絶対的な影響を与える脅威ともなる。
そんなバカな話はないものです。
また占いの限界を補うとしたら「宗教の介在になってくる」というのがあります。
どういうことか説明します。
例えばある人があまりにも運が悪く不幸続きなことが起きて相談した。
占いで見ると確かに運気の悪い時期に入っているのが見える(わかる)わけです。
そうなると「確かにあなたは運が悪いですね。良くないことばかり遭遇してますしね」と回答する。
ならば相談する人はそのことをどうにかできないか、と大抵は言ってきます。
そうですか、だけでは終わりません。
ところが占いでは「不幸の改善の示唆」は「ない」のです。
占いというものは運命の軌道や中身などを把握したり予見・網羅はします。
だが、解決する方法とかは無いのです。
あれ?占いってよく言うじゃない。
何々を持てば運気が改善とか、のやつ。
それは色だったり食べ物だったりアイテムだったりおまじないではないが、何かの行動をすることで良くなるとかを。
実はそれは占いの中には「ない」のです。
だが、実際的に改善策を言ったりする人がいるのですが、それは「その人らが考えて与えた示唆」なのです。
つまり占い自体には知ったり見たりするものは有るが、それ以上が無いんです。これが占いの限界でもあり、特性です。
だから占いをして悪い結果がわかったとする。するとそれに対すると答えはないから
「運が良くなるまで待つしかないですなあ」などで終わりです。
だが、これでは占いはある種残酷でもあり不完全すぎるわけです。
それを補うために過去の人たちはどうしたか?
運気を良くしたり改善できる方法を模索し、与えたわけです。
ところがこれは結局、行った結果効く場合もあれば効かない場合もあるわけです。
だから如何に欠点を補い、示唆をしても駄目な場合もある。
それは占いに無い事項ですし、欠点ですからそのようなのはある。
だが、放置できないから考えて色々挑むわけです。
そのことが講じた結果、宗教的な意味合いや要素を加えた人がいるのです。
それは私が考察した結果ですから、そのように言う人は少ないですが、現実的にそういうのがありますから嘘ではない。
先の例を用いるとこのようなことがあります。
ある人がどうも不幸続きである。占いで見てもらったらやはり占いでもその様相が出た。
で、その改善は、と言われ回答したのは、
「あなたの先祖に不幸な亡くなり方をした人がいて、その人が良くない影響を与えている」というわけです。
ね?良く聞くセリフでしょう?
または死んだ人を持ち出さないとしてもこういうのも言う人がいます。
「住んでいる土地が悪い」
「持っている物が悪い」
「方角が悪い」
その他もありますが、きりがないのでやめます。ですが、いろんなことを言ってそれらが悪い影響の原因だと。
特に阿含宗なんかは「悪因縁のせいだ」というわけです。
では、それをどうすればいいのか、というと占いだけの回答ですと「ない」で終わりです。
だって占いは人生の軌道を見るアイテムです。占うだけで解決策は出せないのが常ですから。
だから占いとは別なものを出す必要があるが、それで補うしか方法が無いのです。
そしてまじない的なもの、オカルト要素だったり宗教だったりするわけです。
それで完全に解決できなくても、方法の示唆をしないで終わりでは味気ない。
なので、そのようにするわけです。
またこれも考えられる。
宗教自体が占いを用いたとしたらどうか。
占いを利用して解決策をプラスすれば、自然にその宗教に導けるわけです。
実際、そういう教団は阿含宗以外にもありますね。
というか阿含宗は後発な教団ですから、阿含宗ではない別所が先に以前からそういうのを行っていた教団があるわけです。
それを阿含宗は真似たわけです。
私も占い師になろうとして励んだことがあります。
そして占いをしてさほど内容が深刻でない人はいいのですが、深刻な人に対して「しょうがないですな。あなたの人生はそうなのだから」とは言えない。
占いではそれまでなので言いようがなく困ったことがあります。
で、そこからが「宗教の出番」なのです。
阿含宗では先祖供養の他、悪因縁を切ることができる。それを行えば運が悪いのを改善できますよといえば、困っている人は応じたくなるのは必至です。
確かにそういっても「宗教かあ」といって応じない人もいます。
ですが、藁をも掴みたい人はやはり「応じる」ものです。
だから逆になるが、宗教を抜きにすると占いは非常に残酷です。頼りないともいえる。
運気が悪い、または運気が悪くないのに不幸が続く、などの相談には無力ですからね。
だから仮に宗教でなかったとしてもオカルト的なことを言ってやらせようとする。
または霊感を以って何かを示唆したり、などもある。
いづれにしても占いの限界を補う行為だというのはわかりますね。
だから、占い自体は私は色々あっても個人が考え好きになるのは構わないと思う。
ましてや仏教を本格的にやろうとか奉じるのでなければ、別に戒を守る必要もないし。
だが、問題なのは占いを以って人の心や人生に付け込んでくる。または悪用する輩がいることです。
それには注意すべきなのです。
へたに占ってやけに当たる。それが嵩じて何でも占い様様になる。
そこでいいことだらけなら良いが、運が悪くなったり不幸続きが出たらどうか?
占いで示唆されたことを信じて行ってしまう、従ってしまうではないかということです。
だから前に言った「良いことは信じるが、悪いことは信じない」は悪いが「生半可」なのです。
要は「悪いことを改善したくて従ってしまう。信じてしまう」のです。
そして悪いことを企むやつらの餌食になるわけです。
こと阿含宗で見てゆくと阿含宗は「原始仏教教団」であり、「お釈迦様の正しい教えを奉じ講じることのできる教団」です。
ですが、見てごらんなさい。お釈迦様が禁止した事項を「平気でやっている教団」です。これが正しい教団と言えますか?
というか随分矛盾している、支離滅裂な教団だな、となるでしょう。
それはそうです。本当の仏教教団なんてのは嘘で、詐欺宗教ですからね。
人を騙すのが目的ですから、嘘ばっかりなのです。
あと細かいことを言うと密教占星術というのは名称だけで中身は違います。
正しくは「九星気学」という占いです。つまり名称だけ立派な別物をあてがって中身は「別な占い」で往なしているのです。
尚且つ開祖の言った事項は方便だらけです。
例えば密教占星術では人の因縁がわかる、と言っていますが、そういうのはない。
人の運勢や運命の軌道を見るには別な占いが必要です。
それを用いてやっているのですから、公言したことは嘘っぱちになります。
また密教占星術というのは正しくは「宿耀占星術」であり、これは「宿耀」という生まれた人の該当する星の内容を調べ、把握する占いであります。
だからこれを以って「その人の因縁がわかる」というのも嘘です。
だからそれを一言で分かりやすくいうと
阿含宗開祖は人々を騙すにつき様々な嘘を網羅し継ぎはぎにして述べた、ということです。
世の人の多くは本当の仏教の内容も知らない。ましてや占いに於いても同様です。無知な人が多い。
だから如何様に嘘をついても「本当だ」と信じて従う人が多いわけです。
実際、それらが功を奏して過去に絶大な入信者を得たことがあります。
また現在に於いても最盛期には及ばないが、少人数でも人を騙しているのを継続中です。
そういう有様なのです。
だから総括して言うと
占いの種類も違う。名称で騙している。
占いの限界を宗教にて補っている。
尚且つお釈迦様が禁止した事項なのに、わざと使いやっている。
教団はおろか信者にまでやらせている・教えている有様です。
こう言う教団が「本当の仏教」とは冗談が過ぎます。
だからタイトルの「占いが孕む危険性」と題してやってきましたが、そういうことなのです。
占い自体は私は悪いものだとは思いません。ましてや一般人が好こうが嫌おうが、それは勝手だとさえ思う。
占いをやっている人だってそうです。
占いをする人全員が嘘をつき、詐欺を働いているなんて思わない。
ただ、世の中には阿含宗のように嘘をつき、騙しに走るところがある。
騙しの手口に占いを用いている。そういうところがあるんだ。
または個人的に占いをしても阿含宗に近いようなことをしている人もいるでしょう。
そういうのには本当に注意をし、騙されない。
そして一番いいのは占いなど当てにしなくても生きてゆける体制や環境、心が必要だということです。
占いはあくまで参考に、です。そして深く感じ入らない。
私はそのように生きています。
これである程度語りましたので、占いの章は終わります。
また次回からは違うものに移りたいと思います。それでは。
私が終わりころに言った内容は・・・もうこのブログを長年お読みの方はおわかりですよね?
といっても長年見てない方はわからないので、やはり解説をいたしましょう。
占いの結果に一喜一憂するのではなく、自分を信じて生きることをする。
このことはどこから来たのかというと、実は阿含宗の欺瞞を知らないで入信していた自分が2008年ころに本当の仏教を知るきっかけが生じた。
そこで阿含宗の欺瞞と本当の仏教を知ったわけですが、本当の仏教、つまりお釈迦様の言われた言葉の中にそういうものがあったのです。
それでそのような方向に自分を修正した、ということですね。
もちろん知ったからと言って即日修正ができたわけではありません。
時間をかけて修正し自分を変えてきたわけです。
思えば、自分が阿含宗が占いを用いることに違和感を覚えなかったのは「占いが好き」という考えと心があったからです。
もしも自分が生まれつき「占いが嫌い」であったなら、必ず違和感を覚え疑ってかかったでしょう。
あと本当の仏教を知ってわかった事実があります。
それはお釈迦様自体が「仏教では占いを禁止していた」という事項があったということです。
何でかというと今まで語ったことに理由があります。
占いは良しにつけ悪しにつけ、人にさまざまな景況を与えます。
また心身のコントロールができない人ほど、その影響を受けやすい。
仏教では何を修行するかというと「仏陀になって最終的には涅槃へ入ること」です。
そして仏陀になるためには「煩悩を無くす必要」があります。
その煩悩を消す・起きないようにするために死ぬまでその作業を行うわけですが、かなり大変な作業なわけです。
そして消す・起きないようにするのが目的ですから、生きている最中は死ぬまで煩悩が発生するような行動をしないわけです。
それが仏教の中に戒としてもあるわけです。禁止事項と言っても良い。
その禁止事項の中に「占い」が含まれていたんですね。
私は当時「うーん。お釈迦様もそこまで禁止していたのは知らなかったが、厳しすぎない?」と思いました。
それこそ五戒の中の「不飲酒」というのがありますが、これも個人的に「厳しくないか?」と思っています。
だけど酒にまつわる事項で色々トラブルが現在の世の中にも起きているし、過去の歴史でも世界中にやはりそういうのはある。
酒によることで間違いを犯したり、失敗・失態をしているなどがやはりあるわけです。
そうなると仏教としては禁止である、とするのは当然です。
尚且つ酒は飲まなくても「死なない」わけですからね。
煩悩を発生させたり間違いを起こすようなことをするものは、お釈迦様は前もって禁止事項としていたわけです。
だから占いは私が前に説明したように、良しにつけ悪しにつけ、問題を醸す場合がある。
だから「仏教的に駄目だから」というのが1つ。
他にはこういうのがあります。
占いには限界というのがあります。
これは私が経験したり調べた結果わかったことですし、実際やっている人もわかっている事項です。
つまり占いはどんなに良く当たる占いでも「必ず100%当たる、というものではない」ということです。
そうなると占いは完全でないゆえに、当てにできないともいえる。
また完全に当たるのならどんなに逆らっても駄目となり、占いはこの世を支配し絶対的な影響を与える脅威ともなる。
そんなバカな話はないものです。
また占いの限界を補うとしたら「宗教の介在になってくる」というのがあります。
どういうことか説明します。
例えばある人があまりにも運が悪く不幸続きなことが起きて相談した。
占いで見ると確かに運気の悪い時期に入っているのが見える(わかる)わけです。
そうなると「確かにあなたは運が悪いですね。良くないことばかり遭遇してますしね」と回答する。
ならば相談する人はそのことをどうにかできないか、と大抵は言ってきます。
そうですか、だけでは終わりません。
ところが占いでは「不幸の改善の示唆」は「ない」のです。
占いというものは運命の軌道や中身などを把握したり予見・網羅はします。
だが、解決する方法とかは無いのです。
あれ?占いってよく言うじゃない。
何々を持てば運気が改善とか、のやつ。
それは色だったり食べ物だったりアイテムだったりおまじないではないが、何かの行動をすることで良くなるとかを。
実はそれは占いの中には「ない」のです。
だが、実際的に改善策を言ったりする人がいるのですが、それは「その人らが考えて与えた示唆」なのです。
つまり占い自体には知ったり見たりするものは有るが、それ以上が無いんです。これが占いの限界でもあり、特性です。
だから占いをして悪い結果がわかったとする。するとそれに対すると答えはないから
「運が良くなるまで待つしかないですなあ」などで終わりです。
だが、これでは占いはある種残酷でもあり不完全すぎるわけです。
それを補うために過去の人たちはどうしたか?
運気を良くしたり改善できる方法を模索し、与えたわけです。
ところがこれは結局、行った結果効く場合もあれば効かない場合もあるわけです。
だから如何に欠点を補い、示唆をしても駄目な場合もある。
それは占いに無い事項ですし、欠点ですからそのようなのはある。
だが、放置できないから考えて色々挑むわけです。
そのことが講じた結果、宗教的な意味合いや要素を加えた人がいるのです。
それは私が考察した結果ですから、そのように言う人は少ないですが、現実的にそういうのがありますから嘘ではない。
先の例を用いるとこのようなことがあります。
ある人がどうも不幸続きである。占いで見てもらったらやはり占いでもその様相が出た。
で、その改善は、と言われ回答したのは、
「あなたの先祖に不幸な亡くなり方をした人がいて、その人が良くない影響を与えている」というわけです。
ね?良く聞くセリフでしょう?
または死んだ人を持ち出さないとしてもこういうのも言う人がいます。
「住んでいる土地が悪い」
「持っている物が悪い」
「方角が悪い」
その他もありますが、きりがないのでやめます。ですが、いろんなことを言ってそれらが悪い影響の原因だと。
特に阿含宗なんかは「悪因縁のせいだ」というわけです。
では、それをどうすればいいのか、というと占いだけの回答ですと「ない」で終わりです。
だって占いは人生の軌道を見るアイテムです。占うだけで解決策は出せないのが常ですから。
だから占いとは別なものを出す必要があるが、それで補うしか方法が無いのです。
そしてまじない的なもの、オカルト要素だったり宗教だったりするわけです。
それで完全に解決できなくても、方法の示唆をしないで終わりでは味気ない。
なので、そのようにするわけです。
またこれも考えられる。
宗教自体が占いを用いたとしたらどうか。
占いを利用して解決策をプラスすれば、自然にその宗教に導けるわけです。
実際、そういう教団は阿含宗以外にもありますね。
というか阿含宗は後発な教団ですから、阿含宗ではない別所が先に以前からそういうのを行っていた教団があるわけです。
それを阿含宗は真似たわけです。
私も占い師になろうとして励んだことがあります。
そして占いをしてさほど内容が深刻でない人はいいのですが、深刻な人に対して「しょうがないですな。あなたの人生はそうなのだから」とは言えない。
占いではそれまでなので言いようがなく困ったことがあります。
で、そこからが「宗教の出番」なのです。
阿含宗では先祖供養の他、悪因縁を切ることができる。それを行えば運が悪いのを改善できますよといえば、困っている人は応じたくなるのは必至です。
確かにそういっても「宗教かあ」といって応じない人もいます。
ですが、藁をも掴みたい人はやはり「応じる」ものです。
だから逆になるが、宗教を抜きにすると占いは非常に残酷です。頼りないともいえる。
運気が悪い、または運気が悪くないのに不幸が続く、などの相談には無力ですからね。
だから仮に宗教でなかったとしてもオカルト的なことを言ってやらせようとする。
または霊感を以って何かを示唆したり、などもある。
いづれにしても占いの限界を補う行為だというのはわかりますね。
だから、占い自体は私は色々あっても個人が考え好きになるのは構わないと思う。
ましてや仏教を本格的にやろうとか奉じるのでなければ、別に戒を守る必要もないし。
だが、問題なのは占いを以って人の心や人生に付け込んでくる。または悪用する輩がいることです。
それには注意すべきなのです。
へたに占ってやけに当たる。それが嵩じて何でも占い様様になる。
そこでいいことだらけなら良いが、運が悪くなったり不幸続きが出たらどうか?
占いで示唆されたことを信じて行ってしまう、従ってしまうではないかということです。
だから前に言った「良いことは信じるが、悪いことは信じない」は悪いが「生半可」なのです。
要は「悪いことを改善したくて従ってしまう。信じてしまう」のです。
そして悪いことを企むやつらの餌食になるわけです。
こと阿含宗で見てゆくと阿含宗は「原始仏教教団」であり、「お釈迦様の正しい教えを奉じ講じることのできる教団」です。
ですが、見てごらんなさい。お釈迦様が禁止した事項を「平気でやっている教団」です。これが正しい教団と言えますか?
というか随分矛盾している、支離滅裂な教団だな、となるでしょう。
それはそうです。本当の仏教教団なんてのは嘘で、詐欺宗教ですからね。
人を騙すのが目的ですから、嘘ばっかりなのです。
あと細かいことを言うと密教占星術というのは名称だけで中身は違います。
正しくは「九星気学」という占いです。つまり名称だけ立派な別物をあてがって中身は「別な占い」で往なしているのです。
尚且つ開祖の言った事項は方便だらけです。
例えば密教占星術では人の因縁がわかる、と言っていますが、そういうのはない。
人の運勢や運命の軌道を見るには別な占いが必要です。
それを用いてやっているのですから、公言したことは嘘っぱちになります。
また密教占星術というのは正しくは「宿耀占星術」であり、これは「宿耀」という生まれた人の該当する星の内容を調べ、把握する占いであります。
だからこれを以って「その人の因縁がわかる」というのも嘘です。
だからそれを一言で分かりやすくいうと
阿含宗開祖は人々を騙すにつき様々な嘘を網羅し継ぎはぎにして述べた、ということです。
世の人の多くは本当の仏教の内容も知らない。ましてや占いに於いても同様です。無知な人が多い。
だから如何様に嘘をついても「本当だ」と信じて従う人が多いわけです。
実際、それらが功を奏して過去に絶大な入信者を得たことがあります。
また現在に於いても最盛期には及ばないが、少人数でも人を騙しているのを継続中です。
そういう有様なのです。
だから総括して言うと
占いの種類も違う。名称で騙している。
占いの限界を宗教にて補っている。
尚且つお釈迦様が禁止した事項なのに、わざと使いやっている。
教団はおろか信者にまでやらせている・教えている有様です。
こう言う教団が「本当の仏教」とは冗談が過ぎます。
だからタイトルの「占いが孕む危険性」と題してやってきましたが、そういうことなのです。
占い自体は私は悪いものだとは思いません。ましてや一般人が好こうが嫌おうが、それは勝手だとさえ思う。
占いをやっている人だってそうです。
占いをする人全員が嘘をつき、詐欺を働いているなんて思わない。
ただ、世の中には阿含宗のように嘘をつき、騙しに走るところがある。
騙しの手口に占いを用いている。そういうところがあるんだ。
または個人的に占いをしても阿含宗に近いようなことをしている人もいるでしょう。
そういうのには本当に注意をし、騙されない。
そして一番いいのは占いなど当てにしなくても生きてゆける体制や環境、心が必要だということです。
占いはあくまで参考に、です。そして深く感じ入らない。
私はそのように生きています。
これである程度語りましたので、占いの章は終わります。
また次回からは違うものに移りたいと思います。それでは。